スターゲイザー(5)

 自分の無様さは理解していた。
 上はアンダーシャツ一枚、下はスラックスのまま、早良は恋人の部屋の床に座り込んでいた。卓上には蓋を閉じたリップパレットが、傍にはジャケットとネクタイが放置されている。ちらと目をやりはしたものの、何も拾い上げる気にもならず、ただぼんやり考える。
 ――もしかすると今の俺は、無様さでは世界一かもしれない。
 欲求に背を押されて行動した後、感情の波が引いた時が最も気まずかった。ましてそれがこの無様な事態を招いたのだから、ばつの悪さと言ったらない。性急に事を運ぼうとしたのもよくなかった。集中力を欠いている時に慣れない真似をするものではない、そのことを身に染みて実感している。

 部屋には水音が響いていた。あかりが洗面台で早良のワイシャツを洗う音で、三月の夜だというのに水仕事をさせる罪悪感も今更のように募った。早良の服を脱がせながら、ベンジンを使えば落とせる、急がないと色が残ってしまうとあかりがまくし立てていたのを漠然と記憶している。自らの失策そのものよりも、あかりに服を脱がされるという事態の方が衝撃的だった。バレンタインデーのチョコレートを稼ぐ早良でも、うら若い女性に服を脱がされた経験は皆無だ。別にないままでもよかった。お蔭で随分と従順に脱がされてしまった。
 世の中の男たちは、皆、自分と同じように無様なのだろうか。ぼんやりする意識の中でそんなことを思ってみる。皆、無様だったり惨めだったりする経験を重ねながら恋をするのだろうか。むしろ、無様な目に遭わずに恋をする方法はないのだろうか。少なくとも早良は、これ以上あかりの前で醜態を晒したくないと思う。その一方で、醜態を晒しているのは今に始まったことでもないなとも、思う。
 口紅や服のプレゼントを口実にしたがる連中の気持ちが、やっとわかったようだ。どんなものであろうときっかけは必要だ。何の経験もない人間が唐突に踏み切ろうとすれば、掛けるべき言葉も浮かばず、ただ勢いと力に任せるしかなくなる。それはスマートではないし、相手を思いやっているとも言えない。そしてどうあっても、無様だ。
 早良とあかりには六つの歳の差があるが、恋愛経験は大差ないらしい。バレンタインデーのチョコレートで一喜一憂する男に、そもそもスマートな恋愛など出来るものだろうか。ホワイトデーのお返しにも散々悩み、友人の力まで借りて、その上こんな事態を引き起こしている自分に。

「――早良さん、まだその格好でいらっしゃったんですか」
 あかりの声がして、早良はふと面を上げる。
 ぼんやりしていたせいで水音が止んだのにも気がつかなかった。洗いたてで皺くちゃのワイシャツを、腕まくりをした手がハンガーに掛けている。それを鴨居に吊るし、丁寧に皺を伸ばしている。あかりの一挙一動を、気まずさと罪悪感の中で見守る。
 それでも彼女は、やはり可愛いのだと思う。
「風邪引いちゃいますよ」
 シャツを干し終えたあかりが、早良の傍に戻ってくる。水仕事の後で真っ赤になった手と腕が、目の前で動いてジャケットを拾う。そっと肩に掛けてくれる。覗き込んできた顔は、彼女の方もどことなく、気恥ずかしげだった。
「君の方こそ、寒いのに水仕事をさせて……済まなかった」
 早良がぼそぼそ告げると、あかりは笑ってかぶりを振る。
「いいんです。上郷にいた頃は、お洗濯は私の仕事でしたし……あ、うちの実家の洗濯機ってまだ二層式なんですよ。今はあんまりないですよね? だから冬場のお洗濯の辛さはこんなものじゃなかったんです」
 その笑顔が胸に痛い。彼女は外見のみならず、中身だって気配りに溢れた女性だった。早良よりは余程大人に見えた。その彼女に対して、さも年上らしくふるまって、自分が主導権を握らねばどうにもならないような気でいたのが浅薄だった。
 本当は、大した差もないのに。
「ワイシャツ、きれいになりましたよ」
 はにかむ口調であかりが告げてくる。
「乾いたらアイロンを掛けておきますから、いつでも取りにいらしてください。私、アイロン掛けは得意なんです。ご存知ですよね?」
 取り成すような言葉だと思った。だからこそ、早良も笑おうと努めた。
「そうだったな。ありがとう」
「いえ、お役に立ててうれしいです」
 言いながら、あかりは身を乗り出すようにして、早良の顔を覗く。俯き加減でいる早良は苦笑して、恋人の表情を目の端に見た。まだ笑ってくれている。
 彼女の唇には、オレンジの色味がまだ残っていた。齧りつきたくなるような色。しかし、今となってはそうも出来ない。
「さっきは、悪かった」
 溜息交じりに告げてみる。
「君にここまで世話を掛けることになるとは思わなかった。済まない」
「あの、そんな。私は……」
 あかりが気遣わしげな顔つきをする。頬がほんのり赤い。しかし捲くっていた袖を直した手の方がより赤く、早良は余計に落ち込んだ。
 呟くように言い添えた。
「君の前では、いつも失態を演じているように思う」
 せめてもう少しスマートでありたいのに。愛想を尽かされない程度に立派な大人でありたいのに、何がいけないのだろう。気が滅入る。
「でも、私だってそうですよ」
 一方のあかりは、穏やかな声で継いできた。
「私だって早良さんには、格好悪いところとか、惨めなところばかりお見せしていると思います。ホームシックで泣いてしまったこともありましたし」
 表情には照れが入り混じる。彼女の泣き顔も、泣いた後の顔も知っていることを、早良はそっと思い出す。
「そういう姿をお見せするのが恥ずかしくて嫌だったこともありました。でも今は、そういう自分を早良さんに知っていただいているのが、安心出来るんです。他の誰にも見せられない顔も、早良さんの傍でなら出来るんだって、そう思います」
 上目遣いの照れ笑いは甘えるようでもあるし、宥めるようでもある。こういう顔は自分以外の人間の前ではしないで欲しい、と早良も思う。可愛いから。
「それに、私だって、他の誰も知らないような早良さんを知っていたいです」
 あかりの言葉に、早良も面映さを覚える。そんなもの、これからずっと晒していく違いないのに――無様さも醜態も失策も、彼女はこの先目の当たりにしていくのだろう。どこまで受け止めてもらえるかはわからないが、愛想を尽かされない程度に挽回もしようと思う。
 何せ初めての恋だ。初めての恋人だ。勝手のわからないままあれこれふるまってしまうのも言ってみれば仕方のないことで、失態を演じることもあるだろう。そこからいかに学び、反省し、挽回するかが大事だ。
 だから、いつもよりも率直に告げてみた。
「俺は、君が恋人でよかった」
 囁くような声になった。
 しかし告げた直後に彼女が目を伏せたから、間違いなく届いたはずだ。
 他の誰でも駄目だっただろう。彼女でなくてはいけなかった。特にどこがという訳ではなく、全てにおいて彼女でなくてはならなかったのだと思う。
「私も、です」
 しばらくしてから、あかりはごくか細い声で応じてきた。
「私も早良さんが恋人で、本当によかったと思います」
 彼女ならそう言うだろうと思っていた。そのくせ、言われた後でやけに安堵した。言ってくれなかったらどうしようと思い、言ってもらったならもらったで、言わざるを得ない空気だったのではないかと思いたくなる。本当に、こんな些細なことで一喜一憂させられている。
 もしかすると、あかりだってそうなのかもしれない。早良と同じように些細なことでいちいち一喜一憂しているのかもしれない。そうだといい、と早良は密かに願う。
「口紅、ありがとうございました」
 あかりが視線を上げ、はにかんでみせた。
「さっき、お洗濯をしながら鏡を見て、やっぱりきれいだなって思いました。早良さんに塗っていただけて、どきどきしましたけど、うれしかったです」
「俺もだ。何とも、どきどきした」
 早良はその思いを素直に認め、あかりはくすぐったそうに首を竦める。
「私も練習しておきます。次は、自分で塗っても、早良さんをどきどきさせられるように」
 その点に関しては問題ないだろう。口紅を塗って来られただけでうろたえる自信が早良にはある。リップパレットの豊富なオレンジ、あの中のどの色も、彼女の唇をきれいに色づけてくれることだろう。
 こっくりとした濃オレンジの唇は、発色こそ幾分か落ちたものの、瑞々しさを失っていなかった。まだ未練があり、早良はあかりの頬に手を伸ばす。それで察してか、あかりは困ったような顔をした。
「駄目です。……色、移っちゃいます」
 先程も同じ理由で拒まれていた。早良は落胆したが、同時に納得もした。むしろ、なぜ言われるまで気づけなかったのかと思う。口紅を少しずつ返す、という意味に。
 あかりが早良の表情を見て、微かにだけ笑った。そしてためらいがちに語を継いできた。
「その代わりに、と言ったら変ですけど……」
「どうした?」
「……ぎゅっと、抱き締めてください」
 早良は恋人の言葉に諾々と、実に従順に応じた。今度は唇が触れないようにと、小首を傾げるように抱きついてきた彼女を、両腕でしかと抱き締める。
 ただ、忘れていたことがあった。
 アンダーシャツたった一枚越しにあかりの体温を感じた瞬間、早良はそれを思い出した。
「わ、ま、待ってくれ!」
 早良は叫んだが、あかりを引き剥がすという真似はさすがに出来なかった。だが気になって仕方がなかった。仕事の後のアンダーシャツが清潔なものであるとは言いづらい。おまけにそれ以降も冷や汗やら何やら掻いている。
 あかりはしがみつく体勢のまま、ちらと早良を見上げてきた。怪訝そうな顔をしている。聞きづらかったが、一応、聞いた。
「……その、汗臭くないだろうか」
「いいえ」
 彼女が小さくかぶりを振る。
「早良さんの匂いがします。いい匂いです」
 確かにそれは、言われた側にしてみれば非常に恥ずかしい台詞だった。

 春物のコートのボタンを、ぴっちり上まで閉めた。
 それでもワイシャツなしというのは何となく、心許なく感じた。体感温度よりもむしろ気持ちの問題なのかもしれない。コートの下はジャケット、そしてアンダーシャツ。ネクタイは丸めてポケットに入れられている。帰り道に事故に遭って病院まで搬送でもされようものなら、一生の恥になりそうな格好だった。
「冷えるから、見送りはいい」
 そう告げたのに、あかりはアパートの外までついてきた。離れがたそうにぴったりと寄り添ってくる。連れて帰りたい、と早良は密かに思う。――それにしたってもう少しまともな格好の時に、とも思うが。
 日付が変わる直前の夜空は、いつものように星の姿一つ見えない。街明かりに照らされて煌々としている。上郷の空が恋しいと、早良でさえも感じてしまう。
「春休みは戻るのか? 向こうへ」
「はい、少しだけ帰ろうとは思っています。雄輝が中学に上がるから、制服姿を見てきたいんです」
 あかりが大人びた表情で答える。星明かりではなく、水銀灯に照らされた彼女の顔に、早良は小さな光を見つける。唇の鈍い光沢。艶やかで瑞々しいその上に、星を見つけたような気がした。
 ここにあるのは小さな小さな、早良だけの星の明かりだ。
 彼女がいれば、星の見えない空の下でも、きっと迷わずに済むだろう。彼女は早良にとって、これからの未来を照らしてくれる明かりでもあるのだと思う。直接触れるまでにはまだいくばくか、距離があるものの。それでも本物の星よりはずっと近くにある。この先もただひたすらに見つめていたいと、そう思う。
 気がつけば、脈絡なく告げていた。
「俺は、君の名前も好きだ」
 真夜中の住宅街に、ひっそりと溶け込む言葉。あかりは瞠目してそれを受け止め、直後に優しい笑みを零した。
「うれしいです、早良さん」
 その返答に早良は苦笑した。コートの襟元を寄せ合わせながら、ついでに言ってみる。
「君も、名前で呼んでくれないか。その……時々でいい。慣れるまでは、思い出した時だけでいいから」
「でも、失礼になりませんか」
「俺がそうして欲しいと言っている」
 早良は照れを押し隠そうとしたが、完全に失敗していた。緩む口元で続ける。
「その方が、大人っぽい気がするから」
 もっと他にいい形容があるのではないかと、自分でも思う。スマートな言葉がこういう時こそ出てこないのが歯痒い。でも、端的に言えばそういうことだ。名前で呼び合う恋人同士は、いかにも歳相応で、いかにも大人っぽい。それは早良程度の知識量でもわかる。
 あかりが笑みを消した。
 唇に浮かんだ光が動くまで、それからしばらく掛かった。その間の逡巡は早良にはわからない。ただ、待っているのはさほど辛くもなかった。
 やがて、星が瞬いた。
「――おやすみなさい、克明さん」
 瞬間、早良は笑んだ。他の誰もが見たことのないような顔をして、思い切り笑んだ。
「おやすみ、あかり」
 それから、肌寒い肩を竦めつつ踵を返す。

 自分だけの星を見つけた。
 この上なく小さく、可愛い星だから、見失う訳にはいかない。これからはなるべく、目を逸らさずにいたい――晩熟な早良にはまだもう少し、難しいことでもあったものの。
 いつか、星ごと彼女に齧りついてやろう、とも思う。

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