Tiny garden

この愛に染まって下さい/前編

 寝付けぬ夜が続いていた。
 携帯電話を握り締めつつ、いざ掛けようとすると躊躇ってしまう。逡巡する時を過ごした挙句、どうしても電話をする気になれない。後ろめたさに囚われた早良は、あかりと連絡を取れないままでいた。
 大体、どんな顔をしていればいいのか。どんな言葉を告げればいいのか。まるでわからない。今のあかりが何を思い、早良についてどう思っているのかもわからない。彼女の方からも連絡はなく、そのことが余計に早良を煩悶させた。
 ただ戸惑っているだけならいい。この間の出来事があまりにも唐突で、彼女の方も驚いているだけならいいと思う。しかしそうではないとしたら、彼女が戸惑い以上に怒りやら、悲しみやらを抱いていて、それが早良に対する不信感へと繋がったなら――あかりの性格を踏まえるとさほど考えられることではなかったが、可能性がないとも言い切れない。早良自身が、戸惑い以上に怒りや苛立ちやら、絶望感やらにさいなまれていたからだ。不道徳なふるまいをした自分に腹が立った。衝動一つ御せない自分に苛立っていた。そして、ろくに反省もしていない自分の本心に絶望を抱いた。もう二度とするまいとは思えず、漠然と『次も、そうしてしまうかもしれない』とさえ考えてしまう心は、早良からすれば酷くだらしのない、醜いものに見えていた。
 衝動に従った瞬間は幸せだった。後からする悔悟も、反省も、その瞬間だけはまるで頭になかった。他には何も浮かばないままに、あかりのことが、ひたすらいとおしいと思った。罪悪感さえなかった。その反動が今になって押し寄せている。
 早良にとっての不幸は、相談相手のいないことだったのかもしれない。考え過ぎだと言ってくれる誰かがいれば、もう少し救われただろう。或いは、当たり前のことなのだと笑い飛ばしてくれる人間がいたら、違う捉え方も出来たはずだった。
 だがあいにくとそういう相手はおらず、早良はひたすらに思い悩んだ。土日を挟んで週が替わっても、あかりに連絡は出来ずじまいだった。今週末は彼女と過ごせると、その為だけに仕事に打ち込んできたのに、肝心の約束すら交わせていなかった。
 あんな真似をしておきながら連絡もせずに放ったらかしにしておくことこそ、不道徳なのではないか。そんな思いも過ぎらせつつ、しかし絶望感も、その裏側にある密かな幸福感も、一層募るいとおしさも、手を付けられぬままに早良の胸裏にあった。

 思い悩む早良を、しかし更に追い詰める出来事が起こったのは、その週の火曜、相変わらず寝付けぬ夜を過ごしていた時のことだった。
 史子が、久し振りに電話を掛けてきた。

『――別に、催促をするつもりではないんだけどね』
 電話越しの声はいやに明るい。一人暮らしを始めてからというもの、彼女の変化は著しかった。
『早良くんったらちっとも連絡をくれないし、あかりさんを連れてきてくれるって約束も、忘れちゃってるんじゃないかと思って。覚えててくれてる?』
「……ああ」
 気まずい思いで早良は応じる。自室のベッドに腰を下ろし、さながら囚人の心境で史子の言葉を聞く。
『もしかしたら、早良くんもお仕事が忙しいのかなとも思ったんだけど』
 そう言った後、史子は軽い笑い声を立てた。
『むしろ、あかりさんと会うのに忙しくて、私のことなんて忘れてしまってる可能性もあるかも、なんて思ったの。そうじゃない?』
 ごく気安い、からかうような口ぶりにもかかわらず、耳にした早良の方は居た堪れなさでいっぱいになる。あかりと普通に会っていた頃でも、史子のことを忘れたつもりはなかった。あかりの方から史子の話題を振ってくることもあったから、忘れるはずもないのが正直なところだ。しかし、ここ数日の葛藤の最中には考える余裕すらなかったのも事実。
「忘れてもいない」
 早良は答えて、取り繕うように続ける。
「最近は仕事が忙しくて、連絡をする暇がなかっただけだ。それに、君の都合を聞いてもいなかったし」
『私は土日なら大抵空いてるわ。今週末なんてどう? ちょうど、美味しいお菓子があるの。あかりさんと三人で、午後のお茶会なんていいと思わない?』
 当然、史子は早良の心中を知らない。早良とあかりとの間に起こった出来事など知る由もない。そのせいか至って軽い調子で話を進めてくる。今の早良にはそういう軽さこそが心苦しい。
「いや……そうだな、彼女にも聞いてみる」
『ええ、お願いね』
「どうなるかはわからないから、期待せずに待っていてくれ」
 現況を鑑みた上で、早良は後ろ向きな回答を口にする。
 たちまち電話の向こうでは、訝しそうな声が上がった。
『そう? 期待しちゃいけない?』
 実に不思議そうな問いかけに、内心で早良は動揺した。
「それは、彼女だって用事があるかもしれないからな」
『だからそれを聞いてみてねって、早良くんにお願いしてるのに』
「聞いてみるけど期待はしないでくれと言ってるんだ」
『……何だか、含みのある物言いね』
 史子が鋭いことを言う。取り繕う暇をこちらに与えず、続けてくる。
『まさかと思うけど、早良くん。あかりさんと喧嘩でもした?』
 いい読みだった。
 ぴたりと当てられた訳ではないにせよ、早良をうろたえさせるには十分だった。途端に上擦る声になる。
「ど、どうしてそう思うんだ」
『本当なの? 早良くんたちでも喧嘩なんてすることがあるのね』
 言い当てた方も、やや驚いた様子でいた。
 早良は咳払いをする。
「喧嘩をしたと言うほどじゃない。それより、どうしてそう思ったんだ?」
『だって、あかりさんに聞いてみるのが抵抗あるって口調だったんだもの。いかにも、何か気まずいことがあったみたいじゃない』
 背筋がぞくぞくするような敏さで、史子が笑った。
『駄目よ、早良くん。どんな事情があるにせよ、あなたは年上なんだから。多少のことは譲って、合わせてあげないと』
 彼女の言葉はごくありふれたアドバイスに過ぎなかったが、今の早良には十分なほど、耳の痛い警句となった。年上のはずの自分があんなふるまいをしでかしたこと、その後フォローの連絡すら出来ていないことに、幾度となく覚えた苛立ちがまたよみがえる。
『心配はしてないけどね』
 早良の内心など知らず、史子は笑っている。
『仲直りなんて簡単でしょう? 今までだって、いろんなことを乗り越えてきたあなたたちだもの。意見の違いなんて些細なことよ、そう思って、合わせてあげたらどう?』
 内心は知らないはずだ。しかし、過去の出来事は知っている。早良とあかりがどのようにして今の関係に至ったか、史子は目の当たりにしている。その上での言葉は、不思議なくらい的確だった。
 いい機会かもしれない、とふと思った。史子との約束を口実に、あかりに連絡を取ってみるのもいいかもしれない。謝罪だけの為に電話をするよりはよほど気が楽だし、あかりにとっても恐らく同様だろう。きちんと詫びた後で、週末の予定について話し合うのもいいかもしれない。
 ほんの少しだけ、気持ちが軽くなったように感じた。
「アドバイスをありがとう。そうするよ」
 素直に早良が告げると、史子も穏やかに応える。
『ええ。アドバイスと言えるほどのものでもないけど……頑張ってね、早良くん』
 相談相手、と呼べるほどではなく、早良と史子の関係もまだぎこちないものではあった。それでも、史子のいてくれることが心強いと、密かに思った。
「それにしても、志筑さんはさすがだな」
 しみじみと早良は言った。
「恋人がいないのに、そういうこともちゃんとわかっているのが」
『……早良くん。それって、皮肉?』
 途端に史子の声が拗ねたようになり、早良も慌てる羽目となる。
「いや、違う。そういうことじゃない。悪かった、失礼なことを言って」
『別にいいのよ。確かにあいにくと、恋人なんていませんから』
 史子は突っ撥ねる口調で言った後、ふと声音を柔らかくした。
『ただね、さっき言ったことって、恋人同士に限った話でもないと思うの』
 後には照れたような言葉が続いた。
『親子の間だって同じじゃないかしら。血の繋がりだけでわかり合えるなんてことないもの。それなら、相手に合わせる努力も必要だと思うの』
 どことなく、幸せそうにも聞こえた。史子と父親との関係は、同居していた頃よりも良好なのかもしれない。
 そう踏んで、早良も尋ねた。
「上手くいってるみたいだな、君の方は」
『ええ。少しずつ、前よりはいい程度、だけどね。あなたの方はどう?』
「父とは、あれきりほとんど口を利いてない」
 諦観なのか、受容なのか。それともただ腹を立てているだけなのか。父親の内心も、早良には見通せていなかった。忙しさに感けて、お互いに対話の機会を逃し続けている。干渉されなくなっただけいいと、前向きに捉えるようにはしていたが、史子の話を聞くとやはり引っ掛かるものがある。
『そう。あなたの方も上手くいくといいわね。……何なら、早良くんも家を出てみたらどう?』
「君みたいにか? 今それをやると、かえって拗れるような気もするな」
『でも素敵じゃない? 家を出て、あかりさんと一緒に暮らせばいいのよ』
 史子はトーンを変えずに、ごく軽い調子で提案してみせた。にもかかわらずその言葉が、あっという間に早良の心と呼吸器を掻き乱した。一瞬、答えに窮する。
「何を言ってるんだ、君は。そんなこと、出来るはずがない」
 どうにか、絶え絶えの呼吸で答えた。
 すると電話の向こうでは、史子が怪訝そうに言ってくる。
『そうかしら? 同棲でもして、二人で立派にやっているところを見せたら、あなたのお父様も認めてくださるかも』
 いくら何でも、楽観的に過ぎる推測だった。むしろ自分が、立派に、不道徳なふるまいをせずにいられる自信がなかった。ついこの間だって、理性が衝動に負けてしまったくらいだ。同棲なんてすればどうなるか――とっさに言った。
「無理だ、そんなの。倫理的にまずい」
『倫理的に?』
「そうじゃないか。いろいろと……まずい」
 気まずい思いで濁した早良に対し、史子はくすくす笑ってみせた。
『大変なのね、彼女が十代だと、いろいろと』
 今度は返す言葉もなかった。
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