Tiny garden

あんまりにも優しすぎて胸が疼く

 舞台としてはどうなのだろう。完璧とは言いがたいかもしれない。
 思えばあかりと知り合い、様々な形で接するようになってからというもの、早良は『完璧』を追及することを止めていた。いつの間にか。仕事は手を抜かず、私生活に隙を作らず、交友関係は当たり障りなく、全て完璧にこなしているつもりだった。しかし宮下あかりに対してだけは、一度として完璧さを発揮出来なかったように思う。むしろいつでも何かしら失敗していた。空回りしていた。馬鹿みたいな気持ちの浮き沈みと冷や汗と赤面とが、常に自分について回った。そういう自分を、初めて知ったように思う。
 今夜の舞台は完璧だろうか。僅かに考え、やがて自ら否定する。街中にある人気のカジュアルレストラン。子ども向けのメニューのないところを、と史子がわざわざ選んでくれた店だ。お蔭で客の年齢層は高め、店内もごく静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。
 料理はなかなか美味しかった。コース料理は気取らない味のものが揃っていて、なのに出されるタイミングがいい。テーブルを挟んだ向かい側では、料理を誰よりも美味しそうに食べる人物がいる。彼女の笑顔を見るにつけ、早良は思う。――ここまでは、文句なしに完璧なのだ、と。
 完璧でないのはただ、自分だけだった。

 完璧ではなかった。何せ、何も用意していなかったのだ。指輪も。或いはそれに準ずるいずれかの贈り物も。早良は何も用意していなかった。どのタイミングで用意するものかまるでわからなかった。こればかりは史子にも聞けなかった。聞こうものならたちまちからかわれ、くすくす笑われるに違いないから、聞けなかった。
 それでも完璧ではない心は、馬鹿みたいに単純に信じている。大丈夫だ。いざという時にものを言うのは心と、誠意と、愛情だ。経済力その他を見せつける為の行事ではないはずだ。彼女はきっとわかってくれる。
 十も若返ってしまったような単純さ及び迂闊さで、早良は遂に意を決した。

「――婚約しよう」
 食事の手を止め、早良は唐突に切り出した。
 それはあかりが、ちょうど肉料理の最後の一切れを口に運んだ直後のことだった。いつものように美味しそうな顔をすることもなく、彼女は目を瞠った。肉はそのまま彼女の口の中に納まったが、代わりにフォークが皿の上に落ちた。がちん、と金属音がした。
「す、すみまへん」
 くぐもった声であかりは詫び、その後慌てて肉を飲み込もうとした。気が急いたかかえって時間が掛かったようだ。早良は黙って待っていたが、当然よい心持ちではなかった。
 飲み込み終えた後で、改めてあかりが口を開いた。
「あの、早良さん。今、何て……」
「婚約しよう、と言ったんだ」
 恥ずかしい台詞を繰り返すのは、一層恥ずかしいものだった。早良は生真面目な顔を作って告げたものの、内心では既に不安に捉われていた。
 テーブル越しに見るあかりの顔が赤らんでいる。視線がぎくしゃく宙を泳いでいた。
 しばらく、お互いに無言だった。
「早良さん、もしかすると、ご存じないかもしれませんけど」
 やがて。おずおずとあかりが切り出してきた。
「私、まだ十八歳なんです」
 その言葉に早良は少しむっとした。恋人の年齢を知らない男がこの世にいるだろうかと。
「失礼だな。そのくらいは知っている」
「それで、その、大学にも今年入ったばかりで」
 たどたどしいあかりの声に、早良の無闇に毅然とした声が重なる。
「承知の上だ」
 あかりは面食らったようだ。困惑した様子で小首を傾げた。
「じゃあ……さすがに、尚早だと思いませんか?」
「思わない。君は思うのか」
「思います……」
 早良にしてみれば、あかりの今の答えの方がよほど面食らう。内心の不安が膨れ上がった。思わず尋ねた。
「君にとって俺は、何か不足なことがあるのだろうか」
「い、いえ、そういうことではないです。ちっともないです」
 あたふたとかぶりを振り、あかりは小声で語を継いだ。
「ただ、あんまり考えたことがなかったので……婚約、なんて」
「婚約したからと言って、すぐに結婚する訳じゃない。気楽に考えて欲しい」
 むしろそういう早良こそ、気楽ではない口ぶりだった。
「俺はいい加減な交際はしたくないと思っている。まして君のご両親にも知っていただいている関係だ、あまり不真面目なふるまいをしているとご両親にも心配を掛けるだろう。だからひとまず、婚約をしようと思い立った」
 一応、熟慮の上だった。
 あかりの帰省している間、早良も早良なりに考えた。ともすれば彼女一人に支配されてしまう心は、およそ完璧とは程遠い。寂しいだの会いたいだのと心中で愚痴を連ねる行為を繰り返していれば、そのうち外に表れてしまいそうだと思った。恋人に夢中になるあまり、大の大人らしくもない迂闊さを発揮し続けている早良は、それが他人の目につくことを恐れていた。本当に恐ろしいのは史子でも自分の父親でもなく、あかりの身内だ。彼らの信用を損なうことだけがひたすら恐ろしかった。
 確実に真面目な交際であることをご両親に伝えつつ、あかりに夢中になる為には、一体どうするのがよいだろう。
 考えた末に導き出した答えが、婚約だった。
 時期尚早とは思わなかった。手を打つなら、むしろ早いうちの方がいいはずだと思っていた。
「両親なら大丈夫ですよ、早良さんのこと、とっても真面目な方だと存じています」
 あかりは取り成すように微笑んだが、早良の不安は膨らむばかり。
「しかし、まだろくにご挨拶もしていないのに」
 先日、上郷を訪問した際にも、満足に会話が出来なかった。旅館は書き入れ時を迎えていて、あかりの両親は休む間も惜しんで立ち働いていたようだった。次回の訪問時には、と早良も思うのだが、早良にだって仕事がある。次回がいつになるのかはわからないままだ。
「上郷の皆は、早良さんのお仕事を知っていますから」
 そう言って笑うあかりの口調が、全幅の信頼を滲ませている。
「ですから大丈夫です。早良さんが立派で、真面目な方だってこと、皆もちゃんとわかってます。うちの両親だってそうです」
 彼女の気持ちは素直にうれしい。だが、早良にはなかなか信じ切れないものでもあった。

 恋人の心を信じていない訳ではない。
 信じられないのは、あかり以外の人間のことだった。
 長らく巣食っていた人間不信の情は、そう容易く消え失せてしまうものではなかった。ともすれば他人の言葉の裏を探りたくなる衝動は、今でも胸裏に深く根を張っている。人を信じることに時間の掛かる早良にとって、仕事だけを見せて人間としての信頼を得るという過程は理解しがたい。
 願望だけならいくらでも思う。本当に、全て彼女の言うとおりだったらいい。彼女の言葉をまるごと信じたいと思う。

 早良は食事の手を止めたまま、次の言葉を探していた。
 薄々予感はしていたものの、あまりの反応の悪さ。内心不安にもなる。かといって完璧でいられない心は、こういう時の語の継ぎ方をまるで捉え切れずにいる。
 同じように何か探していたらしいあかりが、やがてためらいがちに言ってきた。
「本当に、私でいいんですか」
 その問いは、早良の気に入るものではなかった。素早く眉を顰めた。
「何を言うんだ、今更」
「でも……婚約してしまってから、早良さんの気が変わったらって思うと」
「そんなことはない」
 あかりの懸念を一蹴した早良は、返す刀で、最も信頼を寄せている相手に尋ねた。
「君の方こそ、気が変わる予定でもあるのか」
 尋ねる自分の口調が拗ねた子供のように聞こえて、早良は一人、更に不機嫌になる。そんな恋人の態度も心得ているのか、あかりはあくまで微笑んだ。
「いいえ、ありません」
「だが、さっき言ったじゃないか。婚約なんて考えもしてなかったって」
「私は大学生ですから……。今は勉強することだけでいっぱいで、将来のことまで想像するのって、難しいです。それはもちろん、早良さんとはずっと、一緒にいたいですけど」
 穏やかに言った後ではにかむ顔が、早良には眩しい。どちらが年長者なのかわかったものではない。
「勉強と両立させるのって、大変なんです」
 声のトーンを落としたあかりが、そう言い添えた。
「だから、あんまり早良さんのことばかり考えないようにしなきゃって、思っていたところでした。そうしないとすぐに、いっぱい考えてしまいますから」
 その辛さは確かに、早良も知っている。
 知っているからこそ約束がしたかった。これから先、仕事が忙しくなっても、会う機会が少なくなってしまったとしても、ずっと絆を繋いでいられるように。恋人よりももう少し、確かで揺るぎない関係でありたかった。それはもしかすると、あかりの心さえ信用し切れていないということになるのだろうか。会えない時間が続けばこの関係も揺らいでしまうと、早良自身が心底で思っているのかもしれない。彼女に対しては完璧でいられない。そのせいでいつも、訳もなく不安になる。生まれて初めて得た心だからこそ、余計に。
「君の事情はわかった」
 早良はようやく、僅かにながらも笑んだ。
 頑なな態度を和らげる気になったのは、自らの不安の強さと、その要因とに気付いたからだった。静かに、彼女へと告げる。
「じゃあ、せめて約束して欲しい。これから先、ずっと俺と一緒にいてくれ」
 間髪入れずに頷きが返った。
「わかりました」
「……本当にいいのか。随分と簡単に返事をしたようだが」
 あかりが即答すればしたで、早良はうろたえてしまう。本当にわかっているのかと別の意味で不安になる。
 しかし本人はけろりとしたものだった。
「だって、気の変わる予定なんてありません。早良さんがいいと言ってくださったら、十年でも二十年でも一緒にいたいです」
「二十年は短いな」
「それなら、百年にしましょうか」
「百年一緒にいるなら、婚約したのと同じだ」
 今度ははっきりと拗ねた早良に、あかりも楽しげな笑いを零した。
「そういえばそうですね。でも、婚約するまでの時間よりも、百年間の方がずっと長いです」

 早良は虚を突かれ、しばらく目の前の笑顔を見つめていた。あかりの面差しは優しく、だからこそ胸が疼いた。
 彼女の前では完璧でいられない理由が、如実にわかる瞬間だった。
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