Tiny garden

キスとおやすみ/前編

 九月を迎えた。
 月が替わったというだけで、早良の身辺に特に変化はなかった。相変わらず毎日は忙しなく、慌しく過ぎていく。父親との関係も相変わらずで一向に好転する気配がない。
 それでも、ふとした時に思う。しみじみと、幸せだと。
 あかりがこの街にいる、会おうと思えばいつでも会いに行ける距離にいる。たったそれだけのことで心が満たされた。仕事にも張り合いが出た。いかにして仕事を迅速に片付け、あかりと会う時間を作るか、そんな考えを巡らせる余裕さえ生まれた。仕事だけを生き甲斐にしていた頃とは違い、充実した日々を送っている。

 とはいえ相手はまだ十八歳の大学生。夏休みももうじき終わり、これからはますます勉学に励まなければならない身分のはずだった。その上、婚約については先日、答えを保留にされたばかりだ。まだ恋人同士の域を出ておらず、おまけに未成年者とあっては、会いたくなったからと言って始終会いに行く訳にもいかない。節度を持った付き合い方をすべきだと、早良は考えていた。年上で社会人たる自分の方こそが、律された交際の仕方をあかりに教示していかねばならないと――杓子定規なところは一向に直らないのが、早良の早良たる所以だった。
 さておき、早良は自分の中でルールを設けた。
 まず一つ、あかりの部屋を訪ねていく時は事前に電話連絡をし、彼女からの了承を得ること。
 次に、彼女が気乗りしない様子だった場合は、あまり無理強いをしないこと。
 最後に、夜八時以降は、どんなに会いたいと思っても我慢すること。仕事がずれ込み帰りが遅くなった日は、たとえどれほど彼女の顔が見たくなっても、声が聞きたくなっても、明日の可能性を信じて堪えていること。
 先の二つの条件はともかく、最後の条件が厄介だった。早良の唱える『節度を持った付き合い方』においては必須の要項でもあったのだが、これを遵守してしまうと週に一度会えれば幸いな方。運の悪い時には週末すら仕事に囚われ、一週間通して会いに行く機会を逃がしてしまうこともある。
 せめてものよすがと空いた時間に電話を掛ければ、傍にいないあかりが朗らかに笑う。
『心配しないでください。私、早良さんの時間が空く時まで、ちゃんと待っていられますから。どうぞお仕事を優先してください』
 待っていられないのはこちらの方だ、と早良は心中で呟く。身体が空くのをおとなしく待っていられるなら、そもそも退勤後に会いに行こうとは考えない。

 週に一度程度の、仕事帰りの逢瀬。
 どうにか滑り込んで約束を取りつけた日は、やはり、どうしてもうれしい。早良は表情を引き締めようと必死になりながら、夜の道を愛車で駆ける。彼女の部屋まで飛んでいく。
 あかりの部屋に辿り着くのは、早い日でも大体七時過ぎのこと。たまに飛び込んでくる恋人を心得てか、彼女は夕食を済ませてしまっている場合が多い。電話を掛けておけば、玄関にちょこんと座って待っている。
「いらっしゃいませ、早良さん」
「夜分遅くに済まない」
 早良がドアを閉めながら告げると、すかさずあかりはかぶりを振る。
「ちっとも遅くないですよ。……何か、お飲みになりますか」
「お茶を貰えるかな。冷たいのでいい」
「わかりました」
 敏捷に立ち上がったあかりが、室内へと消えていく。それを見送ってから早良は玄関框に腰を下ろした。冷蔵庫の開閉音と、コップに注がれるお茶の音が聞こえてくる。
 仕事帰りの訪問も、これで四度目になるだろうか。初めのうちは、部屋に上がってくださいとしきりに勧めてきたあかりも、ようやく早良なりの遠慮を察したようだった。早良が玄関先だけで用を済ませ、決して中に入らないのを許容するようになっていた。
 早良は、単に夜の訪問が無礼だと思っているだけではなかった。うっかり靴を脱いでしまえば帰りがたくなるだろうとわかっていたのだ。それほどに彼女の傍は居心地がよかった。ろくに話も弾ませられない、不器用にたびたび会話を途切れさせているくせに、それでも二人でいられるのが幸せだった。一旦幸せの味を知ってしまうと、次は失うのが怖くなる。だからひとまずは、ほんの数分間でも顔が見られる、直に声が聞けるということにだけ、幸せを感じていようと思っていた。

「お待たせしました」
 いそいそと玄関に戻ってきたあかりは、トレーに載せたコップを、早良へと手渡した。ひんやりと冷たい麦茶だ。九月の夜はまだ蒸し暑く、仕事を終えたばかりの早良にはこの上ないもてなしだった。
 一気に飲み干し、息をつく。それから礼を述べる。
「ありがとう」
「いいえ、何のお構いも出来なくて。お替わりは要りますか?」
「いや、いい」
 答えて、あかりにも座るようにと促す。安アパートの玄関は狭く、二人で並んで座ることは出来ない。あかりは早良の斜め後方に、肩がぶつからない程度の距離を置いて座る。振り返らなければ顔の見えない位置が、今の関係にはちょうどいい。
「お疲れですか」
 振り向かない早良に対し、あかりが気遣わしげに尋ねる。とっさに早良は彼女を顧みた。
「そうでもない。全く疲れない仕事なんてないしな」
「早良さんのお話を聞いていると、社会に出るって大変なんだろうなって思います」
 玄関の照明は淡いオレンジ色をしている。その下で小首を傾げるあかりの表情は、普段よりもぐっと落ち着いて見えた。心配されているのがわかると、早良としては喜んでばかりもいられない。
「君に心配を掛けるようなことでもないんだ。気にしないでくれ」
 軽い調子で話を打ち切ると、すぐに別の話題を持ち出した。
「それより、大学の夏休みはいつまでだ?」
「後期は十月からです。でも、その前にも何度か顔を出さなくてはいけなくて」
 あかりが肩を竦める。
「夏休みが終わってしまうのも寂しいような、うれしいような、複雑な気持ちです」
「就活を始めたら、そうも言っていられなくなる」
「きっと、おっしゃる通りだと思います」
 笑う顔はそれでも、まだほんの少しあどけない。社会に出るまでの猶予がある面差しを、早良はどことなく羨ましく思う。もし、学生時代のうちに彼女と出会っていたら、自分も夏休みの貴さを知ることが出来ていただろうか。
 そこまで考えて、早良は笑みを返す気になった。
「なら、夏休みが終わる前にどこかへ行こう。君が忙しくなる前に、もう一度くらい会う時間が欲しい」
 仕事帰りにこうして会って、他愛ない会話をするのも悪くない。悪くはないが、もう少しゆっくり会いたいとも思う。玄関先の会話はあまりロマンチックではない、恋愛感情に不慣れな人間には、ある意味適切な環境でもあるものの。
 この間だって、結局食事に行っただけだった。せっかくあかりも同じ街に住んでいるのだから、長い時間拘束しても構わないはずだ。そう思っていた。
「はい、是非」
 あかりは即座に頷いてくれるから、ほっとする。
「土日でしたら、私はいつでも構いません」
「わかった。どうにかして時間を作って、後で連絡する。来週の週末なら、恐らく予定も入らない」
「お待ちしています」
 そして彼女は、実にうれしそうにもしてくれる。何かと疑り深い早良でも、あかりのそういうそぶりは素直に信じたいと思っている。お互いに、二人でいるのが幸せだと、その思いを共有していると信じたかった。
「君はどこか、行きたいところはないか?」
「私が決めてもいいんですか?」
「もちろん。希望があるなら言ってくれ」
 早良が促すと、あかりは考え込むように目を伏せた。しかしすぐには見つけられなかったらしく、やがて笑ってこう言った。
「あの、考えておきます。後でゆっくりと」
「そうしてくれ」
 玄関先での逢瀬はゆっくりともしていられない。たったこれだけの会話ですぐにタイムリミットがやってくる。慌しいことこの上なかったが、それでも決して無駄な時間ではないとも思っている。
 少なくとも、幸せな気持ちになれる。
「じゃあ、そろそろ帰る」
 腕時計を確かめ、早良は立ち上がった。既に夜の八時を過ぎている。未成年の部屋にこれ以上の長居は出来ない。
 あかりもまた、慌てたようにその場に立った。そして愛想よく応じてみせる。
「わざわざありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「ああ。近いうちにまた連絡する」
 早良は愛想よく、という訳にもいかない。靴を脱いで上がりこまなくても、帰りがたさ、離れがたさはさして変わらない。彼女の傍を離れる決意が出来るのは、次の機会を常に、頭の片隅で考えているからなのだと思う。
「おやすみ、あかり」
 別れ際の挨拶も、だから、その言葉を選んだ。別れの言葉ではなく、突然押し掛けてくる自分をささやかにもてなしてくれる彼女への感謝を込めて。自分が去った後、これからの時間がせめて穏やかなものであるように、と願っている。
 心得ているのか、あかりも同じように答える。
「おやすみなさい、早良さん」
 狭い玄関先で尚、一定の距離を置いている。恋人らしいふるまいと言えば、笑顔で見つめ合っていることくらい。それも片方の笑顔はとってつけたようにぎこちない。そんな時間を、早良はこの上なく幸せで、この上なく貴いと思っている。
 結局、一緒にいられたのは一時間ほどだった。満足とも不満ともつかぬ思いで、早良はあかりの部屋を後にする。

 車に乗り込んでから振り返ると、ちょうど彼女の部屋、玄関の照明が消されたのが見えた。
 彼女はこれから、どんな夜を過ごすのだろう。想像を巡らせてみてもまるで思い浮かばない。早良にとって、自分以外の人間の生活などこれまで興味の範囲外だった。まして年頃の娘の暮らしぶりなど想像し切れるものでもなかった。
 ただ、せめてほんの僅かでも、自分のことを考えてくれていたらいいと思う。
 早良が一人きりで過ごす夜も、これから始まる。ふとした弾みであかりのことを考え始めてしまうような、あまり心穏やかではない夜になる。それを毎晩のように繰り返しているから、どうしても、短い時間でも会わずにいられなかった。
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