Tiny garden

銀色の約束

 食事を済ませた帰り、静かな車内であかりが、ふと尋ねてきた。
「早良さんは、年末年始のご予定、何かありますか?」
「年末年始?」
 尋ねられた早良はハンドルを手に、少し笑った。
「君も随分と気が早いんだな。夏休みの終わらないうちから冬休みのことを考えてるのか」
「すみません」
 助手席からも笑う声がする。それだけで、車内の空気が柔らかくなる。
「私、年の瀬までは帰省しない予定でいるんです。それで、早良さんはどう過ごされるのかなって、聞いてみたくて」
「特に予定はない。年末は忙しいだろうが、年が明けたら仕事始めまでは休みだ。のんびりするつもりでいる」
 家族で過ごすという選択肢は端からなかった。父親は年末年始を旅先で過ごしたがったが、それに早良が帯同しなくなってから久しい。父親と母親が出掛け、家政婦にも休みをやった家で、一人きりの年末年始を過ごすことが多かった。母親は旅行から帰ってくると寝込むのが常で、両親の間の空気もそれとなく知れていた。
 早良が父親に本心を告げ、あかりへの思いを告げてから、既に一月以上が過ぎていた。しかし家族間のよそよそしさは相変わらずで、今年も共に過ごすという選択肢はなさそうだ。何も変わっていない訳ではないのだろうが、これ以上変えようがあるのかどうか、まるで見えていなかった。
 早良の胸裏に父親の顔が過ぎる。あれから会話をする機会も得られていなかった相手は、息子の現在の浮かれようをどう思っているのだろう。ただの恋人ではなく、彼女は婚約者なのだと言えたら、少しは真剣さも伝わるだろうか。少なくとも、彼女と未来を共にするつもりがあることだけは、父親にも理解して欲しい。早良はそんな風に思っている。
「もしよかったら、また上郷に来ていただけませんか?」
 あかりが語を継ぎ、早良は思索から現実へと引き戻された。フロントガラスに映った姿が、一瞬びくりとしたようだ。
「……いいのか?」
 思わず問い返す。
 助手席の彼女が勢いよく頷いた。
「はい、是非どうぞ。冬の上郷もいいところですよ」
「しかし、年末年始にお邪魔して、迷惑にならないか?」
 早良も気が乗らない訳ではなく、むしろあかりと一緒にいられる理由になるなら、どんな提案でも諾々と受け入れたい気分だった。上郷の冬は仕事で数回行ったきり。一面雪に包まれた山の景色も印象に残っていたが、仕事を離れて行くとなるとどうだろう。悪くないはずだ、と思う。
「年末年始はあまり忙しくないんです。うちは温泉がありませんし、雪が積もってしまうから交通の便がよくなくて、あまりお客さんが来ないんです」
 苦笑交じりの語調であかりは言う。
「来るのは帰省してくる人たちか、あとは……冬の星座を見に来る人たちくらいです。ですから早良さんに来ていただきたくて。もしご予定がなければ、一緒に年越しを過ごしたいなって」
「それもいいな」
 口ではごく控えめに答えた早良だったが、心中ではしみじみうれしさを噛み締めていた。これを幸せと呼ばずして何と呼ぶのだろう。――そう思いつつ、口元が緩むのを必死で堪える。
「考えていただけたら私もうれしいです」
 心なしか、彼女も幸せそうにしている。一瞬だけ横目で見た表情に、痛みとも疼きともつかない感覚を覚える。後ろめたい感覚でもあった。
「よかったら一緒に、かまくら作りましょうか」
 あかりは時々、無邪気過ぎる顔をする。その時だけは、恋人という形容が不似合いになるくらいに。そんな彼女の様子がかえっていとおしく、言い知れない後ろめたさにも繋がっていく。やはり彼女を婚約者と呼ぶのは尚早なのかもしれない。レストランでのやり取りは早良に不安と後悔を抱かせていたが、今の表情を見ていると諦めもついた。
「かまくらなんて作れるほど積もるのか」
 気持ちを切り替えた早良の質問に、あかりは嬉々として答えた。
「はい。雪不足でもなければ、雪かきの必要なくらい積もりますよ。かまくらだって、雪だるまだって作れます」
「なら、時間の許す限り作ろう」
「はい!」
 元気のいいあかりの返事を聞くと、あれこれ気を揉んでいるのも滑稽なことに思えてくる。不安に思うことも気を遣うこともさして必要ないのではないか、とさえ思えてくる。かまくら作りに携わる気でいる自分がやけにおかしく、しかし別段不自然でもないようだと感じている。かまくらだって一応は建設物だ。得意分野に違いない。
 それなら、あかりや雄輝が目を丸くするような、出来のいい奴を作りたい。早良は密かに気炎を上げた。まだ八月のうちから、既に心は年末年始まですっ飛んでいる。

 レストランからの帰り道は空いていて、車の流れもスムーズだった。駅まであかりを迎えに行った時とは違い、彼女のアパートまですんなりと辿り着いてしまいそうだった。
 いつの間にか会話は途切れ、車内には穏やかな沈黙が流れていた。あかりは助手席の窓にもたれるようにして、目映い夜の景色を眺めている。そういう時、早良は無理に話題を探さないようにしていた。沈黙がさほど恐ろしいものでもないと気が付いたのも、最近のことだった。

 郊外の住宅地に車が進み入った時だった。
「――早良さんは」
 不意にあかりが口を開いた。
「本当に、私でいいってお思いなんですか」
 早良にとって、気分のよくない質問を再び、告げてきた。
 嘆息し、早良は肩を竦める。
「そうじゃなかったらこうして誘ったりはしない」
「でも私、未熟じゃありませんか?」
 おずおずとした尋ね方は焦りをも含んでいた。尋ねられた方こそ、焦らずにはいられないくらいだったが。
 どういう意味で尋ねられたのか、とっさにわからなかった。考える余裕もなかった。運転中だ。
「ちょっと待ってくれ」
 語気を強めて制止すると、早良はアクセルを踏み込んだ。車のスピードを上げた。人通りの少ない住宅街の道を飛ばして走る。直にあかりのアパートまで辿り着いた。
 無言のままで車を停める。エンジンを切る。
 シートベルトを外してから、助手席の彼女に向き直った。静かになった車内では、室内灯が息を潜めるように、じりじりとやがて消えていった。
 暗がりに包まれたあかりも、ぎこちない手つきでシートベルトを取る。
「運転中におかしなことを言い出すのは止めてくれないか」
 真っ先に早良が咎めると、あかりがたちまち済まなそうな顔をした。
「ごめんなさい」
 消え入りそうな声だった。
「……わかってくれればいい」
 早良の声も意図せず陰った。衝動的に怒った後で、あかりにしょげられると今度は自分に腹が立ってくる。こんなことで黙ってもいられない自分は、やはりどうしても完璧ではない。
 俯くあかりを見下ろして、早良は慌しく言葉を続けた。
「君に少しでも気に入らない点があったなら、君に婚約を申し込んだりはしない。そのくらい、察して欲しい」
「ごめんなさい……。わかります」
 僅かにだけ頭が動く。頷いた、ようだった。
「私も、早良さんが好きです。結婚するなら、早良さんがいいって思います」
 ためらわず告げられた内容は、早良を動じさせるに十分だった。腹を立てた直後だというのに、にわかにどぎまぎして、俯く彼女から視線を逸らしたくなる。あかりが顔を上げないのをいいことに、声だけは硬質に発した。
「じゃあ、何を思っている? どうしてあんなことを聞いたんだ」
「だって私、未熟ですから。早良さんのようには到底なれません。早良さんと一緒にいるには、早良さんみたいに立派にならなくちゃおかしいと思うんです」
 立派と言われて、ますます居心地が悪くなる。彼女は気付いていないのだろうか、早良が完璧さを失うさまを、これまで何度も目の当たりにしているはずなのに。
「俺だって未熟だ。君だけじゃない」
 早良は言い、あかりがゆっくり面を上げるのを、心許ない思いで見守った。あかりは訝しそうな表情でいた。大きく目を瞠って、早良の不安を映し出している。
「そんな、早良さんは立派な方です」
「そうでもない。買い被り過ぎだ」
「私は、早良さんみたいになりたいんです。そうじゃないと、早良さんのお嫁さんにはふさわしくありません」
 お嫁さん、というあどけない単語だけで早良は面食らった。いつもと同じ感想を抱く。――全く、彼女は子どもなのか大人なのかわかったものじゃない。
 早良を捉えている眼差しは、幼いばかりの色をしていない。胸の前で組まれた十指は、子どものものでは既にない。
「俺は、今の君で十分だ」
 今でも、完璧さを失うのには十分な存在だった。そんな言葉をはっきり告げられるほど、今の早良は平静ではなかったが。
「婚約の話なら、もっと気楽に考えてくれていい。君の言ったように、この先百年は一緒にいる約束だって思ってくれても構わないんだ。ただ俺は、君じゃなくてはいけないし、君にも同じように思っていて欲しい。それだけだ」
 一気にまくし立てて、その後息をつく。それからちらと視線を向ければ、助手席の彼女は暗がりでもわかるほど真っ赤な顔をしていた。がくがく、頷いてきた。
「あの……あの私、同じように思ってます」
 そして小声で、付け加えた。
「いつかは、早良さんのお嫁さんになりたいです。あの、だから……」
 けれど、『だから』の後の言葉は続かなかった。
 早良もあかりの手を、奪い去るように握ったものの、言葉を継ぐことは出来なかった。ただ彼女の手の柔らかさを、感じているしか出来なかった。とうに大人の手だと思う、だが――指輪はまだ不似合いかもしれない。

 アパートの前に停められた車の中、婚約という言葉はまだ遠いのかもしれない、不器用な恋人たちがいる。
 何も言えないまま、それでも時間を忘れるくらいの間、お互いの存在をごく近くで感じ合っていた。
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