Tiny garden

この愛に染まって下さい/後編

 史子との通話を終えた時点で、既に午後十時を過ぎていた。
 早良は僅かに迷った。出来ることなら今すぐ、決心の揺らがぬうちに、あかりに連絡をしておきたい。そう思ったものの、普段なら電話を掛けるのも躊躇う時分だった。相手は未成年だ、あまり遅くまで起きているとは思えない。寝ていたら困る、と躊躇したくなる。
 しかし、明日の夜まで今の気持ちを保ち続けていられるだろうか。是が非でもあかりと連絡を取り、先日のことを詫びた上で、史子との約束についても聞いてみなければならない――予定を入れるにしても早いうちのほうがいい。口実もあり、史子にも背を押してもらった今夜のうちに掛けるのが、一番いいはずだった。
 少しの間、考えあぐねていた。それでも最後には決断した。迷う時間さえ惜しい。案ずるより産むが易しとはよく言ったものだ。
 早良は、遂に電話を掛けた。

『――あのっ、宮下です』
 繋がった途端、急き込んだあかりの声が聞こえてきた。
 その勢いのよさに気圧されて、とっさに早良は言いよどむ。すると、向こうの方から尋ねてきた。
『早良さんですよね?』
「……どうして、わかった?」
 驚きと同時に、奇妙なうれしさが込み上げてくる。彼女も自分の電話を待っていてくれたのだろうか。そもそもの発端を思うと申し訳なくもあるが、やはり、うれしい。
『だって、こんな時間に掛けてきてくださるの、早良さんくらいです』
 あかりはそう言って、少し笑ったようだった。
『それに……お待ちしてたんです。早良さんが、連絡するって言ってくれたから……何度か、私の方から掛けるべきかなとも思ったんですけど、我慢して、待っていました。そろそろかなって思って、今日も待っていたんです』
 口調は至って穏やかで、陰りは微塵もうかがえない。それでも罪悪感は拭い切れない。今日まで待たせてしまったことと、この間の狼藉に対して。
「遅くなって悪かった」
 早良は素直に詫びた。その後で、更に続けた。
「それと、この間も済まなかった。その、とんでもない真似をして」
 さすがに直截的な単語は口に出来ず、もごもごとぼかすような声になる。携帯電話の触れている頬が、俄かに熱を帯び始める。
 電話越しにも一瞬、息を呑む気配が伝わった。
『……謝っていただくことではないと思います。むしろ私の方こそ、わがままを言ってごめんなさい』
 ごく柔らかい口調であかりが言った。早良としてはそう言われると、より一層気まずくなる。
「いや、謝らせてくれ。そうじゃないと俺は、君に合わせる顔がない」
『早良さんは何にも悪くないです。悪いことなんてしてません』
「そんなはずはない。君にあんな真似をしておいて、謝らない訳にはいかないじゃないか」
 強硬に言い募る早良に、宥めるような声が向けられる。
『謝らないでください』
 彼女は言う。でも、と反駁したくなる心は、次の言葉でするりとかわされた。
『早良さん。私、髪を切ったんです』
「……え?」
 あかりの言葉は唐突だった。早良は戸惑い、目を瞬かせる。
『髪を切ってきました。ちゃんと、お店に行って』
 脈絡のないような話題は、そのまま遮られずに続く。
『前にお話ししましたよね? 間違えてお店に入っちゃって、クーポン券をいただいた美容室です。そこへ行って、前髪を切り過ぎちゃったことも正直に打ち明けて、髪を直してもらったんです』
 困惑する早良の耳にも、ひたすら穏やかに流れ込んでくる。
『少し、全体的に短くなりましたけど、この間よりもずっとよくなったと自分では思ってます。今度は、早良さんにお見せしても恥ずかしくないです』
 そこまで言うと、彼女ははにかむような笑声を立てた。聞いているこちらがくすぐったくなるような、女らしい笑い方だった。
『だから、早良さん。いつでもいいですから……一度、見に来てくださいませんか』
 もしかするとそれは、あかりなりの口実だったのかもしれない。早良が罪悪感にさいなまれつつも口実を見つけ、ようやく連絡を取ろうとしたのと同様に、連絡を待ち続けていたあかりの方も、口実を探していたのかもしれない。彼女自身の言った通り、待ち切れなくなったら、自分から電話をするつもりで。
 早良は再び罪悪感に駆られた。ただ、これまでとは趣の違う罪悪感だった。彼女をそこまで待たせてしまった事実に、電話を掛けることにすら踏み切れなかった自分に、歯痒さと後悔を覚えた。
 そこまで辿り着ければ、行動に移すのも容易かった。
「今からでもいいか」
 尋ねた。遠慮やら分別やら、理性やらは全て吹き飛んでいた。
「君さえよければ、今すぐにでも会いに行く」
『構いません。お待ちしています』
 あかりの答えは、やはり急き込むように素早かった。

 早良はいつよりも迅速に身支度を整えた。そして、足音を忍ばせて家を飛び出した。愛車のエンジンを掛け、夜の道を走り始める。全てが目まぐるしいほどのスピードで行われた。それでも早良にとっては、もどかしいくらいの時間に感じられる。
 彼女の部屋まで、道筋はとうに記憶していた。夜も更け、郊外の住宅街は静まり返っている。そこへ乗り込んでいくのに、もうためらいはなかった。
 一刻も早く、会いたいくらいだった。

 彼女は玄関で待っていた。
 オレンジ色の照明の下で、やはりはにかみ笑いのまま立っている。早良の顔を見るや否や、弾んだ声でこう言った。
「いらっしゃいませ、早良さん。何か、お飲みになりますか」
 早良は、答えられなかった。あかりの姿を見て、顔を見て、新しい髪型を見て、しばらくの間言葉を失っていた。
 長かった髪は顎のラインの長さにまで切り揃えられていた。眉が覗くほどの前髪の短さに合わせるように、短くなっていた。彼女が小首を傾げると、光沢のある髪はさらりと揺れた。すっきりとしたショートボブ。その潔い髪型は、長く伸ばしていた頃よりも大人びて見えた。服装はいつも通りのラフなものなのに、どうしてか、大人の姿に見えた。
「おかしく、ないですか」
 視線を感じてか、あかりは自分の髪に手を当てる。慌てて早良がかぶりを振ると、うれしそうな顔をしてみせた。
「よかった。短くした方が大人っぽく見えるって美容師さんが教えてくれたんです。だからその通りにしていただいたんですけど……ちゃんと、大人っぽくなっていますか?」
「ちゃんとなってる」
 ぎくしゃくと早良は頷く。あまりに見事な成長ぶりで、たじろいでしまうほどだった。
 少女の面影はどこにもない。あるのはただ、
「私、大人っぽくなりたかったんです」
 そう語る、可愛い女の姿だ。
「今でも、子どもではないつもりですけど、でももっと大人っぽく見えるようになりたかったんです。その方が、早良さんにも釣り合うかなって思って」
 あかりは恥ずかしそうに笑んで、続けた。
「早良さん、私、子どもじゃないです。早良さんから見たらすごく子どもっぽいのは間違いないと思っています。でも、子どもではないんです。幼いままではないつもりでいます。だから――」
 だから、立ち尽くす早良の顔を、真っ直ぐに見上げてくる。恥らうそぶりを見せつつも、視線は逸らさない。逃げない。この間、至近距離で視線を合わせたことを、ちゃんと覚えている。覚えている上で、真っ直ぐな視線を向けてくる。
「もう、謝らないでください」
 アパートの玄関は狭かった。ドアを閉めると、一人が立っているのがやっとというほど狭かった。あかりが手を伸ばして、早良の腕を掴んで、引き寄せることも容易かった。傾いだ身体が近づいた時、頬に柔らかいものが触れた。もしかするとそれは、唇を狙っていて外れてしまったのかもしれないし、本当に早良の頬だけを狙うつもりだったのかもしれない。どちらにせよ、頬に当たった。早良はぽかんと口を開け、目を白黒させながら、されるがままでいた。
 手を離したあかりは、なぜだか泣き出しそうな顔でいた。子どもではないと言い張った彼女も、ここまでが精一杯だったらしい。懸命に堪える表情で、ぎりぎり、涙は零さずにいた。端の方だけが震える声で告げてきた。
「それとも、私も早良さんに謝った方がいいですか? 前髪のこと以外でも」

 早良はしばらくぼんやりしていた。
 こういう時は急いで答えるべきだとわかっているくせに、どうにも、言葉が出てこない。頭がくらくらしていた。何だかとても、劇的な瞬間を目の当たりにしたような気がする。
 惚れた相手が自分のせいで、あるいは、自分の為に変わっていくというのは、アルコールよりもよほど強烈に効いた。
 酔っ払ってしまいそうだった。

 間が抜けていると自分でも思う。だが、この期に及んで、ようやく気付いた。
 自分たちは恋人同士だ。恋人の為に変わろうとする意識は普遍的な、ごく当たり前のものだろうし、何らかの変化を見せた恋人に対して、惚れ直すというのも実に当たり前の情動だ。更に言うなら、そういう情動に伴って抱擁したり、口づけたり、あるいはそうしたいという欲求を持つのもまた、何のことはない、当たり前過ぎることだろう。他人に話せば何を今更と笑い飛ばされるような、ありふれている情景だろう。
 早良にとっては、何もかも初めてのことだった。こんなことを気軽に話せるような相手はいないし、相談を持ちかける先もない。おまけに恋人は大人とも子どもともつかない年頃の、しかしとびきり魅力的な存在と来ている。戸惑うのも、悩むのも、囚われるのも当たり前だ。

 酩酊した気分で、早良はあかりを抱き寄せた。狭い玄関では容易く出来た。あかりも全く抵抗せず、素直に腕の中に収まる。
「どうして君はそんなに可愛いんだ」
 早良はこの上なく率直に尋ねた。あかりは答えない。答えようもないのかもしれない。ただくすぐったそうに身動ぎをしてみせた。
 それで早良も判断に迷い、とりあえず彼女の顎に触れた。軽く持ち上げようとしたら、これは頑なに拒まれた。
「駄目か」
 問うと、微かな答えが返る。
「……だって、恥ずかしいです」
 あかりはそのまま顔を上げず、二度目か、三度目と数えるのがいいのかわからないキスは、その夜のうちには果たされなかった。
 だとしても、十分に恋人らしい過ごし方をしたと、早良自身は思っている。

 史子との約束の件をあかりに伝え忘れていた。そのことに気付いたのは、彼女の部屋を出て、車に乗り込んでからだった。
 前回とは違う心境で運転席に突っ伏して、深く溜息をつく。
 ――明日も会いに来る口実が出来た。そう思ってしまう間は、恋人として不慣れなままなのかもしれない。この期に及んで、彼女に会いに来るのに口実が必要なはずもないから。
 ただ、明日もここへ、必ず来たいと思った。その為にも寝付けぬ夜をやり過ごし、明日の仕事を上手い具合に片付けてやらねばならない。もしかすると八時を過ぎてしまうかもしれないが、それでも電話をすれば、あかりは歓迎してくれるだろう。彼女も既に子どもではない。

 少しずつ、早良の意識も変わろうとしていた。
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