Tiny garden

キスとおやすみ/後編

 数日後の夜、早良はいつになく上機嫌でいた。
 機嫌がいいと言っても、秘書を始めとする周囲の者たちに気取られるほどではなかった。浮かれたい気持ちは退勤後まで押し隠した。仕事を終え、車に乗り込んでから腕時計を確かめる。――午後六時。いつもよりも早い。最高だった。
 機嫌がいい理由は退勤時間のことだけではなかった。来週末の休みをきっちり確保した。久し振りに、休日にあかりと会うことが出来る。早良の浮かれぶりは酷いもので、危うく連絡もしないうちから彼女の元へ飛び出していきそうになった。

 会社の地下駐車場にて、一旦車のエンジンを切る。それからあかりに電話を掛ける。いつものルールに則った行動だった。
 電話もすぐに繋がった。
『もしもし、宮下です』
「俺だ」
『――あっ、早良さん』
 その時、あかりの声が跳ねたような気がした。一瞬怪訝に思ったものの、早良はいつも通りに続ける。
「今、仕事が終わった。会いに行ってもいいか?」
『え? ええと、構いませんけど……』
 ちっとも構わない、という口振りではなさそうだった。もともと遠慮しがちな娘だ、都合が悪いのではないかと早良は察する。
「いや、無理にとは言わない。迷惑なら今日は止めておくから、それならそうと」
『あの、迷惑ではないんですけど』
 慌てふためく声が聞こえてくる。どうも様子がおかしい。
「迷惑じゃないなら何なんだ」
 彼女の様子が普段と違うことに、早良も困惑していた。いつもなら快く訪問を許してくれるというのに、今日はどうしたと言うのだろう。それでいて迷惑ではないと口走っているから皆目見当もつかない。
 電話の向こうでは、ためらうような間があった。
『私は、早良さんにはいつでもお会いしたいくらいなんです。でも、今日は、その』
 言いにくそうにしながら、あかりは続ける。
『もしかしたら、笑われてしまうかなと思って……』
 早良はますます戸惑う。彼女が何を躊躇しているのか、ちっともわからなかった。
「俺が何を笑うって?」
『それは、あの』
「滅多なことじゃ笑ったりしない。言ってみてくれ」
『実は、前髪が』
 ためらう声がふと、恥ずかしそうな笑いを滲ませた。
『前髪、自分で切ったら、切り過ぎちゃったんです。お見せ出来そうになくて……見ないでいてくれますか?』

 そもそも早良は、自分の髪を自分で切ったことがない。
 邪魔にならなければよいという基本理念の下、馴染みの美容師に任せきりだったので、髪型の失敗とは無縁だった。
 だからアパートの玄関で、額を隠すように俯き加減でいたあかりを見た時は、さすがに掛ける言葉に迷った。早良が現れても身動ぎせず、ただただ恥ずかしそうに下を向いていた。

「……失敗、したのか」
 ドアを閉めながら早良は尋ねる。あかりは面を上げずに小さく頷く。前髪の長さは見えない。
「とりあえず、見せてくれ」
 促してみるものの、彼女はやはり小さくだけかぶりを振った。高い位置で結ってある髪は、今までと変わらない長さだ。前髪だけを切り、そして失敗したらしい。
「笑わないから。君が思うほど酷くないかもしれないじゃないか」
 早良は尚も告げた。たとえどれほど酷い前髪でも、決して笑うつもりはなかった。あかりの思い込みという可能性だって十分にある。
 しかし、当の本人は頑なだった。俯いたままで答えた。
「酷いんです」
「主観的意見だけで決めつけるのは早計だ」
「いえ、自分でわかっています。短くし過ぎちゃったんです」
 随分としょげているようだ。声に元気がない。
 思わず早良も嘆息した。
「どうして自分で切ろうと思ったんだ」
 プロに任せておけば、失敗することも、後で悔やむこともまずないだろうに。見せられないと言い張るくらいなら自分で切ろうとせず、どこかの店に駆け込んでおけばよかったはずだ。――後に続く言葉はぐっと飲み込んだが、胸裏ではそう思っていた。
「あの、やっぱり、初めてのお店に行くのは抵抗が……」
 ぼそぼそとあかりが答える。叱られて言い訳をする、子どものような物言いだった。
「前髪だけなら、自分で切った方がいいかなって思ったんです。でも、結果は……」
「そんなに酷いのか」
 早良はあかりに歩み寄り、屈んで、その顔を覗き込もうとした。途端に大仰過ぎるくらいの動作で背けられ、苦笑してしまう。
「とても早良さんにはお見せ出来ません」
「笑わないし、気にしない。信用してくれ」
「信用していない訳ではないんです。とにかく、恥ずかしくて……伸びるまでそっとしておいてください」
 前髪の状態はともかく、あかりの心理状態は重症のようだ。女心に明るくない早良には、何を気にすることがあるのかと疑問しか湧かない。このままでは埒が明かないと、来訪の用件を口にする。
「来週末の休みが確保出来た」
 自然と、不機嫌なトーンになった。
「でも君がそんな状態では、どこにも連れて行けなくなる。とにかく一度、見せてくれないか」
 早良の苛立ちを読み取ってか、あかりも声を落としてみせた。
「その時は帽子を被っていきますから……。今日は、すみません。早良さんにだけはお見せしたくないです」
「どうして俺だけ駄目なんだ」
 訳のわからない疎外感に、早良の方が落ち込みたくなる。恋人なら信用して、黙って見せてくれてもいいはずだ、と思う。
「だって、抵抗ありますよ」
 更に小声で彼女も言う。彼女の考えは、早良とは違うようだった。
「好きな人には、みっともないところ、見せたくないです」
 いい加減首が疲れやしないかと思うほど、あかりはじっと俯いている。前髪を短くしたせいか、頬の赤さは俯いていても僅かに見えた。早良は苛立ちと面映さの両方を覚えた。――そんなことを言われても、こちらだって困る。
「みっともなくないかもしれないだろ。いや、絶対にみっともなくない」
 言葉を重ねるのも面倒になり、早良は遂に強硬手段に出た。
「見せてみろ、話はそれからだ」
 言うが早いかあかりの肩を掴まえた。あかりが身を震わせるのも構わず、顔を覗き込もうとする。彼女も頑迷に拒む。
「駄目ですっ、伸びるまで待っていてください」
「待てない。みっともなくないって言ってるじゃないか」
「そんなことないです、酷いです」
「酷いかどうか確かめてやる、いいからこっちを――」
 肩を掴まれたあかりがじたばたと抵抗するので、早良の行動も頑なにならざるを得ない。狭い玄関の壁に押しつけるようにして彼女の動きを封じる。と同時に肩から手を離し、今度は頬を掴まえた。ぐいと、強引に上を向かせた。あかりの顔がようやく上がる。
 眉毛の上で切り揃えられた前髪が揺れた。
 玄関の照明は落ち着いたオレンジ色をしていた。その下にいても、前髪の短いあかりはあどけなく、心許ない表情に映った。前髪の下で眉尻を下げ、目を大きく瞠っている。頬は照明のオレンジよりも更に赤みを帯びている。唇は軽く開いて、一度息を呑んだ後、震えながら動き始めた。
「見ないでって、言ったのに」
 幼い顔が恥じらうそぶりを見せても、早良は手を離さなかった。離せなかった。あかりの頬を捉え、力ずくで壁に押しつけたまま、その顔に見入っていた。
 どこか、おかしいところがあるだろうか。早良にはちっともわからなかった。前髪が短くなってもあかりはあかりだろうし、幼い顔に見えていたとしても何ら問題はない。むしろ可愛いくらいだと思う。早良にとってはいつでも、可愛い存在だった。大人びた顔する時も、あどけない表情をする時も、不必要な遠慮をしてみせる時も、どうでもいいような心配をする時も――けれど一番可愛いのは、恥ずかしそうにしてみせる、その時の面差しかもしれない。
 ちょうど今が、一番可愛い。
 早良は黙って、あかりの顔を見つめていた。何か言いたげな唇を見つめていた。唇は風邪を引いていた頃とは違って、乾いていない。つややかだった。オレンジの照明の下、ふっくらとして見えた。視線に気付いてか、僅かに唇が動いた、ような気がした。
 とっさに目を閉じた。目を閉じて唇が重ねられるほど場数を踏んでいた訳ではない。それでも、不思議なくらい上手くいった。引き寄せられるようにして、柔らかい、温い部分を塞いでいた。
「あっ……」
 小さく、彼女が声を漏らした。その声も全て飲み込んだ。しばらく、そうしていた。彼女が苦しそうに身動ぎを始めるまで、ずっとそうしていた。

 唇を離してから、改めてあかりの顔を見た。
 呆けたような表情から手を離すと、彼女が一度瞬きをする。その時ようやく、早良も我に返った。自分が何をしたのかを理解した。
 たちまち、全身の体温が上昇した。
「あ、その、ええと……す、済まなかった、悪気はなかったんだ」
 もごもごとした弁解が口をついて出る。冷静さは呆気なく失われて、後には脈絡のない言葉が続いた。
「君の前髪は、別におかしくない。気にするほどじゃない。隠す必要もないと思う」
 あかりはまだ、呆然としている。ぼんやりと早良を見つめている。そのそぶりがかえって、早良の罪悪感を募らせた。
「でも君が気にしてるなら、今日のところは帰る。また連絡する」
「はい……」
 やっと、彼女が応じた。気の抜けたような声だった。それでも幾分かはほっとした。
「じゃあ、おやすみ」
 いつも通りの挨拶を口にしてみる。
 彼女は、頷く。頷いてから、気恥ずかしそうに目を伏せた。確かに可愛い仕種だった。せっかく、一度は抱いた罪悪感を、再び放り出しそうになるくらい。
 ほぼ衝動的に、早良はあかりの部屋を飛び出した。いつになく覚束ない足取りで、アパート前に停めてあった車へと駆け込む。ドアを閉めてすぐ、運転席に突っ伏した。
 冷えたハンドルに押し当てた、こめかみが脈打っている。
 とんでもないことをしてしまった、と思った。あかりはまだ未成年で、学生だ。自分は年上で既に社会にも出ている。だから率先して、節度ある付き合い方を、律された交際を提唱していかなければならないと考えていたはずなのに。あっさりと抑えの利かなくなった自らの心が、酷く無様で、滑稽なものに思えた。
 そのくせ唇は、柔らかさを覚えている。温度を覚えている。心底では繰り返し反芻している。罪悪感の一方でしみじみといとおしさを覚えていて、手に負えない、と痛感している。

 アパートの玄関での逢瀬が、ロマンチックではないと思ったのはいつだったか――早良は突っ伏したまま、しばらく車を出せずにいた。
 あかりの部屋の玄関も、早良の車が去るまでの間、ずっと照明が点いたままだった。
 これから始まる一人きりの夜は、お互いに、長くなりそうだ。
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