こたつの外で、二人は向き合っていた。
あかりは早良の正面に、行儀よく座った。真っ直ぐに伸びた背筋とは裏腹に、表情はどこかおどおどしていた。頬が赤い。
顎を指先で軽く持ち上げると、直後、目が合った。
上目遣いの眼差し。どきりとしたのも束の間、あかりもうろたえたように睫毛を伏せ、そのまま目をつむってしまう。代わりに唇が、ほんの少しだけ開かれた。
なぜつむるのかと、早良は思う。困り果てた心で思う。
もちろん開けていられても困る。吐息が掛かるほどの距離から見つめられれば、視線のやり場に迷ってしまう。そのうちこちらの方が目を閉じたくなっていたかもしれない。
しかし彼女が目をつむれば、それはそれで非常に困るのだった。無防備過ぎた。何をされても構わないといった風情に見えた。それは思い込みに他ならないと早良自身もわかってはいたが、そう思い込みたくなるほどに隙だらけの顔を、彼女はしていた。オレンジのセーターを着た細い肩と、妙に大人びて見える短い髪が、呼吸の度にゆっくりと動く。僅かな隙間を作った唇は言葉も紡がず、ただじっと、早良の次の行動を待っている。何を待っているのか誤解したくなる。
思い込みを加速させようとする心をどうにかやり過ごし、早良は紅筆を摘み直す。筆を取った指先も、彼女の顎を掴んでいる手も、三月の夜とは思えないくらいに熱を持っている。
指先で摘むようにして、パレットから紅を拾う。選んだのはこっくりとした濃い目ののオレンジ。油彩画ならまず濃い色から塗っていくのが基本だと、筋違いの知識を働かせた上で決めた。卓上のパレットから筆先に少量を取る。思いのほか硬い。取り過ぎないように用心して筆を動かし、いよいよ唇へと運ぶ。零す心配もないのにやけに慎重な動作になる。
紅筆が震えていた。知らず知らずのうちに呼吸を止め、早良はぎこちなく指先を動かす。筆が彼女の下唇に触れる。しっとりとした部分はろくな抵抗もせず沈み込み、柔らかく紅筆を受け止めた。筆が上から下へと動けば、そこも形を変えていく。色づきながらその柔らかさを見せつけてくる。紅筆が離れればたちまち下唇の形も戻り、早良は深く息をつく。
――止めておけばよかった。
彼女の唇に紅を引く作業を買って出たのは、無謀だった。今更のように早良は悔やんだ。自分にも出来るような簡単なことだと思っていたが、そもそも彼女に触れる作業であるという点で、簡単に済むはずもなかった。見くびっていた数分前の自分が恨めしい。
大体にして早良はあかり自身を見くびっていた。彼女のあどけなさだけに着目して、その裏側に潜んでいる歳相応の顔や大人びた表情は偶然の産物だと思い込みがちだった。そちらが彼女の本質だと、どうして考えなかったのだろう。出会った日から今日まで散々に翻弄されてきたくせに。眼前でされるがままになっている彼女が、どうして子どもの姿に見えるだろう。もう口紅などどうでもいいから、とっととその柔らかい部分に直に触れてしまいたい。筆越しでしか感触がわからないのは実に過酷な拷問だと思う。
そして、あかりは空恐ろしいほどに従順だった。黙ってされるがままになっていた。唇に紅筆が触れても何も言わない。顎を掴んだ指先が震えても、早良が気を緩めた拍子、吐息をその顔に吹きかけてしまっても、僅かに瞼を動かすくらいでやはり何も言わない。かと言って眠ってしまった訳ではなく、時々苦しげに息をついたり、身動ぎをしたりして、早良の意識を混ぜ返す。
自分がどんなことをしても、彼女は従順なのかもしれない。諾々と受け入れてみせるのかもしれない。そんな考えがふと浮かび、早良は罪悪感に苛まれる。事実そうなのだと思う。あかりは早良に全幅の信頼を寄せてくれている。言葉巧みに誑かすことも不可能ではないだろう。それをせずにいたのは、早良が彼女に対して口下手だからという理由だけではない。信頼されているからこそ、自らの失策によってその信頼を損なうことを避けたいと思っている。年長者として、大人として、恥じない存在でありたかった。分別を支えるには十分な理由だ。
しかし、彼女が大人だとしたら。
それは必要な分別なのだろうか。
彼女が従順なのは、無知だからではないのだとわかっている。それなら彼女は、こちらが何らかの行動を取った時、その裏側に潜む心理的な志向も理解してくれるのではないだろうか。こちらの意思に同調してくれるのではないだろうか。従順に、柔らかく、受け止めてくれることを、自然と期待したくなる。
紅筆を持ちながら、思う。とても思う。歳相応の関係になりたいと。そう思うに至る過程は短く、単純に、ひらめきのように望んだだけだった。心底から湧き起こる欲求だった。
唇はキャンバスよりもずっと柔らかい。たびたび筆先を取られ、色を塗るだけでも酷く手間取った。呼吸を止め過ぎて眩暈がするほどの時間が経った頃、ようやく下唇の色を塗り終えた。
濃いオレンジの口紅は、彼女の下唇をつややかに見せていた。早良が塗りやすいようにと意識してか、少しばかり突き出された唇は、そのまま零れ落ちてくるのではないかと思うほど瑞々しい。齧りつきたくなる衝動を堪えるのは容易ではなかった。
残る上唇にも色をつけなくてはならない。間を持たせる為だけに声を掛けてみる。
「もう少しで終わる。もうしばらく、我慢してくれ」
「……はい」
あかりの返答はかすれて聞こえた。しばらく言葉を発していなかったせいか、それとも彼女の方も少なからず緊張しているのだろうか。伏せられたままの瞼が白い。睫毛の影も落ちている。
紅をまた僅かに取り、筆を彼女の唇へと運ぶ。
息を潜めているせいか、まだ指先が震えていた。そして紅筆の先が滑った。上唇の先端をかすめるように、つるりと。
「あっ」
彼女は息を呑み、小さな声を上げた。それは別に何ということもない叫び声に過ぎなかったが、早良の意識を吹っ飛ばす力は優にあった。
瞬間、思考回路に高圧電流が流れ込む。過電流にヒューズが素早く溶断される。意識が飛ぶ。筆を摘んだ指先は静止し、早良自身もふつりと動きを止めた。喉だけが音を立てて鳴った。
早良の動揺に気付いたか、あかりが久し振りに目を開けた。電灯の光を眩しげにしながらも、恥らう口調で告げてくる。
「ご、ごめんなさい。ちょっとくすぐったくて……」
しかし一度切れたヒューズはどうにもならない。早良はぎくしゃくと視線を逸らし、呼吸を整えようとする。上手くいかなかった。
気を落ち着けるまでに二十秒掛かった。
「大丈夫だ。こっちも驚いただけで」
不自然な沈黙の後、たどたどしく応じる早良をどう見たのだろう。あかりが眉尻を下げる。
「すみません」
「気にしなくてもいい」
動揺を押さえ込もうとすると、どことなく無愛想な物言いになった。深呼吸を不器用に繰り返し、やっとの思いで語を継ぐ。冷静なつもりで。
「……続けるぞ」
あかりは黙って頷き、また無防備に目をつむる。
静かな部屋が、かえって集中の妨げになるものだとは今日まで思いもしなかった。
耳が痛くなるくらいの静寂は、押し殺した互いの息遣いを際立たせる。指先の間接が動く音、瞬きする時の睫毛の音、僅かな身動ぎの際の衣擦れの音――全てが容赦なく聞こえてしまう。そのうち鼓動まで漏れ聞こえてしまうのでないかと危惧している。
上唇と下唇の形状の違いを意識したのも、今日が初めてかもしれない。つんと尖った先端部は筆先を嫌がるように逃げ、あかりはくすぐったさからか眉根を寄せる。ものを考える余裕もなくなってきた早良は、ほぼ機械的に筆を動かした。
彼女の唇がどこもかしこも色づいたのを見計らい、早良は紅筆を置いた。
代わりにあかりがリップパレットへと手を伸ばす。付属の小さな鏡を覗き込み、唇の具合を確かめ、それからはにかみ笑いを浮かべた。
「きれい……。早良さん、お上手ですね」
早良は黙ってかぶりを振る。誉め言葉を探そうと思うのだがあいにくと見つからず、どっと押し寄せる疲れに抗おうと息をつく。まともな呼吸の仕方さえ忘れてしまったようだ。
「でも、ちょっと大人っぽい感じがします」
あかりがオレンジの唇を動かす。瑞々しい唇に、電灯の光が鈍く反射している。彼女の視線がこちらに動き、おずおずと尋ねてきた。
「あの、早良さんは、こういう色がお好きなんですか」
好きかどうかなんて考えてもみなかった。早良はただ単に絵画のルールを化粧に持ち込んだだけで、実のところ何もわかってはいないのだ。
しかし問われたからには答えなければならない。彼女の唇を、そこから繋がる彼女の姿を眺めやり、そして改めて思う。大人っぽいのはその口紅の色ではない。
そういえば、彼女の着ているセーターもオレンジ色だった。
齧りつきたくなる色だった。
のろのろと手を伸ばしてみる。両肩を掴んでみる。彼女が一瞬びくりとして、それでも逃げないのを見て取るや手に力を込め、ほぼ同時に顔を寄せた。
更に至近距離から注視する。唇だけが色づいた顔立ちはアンバランスでもあったし、そのアンバランスさが逆に自己主張を繰り返しているようにも見えた。確かに目を惹きつけた。視線を感じてか、彼女が唇を動かした。
「早良さん……」
吐息の中に名を呼ばれ、胸の奥で何かが軋んだ。自分の求めるもの、欲するものがわかったような気がした。
多分、それは、
「……あかり」
名を呼び返すと、彼女はうろたえた様子だった。既にほんのり染まっていた頬が一層赤らみ、瞳は瞠られたまま潤んでいる。可愛い、と早良は思う。
可愛いという形容は実のところあまり正しくないのかもしれない。今の彼女はあどけなさが影を潜め、大人びているようにも、艶っぽくも映った。しかしその場合、何と告げるのが正しいのか。単純な言葉一つで足りるのだろうか。いくつの言葉を重ねれば、胸の内を誤りなく表すことが出来るのだろう。
考えてみても思い浮かばず、早良は、とりあえずの行動に出た。
瑞々しい彼女の唇に、自分の唇を寄せた。
「きゃっ」
小さな悲鳴が上がり、あかりが身を引いた。キスを拒まれたことに気付いて、早良の思考回路は改めて、呆気なくショートした。いつもなら考えられることも考えられないほどに。
例えば、彼女がどうしてキスをしたがらなかったのか。そこまで考えることが出来ず、今更引くにも引けず、ついでに若干むきにもなった。抑え切れない感情に背を押され、性急に行動に移った。
両手に思い切り力を込め、勢いよくあかりを抱き寄せる。両腕で胸元に引き寄せ、潰さんばかりに掻き抱いた。
直後、腕の中であかりの身体が跳ねた。
「さ、早良さんっ! 口紅が!」
――口紅?
煙を上げる思考ではその単語が何を意味するのかなど理解出来るはずもなく、早良はあかりを抱いたままでぽかんとしていた。あかりは予想以上の力で腕を振り解こうとする。ぐいぐいと身動ぎをし、こちらの胸を押してくる。そしてある程度自由になると、片手で早良の胸倉を掴んだ。
何をするのかと思う間もなく、必死の形相で告げられた。
「口紅がついちゃったんです! 落とさないと!」
それでようやく、早良の視線が掴まれている箇所に落ちる。仕事帰りのスーツ姿。ジャケットの下は真っ白なシャツとネクタイ。その胸元に、判で押したように精巧な、濃オレンジのキスマークがついていた。
早良が我に返った時、あかりは早良の上着を脱がせ始めていた。
「脱いでください!」
彼女も大いに慌てた様子だった。それでも器用に袖を抜き、スーツのジャケットをするりと脱がせた。次にワイシャツを脱がそうとして、ネクタイが邪魔だということに気付いたらしい。ワイシャツのボタンに指を掛けたまま、上目遣いの強い眼差しで言われた。
「ネクタイ、外してください。急げばきれいに落ちますから!」
脱がせる前に脱がされる機会が訪れるとは、さすがに考えもしなかった。