Tiny garden

やさしい貴方へ

 早良は、表情の選択に迷っていた。
 うれしいのは確かだった。知らず知らずのうちに口元が緩んでくる。それでもあまり浮かれるべきではないと考え、どうにかして表情を引き締めようとしていた。結果、バックミラーに映る顔がやたら険しく見え、これではいくらなんでもまずいと思い直す。控えめに、柔らかい顔つきを心がけようと必死だった。その試みが上手くいっているかどうかは、鏡から視線を外すとたちまちわからなくなる。
「わざわざごめんなさい、早良さん」
 車のドアを開けてきたあかりは、笑顔だった。その内心はともかく、表向きは朗らかに見えた。早良が助手席を指し示すと、素直に乗り込んでそこへ腰掛ける。膝の上に旅行鞄を置き、シートベルトを締めた。
「鞄、重くないのか」
 早良は尋ねた。後部座席もトランクも今日の為にがら空きだ。何を積んでも構わないと思っていたのに、あかりは思いのほか軽装だった。
「いえ、大丈夫です」
 そう言って、やはり笑んでいる。
「重たい荷物は、アパートに直接送っちゃったんです。ここにあるのは本当に、身の回りのものだけで」
「それならいい」
 えもいわれぬ気まずさを味わいつつ、早良は車を発進させる。混み合う駅のロータリーを抜けると、窓の外には夕暮れの景色が流れ出す。駅前通りもやや混んでいた。
「お休みの日なのに迎えに来ていただいて、すみません」
 助手席のあかりが詫びてくる。会うのは二週間ぶりだったが、よく日に焼けていること以外の変化はないようだ。久し振りの再会をぎこちなく感じているのも早良だけらしい。
「特に予定もなかったからな。君が気にすることじゃない」
 先の詫びにはそう答えたものの、何となく無愛想な印象を抱いて、自らフォローを添えてみる。
「久し振りだから、機会を作って会っておきたかったのもある」
「うれしいです。ありがとうございます、早良さん」
 ふふっと笑う声がして、あかりも言った。
「私もお会い出来ない間、寂しかったです。二週間ってこんなに長いものなんだって、思い知った気分でした」
「流星群の日以来か」
 八月の半ば、上郷を訪れた日のことを思い出しながら、早良は呟く。隣であかりもしみじみと相槌を打った。
「そうでしたね……」

 八月も終わりに近づく、ある日曜日。あかりは再び上郷から、早良の住む街へとやってきた。
 あかりのいない毎日は早良にとって、何とも味気ない日々となった。仕事に追われるうちはまだましで、帰宅して自室へ踏み入れば、途端にあかりの不在を思い出す。電話を掛けようにもあかりは携帯電話を持っておらず、実家の電話を鳴らす気恥ずかしさに、寂しさのみでは打ち勝てなかった。雄輝が出てくれるならまだいい、あかりの両親が電話に出た場合、どう挨拶をすればよいのだろう。迷った挙句、早良は一人で堪え忍ぶ道を選んだ。今日までの二週間はまさに、地獄だった。
 会いたくても会えない距離というのは何よりも心苦しいものであり、早良の煩悶を知ってか知らずでか、あかりからの連絡も毎日という訳ではなかった。あかりも実家で怠けている訳ではなく、書き入れ時の家業を支えているのだから致し方ないことではある。とは言え恋人を得たばかりの青年にとって、当の恋人と引き離された二週間は、長く辛い時間でしかなかった。

 そうして地獄の二週間を過ぎ、今日、あかりは上郷から戻ってきた。
 いそいそと駅まで迎えに言った早良だが、いざ顔を合わせてみるとぎくしゃくしてしまうのだから手に負えない。
「君が帰ってこなかったら、どうしようかと思っていた」
 フロントガラスの向こう、目映い景色を睨みつけながら早良は言った。すぐに助手席から返事があった。
「そんなことないですよ。私だって、早良さんにお会いしたかったんですから」
 はっきり言われてしまうと答えに詰まる。早良は内心どぎまぎしながらも、表情だけはせめて平静を装おうと努めた。バックミラーで確かめる。――上手くいっていなかった。
「こちらでは、何か変わったことはありましたか」
 あかりの声は努めて平静だ。そして案じていた以上に快活そうだった。
「志筑さんが一人暮らしを始めた」
 早良は答え、ちらとあかりに目をやる。ぱちぱちと瞬きする顔を視界の端に見た。
「志筑さんが……? もうお引っ越し先、決めてしまわれたんですか」
「ああ、見つけてすぐに実家を出て、転居したそうだ」
 史子が家を出ると宣言してから、やはり二週間が過ぎていた。しかしこの場合は『たった二週間』と言うべきだろう、早良が煩悶している期間に史子は転居先を探し、不動産屋と契約を済ませ、決まるや否や荷物を新居へと運び込んだらしい。父親を説き伏せるのには手間取らなかった、とは本人の弁。早良にも意外過ぎるほどのフットワークの軽さを見せた。
「一度、君を連れて遊びに来て欲しいと言っていた」
 史子からの伝言を告げると、あかりも弾んだ声を上げる。
「お邪魔してもいいんですか? 私も志筑さんにお会いしたいです」
「むしろ君に来て欲しいそうだ。俺は気が乗らないなら来なくていい、とまで言われた」
「でしたら是非、行きたいです。写真のお礼もしたいですし」
 はしゃぐあかりの言葉を聞いて、早良は何となく胸騒ぎを覚える。史子とあかりはどうやら気も合うようだし、自分が行ったところで、女性二人の蚊帳の外に置かれるだけだろうという予感もしていた。そうは言ってもあかり一人で行かせようと思うほど、早良も薄情な人間ではない。むしろ自分の不在の折、史子によってあれこれ吹き込まれては堪らない。今でこそ四角四面な早良だが、幼い頃はどこにでもいるようなやんちゃ坊主に過ぎなかったのだから――つまりあかりの面白がりそうな、史子も嬉々として話したがりそうな話題には、恐らく事欠かないはずだった。
「早良さんも、気が乗らないだなんて言わないでくださいね」
 内心を悟られたか、あかりがやんわり釘を刺してくる。早良は拗ねたい気分で応じた。
「わかってる」
 それでも少しばかり、ほっとしていた。
 彼女が自分の隣にいても、ちゃんと笑ってくれていることに。

 あかりの心を疑うつもりはなく、ただ、案じていた。
 故郷を離れ、ホームシックも経験したあかりにとって、夏休みの帰省は待ちに待ったものだったに違いない。早良には辛いばかりの二週間だったが、彼女にとってはそうではないはずだ。どこにいるよりも心安らぐ時間を得ていたに違いなかった。
 だからこそ、あかりが九月を待たず、八月のうちにこちらへ戻ってきたことを不安に思っていた。早良も寂しいだの何だのとあまり口にはするまいと心がけていたものの、たとえ言わずとも言外に伝わってしまった可能性は大いにある。あかりが自分に気を遣い、わざわざ早めに戻ってきてくれたのではないかと考えていた。だとすれば、彼女の寂しさを埋めるのは他でもない自分の役目だ、とも。

「疲れてないか」
 ハンドルを握る早良は、やがて慎重に切り出した。
 あかりが僅かに身動ぎをするのが、目の端に見えた。
「え?」
「いや、電車に揺られてきて、くたびれてはいないかと思ったんだ。平気か?」
「あ、はい。平気です。大した距離ではありませんし」
 上郷の駅に特急は停まらない。乗り継ぎも含めて三時間は掛かる道程でも、あかりは朗らかにそう言った。
「早良さん、優しいですね」
 ぽつりと後に、呟いた。
 早良からするとなかなかに気まずいものだった。優しさだけで案じたつもりはなく、目的はむしろ他のところにあった。小声でも誉められるとさすがに面映い。
 優しくしたいと思っているのは確かだ。けれどそうすることに慣れていないから、いつも迷う。今でもためらいたくなる。
「もしよかったら今夜、食事に行こう」
 信号が赤に変わり、車を停めたタイミングで早良は言った。
 あかりがこちらを向いたので、後に続く言葉はいささか駆け足気味だった。
「君も疲れているだろうし、帰ってから買い物に行くのも、食事の支度をするのも面倒だろ? それに久しぶりに会って、いくつか話したいこともある。肩肘張らない気楽な店を予約しておいたから、君もよければ付き合ってくれないか」
 ぎこちない口調で言い切って、その後で早良は視線を、助手席へと向ける。
 助手席のあかりはきょとんとしていた。誘われる可能性は想定していなかったのかもしれない。
「ええと……私は構いません、でも、早良さんはいいんですか」
「よくなければそもそも誘わない」
「あ、そうですよね。あの、じゃあ、ご一緒します」
 相変わらずの口調とお辞儀を返し、あかりはおずおず言い添えてくる。
「何だかすみません。迎えに来ていただいたばかりか、あれこれ心を砕いていただいて」
「君が気にすることじゃない」
 優しさだけでしていることではないから、早良は告げる。
「単に、君に会いたかっただけだ」
 信号が変わる。混み合う夕刻の道を、車はゆっくりと走り出す。あかりのアパートに着くまでは、いつもより時間が掛かりそうだった。久しぶりに会ったぎこちなさの中、ウォーミングアップにはちょうどいいのかもしれない。
 何せ隣にいるのは、地獄の二週間でずっと、ひたすら会いたいと願っていた恋人だ。ぎこちなくても、気まずくても、うれしくないはずがない。もう少し一緒の時間を過ごせば、どんな感情よりも幸せが募り、打ち勝ってしまうに決まっている。
「私もです」
 ふと、あかりの声がした。
「二週間って長いですね、本当に」
 万感の想いを込めた言葉を聞いて、早良はそっと息をつく。
 直後に覗いたバックミラー、映っていたのは例によって、わかりやすい表情だった。
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