Tiny garden

中毒性のあるてのひら/前編

 史子の部屋を退出したのは、日が暮れる前のことだった。
「じゃあ、また」
「お邪魔しました。とっても楽しかったです」
 玄関に立ち、早良とあかりがそれぞれいとまを告げる。そんな二人に対して、史子は少し寂しげにしてみせた。
「よかったら、また来てね。一人でいると退屈だから」
「はい、喜んで」
 あかりがはにかむ。その隣で、早良は後を継ぐ。
「何か困ったことがあったら言ってくれ。一人暮らしだと不便もあるだろうし」
 こんな言葉も違和感なく告げられるようになった。自ら内心で驚く。以前なら、親切ぶった言葉は嫌気しか差さなかったのに。
 告げられた方はあまり驚いた様子もなく、笑顔になって応じた。
「そうね、ありがとう。今のところは困りごともないの」
 やはり表情は明るい。一人の生活は史子にとって、よい効果をもたらしているようだ。早良も心なしかほっとする。
「大分、慣れたみたいだな」
「慣れてやらなくっちゃね。だって寂しいだなんて逃げ帰るのは癪じゃない?」
 首を竦めた史子が、存外に軽い口調で続ける。
「寂しいのは事実なんだけど、それだけの理由では帰りたくないもの」
「一人暮らしの部屋って静かなんですよね。お気持ち、わかります」
 気遣うようにあかりが言えば、史子もそうそう、と頷いてみせた。
「静か過ぎて寂しくなること、たまにあるの。だからって実家が賑やかだった訳でもないんだけどね。離れるとよく見えるっていうのも事実かも」
 そう言われて、早良も少し考えてみた。
 もしも自分があの家を離れたら、多少なりともよく見えるようになるものだろうか。――考えてはみたものの、上手く想像出来なかった。あの家はどう見ても不自然で居心地の悪い家だ。しかし確かに、早良にとっての『帰るべき場所』でもある。離れることがあるとすれば家出ではなく、巣立ちでなくてはならないと思う。いつかそういう日を、そういう自分を、父に認めて貰わなくては。
 思索する早良を引き戻すように、史子から釘が刺される。
「だからこそ、早良くんはあかりさんを寂しがらせないようにね」
「……いつも気を付けてる」
 ぶすっとして答える。横に立つあかりは、くすぐったそうに笑ってみせた。それだけで、その時は何も言わなかった。

 史子と別れた後、早良たちはマンションの駐車場へ足を運んだ。
 停めてあった車に乗り込む。腕時計を見ると、時刻は午後五時前。部屋まで送り届けるには早過ぎると思う。
 助手席を見遣れば、あかりはシートベルトを締め終わり、ちょうどこちらへ目を向けてきた。エンジンを掛けずにいる早良を不思議に思ったのだろう、随分と怪訝な顔をしている。
 迷うのも今更のように思えて、早良はためらわず切り出した。
「まだ帰らないだろ? もう少し付き合ってくれないか」
 質問というよりも確認だった。実際のところ、帰したくないとさえ言い切りたい心境だった。しかしそれが自然に言えるほど器用ではない。いまだに。
「早良さんのご迷惑でなければ、是非」
 あかりも素直に応じてくれる。その反応を喜ぶのも今更のような気がしたが、ともあれ、ほっとする。
 安堵しつつ尚も尋ねた。
「どこか行きたいところはあるか?」
「うーん……私はどこでも構いません」
 少し考えてはくれたものの、あかりの答えは遠慮がちだった。もしかすると最もたる本音なのかもしれないが、早良としてはそういう回答が最も悩ましい。
「何もないのか? 遠慮はしなくていい」
 促すと、あかりも眉根を寄せる。ほんの僅かに考えて、それから口を開いた。
「あの、じゃあ、具体的ではないんですけど……」
「ああ」
「少しのんびりしたいです。早良さんとお話しながら」
 持ち掛けられたのは穏やかな提案だった。
「そんなことでいいのか。わかった」
 早良は顎を引き、車のエンジンを掛ける。
「なら、ドライブでもしようか。あまり混んでいない道をのんびりと走るのはどうだ」
 仕事のノウハウはきっちり詰め込まれた頭も、デートプランとなるとからきしだった。単純かつありふれたアイディアしか浮かんでこない。今の早良に考えつくのはこの程度だった。
「賛成です」
 それでも、即座に返ってくる笑顔。お蔭でハンドルを握る手が浮かれた。
 助手席で彼女が笑っている、それだけで幸せになれた。その時間がまだまだ続いていくのなら、なおさら幸せな気分だった。

 夕暮れの道を、車は滑るように走る。
 週末とあってか、大きな通りは空いていた。下手に郊外へ抜けた方が込み合っているかもしれない。そう思い、早良は車を市中心部へと向ける。
 街並みが移り変わっていく。高級住宅街からビル街へ、そして駅前の繁華街へ。
 商業地区に差し掛かった時、車は信号で停止した。ちょうど、デパートやファッションビルの立ち並ぶ一角が見えた。不景気にも負けじと華やかな外観。ビビッドな色彩の看板が陽光に映え、夕景よりも眩しいほどだった。信号で停止した車の数よりも、横断歩道を駆け抜けていく人々の方がずっと多い。
「この辺りは賑やかですね」
 窓の外を眺めやりながら、あかりがしみじみと呟く。
「栄えてる一帯だからな」
 無難な答え方をした早良の耳に、微かな笑い声も聞こえてくる。
「上郷の人口よりも、もっと大勢の人がいそうです」
「そうかもしれないな。……こういうのは、まだ慣れないか?」
「いえ、大分慣れましたよ」
 視界の隅であかりがかぶりを振る。先日切ったばかりの髪は、顎の辺りでさらさら揺れていた。
「まだ知らないお店に入ったりするのは勇気が要りますけど、人混みの中を歩くのは平気になりましたし、道も少しずつ覚えてきたんです。まだ駅前の方と、私のアパートのある辺りの道が繋がらないくらいなんですけどね」
 照れを含んだ笑い声には、どこかしら自信も覗いていた。慣れたというのは本当らしい。早良にとってはそんなあかりが、微笑ましくも、多少寂しくもある。いつまで自分を頼りにして貰えるだろうかと、そこはかとない後ろめたさを覚えつつも考えてしまう。
「一人暮らしにも慣れました」
 早良の胸中をよそに、あかりはごく静かに続ける。
「志筑さんもおっしゃってましたけど、一人の生活ってすごく寂しいんです。一人でいると声を出すのも気が引けて、だから部屋の中はずっと静かで。初めのうちは小さく縮こまって毎日を過ごしていました」
「……わかるような気がする」
 小さく、早良も相槌を打つ。そういえば自分も、あの家にいる時はあまり声を発さない。静かな部屋の中でじっとしていることもよくある。
 信号が変わった。停止していた車が、再び走り出す。
「でも、早良さんがいてくれましたから」
 運転手の気も知らず、平然と彼女はそう口にする。
「寂しい思いもしていませんし、あの部屋だって、静かなばかりじゃないんです。早良さんが来てくださる度に、この辺りの街並みにも負けないくらい華やかになります」
「それは買い被り過ぎだ」
 さすがに早良も苦笑した。
「俺はあまり気の利く方ではないし、話が上手いということもない。二人でいると、お互いにしばらく黙り込むことだってあるじゃないか。君の部屋を賑やかしているとは思えない」
 そもそも騒ぎ立てることの出来る性格ではなかった。大声で笑うのも、冗談を叫ぶことも、少年時代でとうに止めてしまった。今はプライドが許さない。窮屈な生き方かもしれないが、今更直せるものでもない。
 しかし、あかりは穏やかに応じた。
「何て言うか、違うんです。一人でいる時の静けさと、早良さんがいる時の静かさって」
「へえ。そういうものかな」
「きっと、そうです。早良さんといる時は、何もかもが踊り出しそうなくらい華やかに見えちゃいますから」

 フロントガラス越しに見る街並みは、ゆっくりと夜の色合いに変わりつつある。
 道の両端に立つ水銀灯が点り出し、対向車のライトもいつしか流れ始めていた。空の色はオレンジからすみれ色へと移り、街並みにもぽつりぽつりと光が浮かび上がる。車内にも宵闇が忍び込む頃、夜を迎える狭間の景色を眺めていた。
 華やかだと言えば、そうなのだろう。以前は何気なく見過ごしていた街並みの美しさ、街の灯の暖かさを、一つ一つ気にするようになっている。目で拾い上げずにはいられなくなっている。そして心が、きちんと受け止められるようになっている。幸せなことだと思う。思える。
 それは助手席にいる彼女のお蔭なのだろうし、彼女を得た自分の心の、わかり易い変化のせいでもある。

「君が寂しくないなら、よかった」
 早良がそっと呟くと、助手席からも声がした。
「はい。寂しくないです」
「そうか……」
「でも、あの、今はちょっと」
 助手席の声がふと上擦った。不自然な間が空いた後、おずおずと続けられる。
「わがままを言いたい気分でもあるんですけど……いいですか?」
 珍しい。早良は密かに眉を顰める。
 あかりが自発的にわがままを言い出すのはあまりないことだ。確認してくる辺りからもそれがうかがえる。もっとも彼女の言う『わがまま』など、どうせ取るに足らない内容だろう。そう思い、気安く答えた。
「どうした。言ってみてくれ」
 それであかりは深く呼吸をした。吐いて、吸い込んで、途中で止めて。
 気負うような口調で言った。
「手を繋ぎたいです、早良さんと」
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