Tiny garden

天頂引力(7)

 穏やかな沈黙が続いていた。
 早良も、史子も、そしてあかりも、しばらく口を利かずにいた。

 早良の胸中は安堵と強い決意と、僅かながらの気まずさで満たされている。達成感はまだない。微かな手ごたえに満足する気もさらさらない。全てはこれからだとわかっていた。
 これからが正念場だ。大見得を切った以上、早良は全力で挽回しなくてはならない。目に物見せてやるつもりでいた。子どもの成長を認めようとしない父親たちに。それこそ死に物狂いで働く覚悟がある。元々、仕事が趣味のようなものだ、他のものは何もかも失ったって惜しくはない――たった一つ、彼女の存在を除いては。
 まだ、早良はあかりと手を繋いでいた。もちろん不快ではなかったが、三人だけになった今、いささか気になった。すぐ傍に史子がいる状況では、気付かれた拍子に冷やかされるのではないかと懸念があった。しかし手を外そうとするとあかりが顔を上げ、怪訝そうな顔をしたので、外せなくなった。
 早良はあかりを見て、少しだけ笑った。笑えていたかどうかは、その時早良を見ていたあかりにしかわからない。早良自身にもわからない。しかし彼女が笑い返してくれたので、きっと笑えていたのだろう。彼女がくれた言葉に、ささやかにでも報いるような笑顔になっていたのだろう。

 いつの間にやら、ホテルのラウンジに射し込む陽が傾き始めた。色味を濃くした光は三人と、調度の影とを長く伸ばしていく。じりじりと時間を掛けて、長く長く伸びていく。
 空の色が目に見えて変わり始めた頃、
「ねえ、早良くん」
 沈黙を真っ先に、初めて破ったのは、史子だった。
 びくりとした早良をよそに、優しげな視線はあかりへと留まる。言葉の方は、早良に向けられた。
「彼女のこと、紹介してくれない?」
 気分を切り替えるように史子は、明るい口調で促してきた。
「せっかくこうしてお会い出来たんだから、お話したいわ。いいかしら?」
「あ……ああ、そうだな」
 早良はいささか戸惑った。こういう状況には不慣れだ。まず、あかりの手を離した。史子に向かって、ぎくしゃくと告げる。
「宮下あかりさんだ。今は大学生で……その、仕事の関係で知り合った。上郷の出身だそうだ」
 既知の情報だけを述べる下手な紹介でも、史子は気にした様子はない。むしろ早良の紹介など半分ほどしか耳に入っていなさそうだ。いち早く身を乗り出して、あかりに微笑を向けている。
「初めまして、あかりさん。私、志筑史子です」
 その後でふと目を瞠って、
「前に一度お会いしてたかしら?」
 と尋ねる。
「そう、でしたね。四月頃に。早良さんの同窓会の時でしょうか」
 あかりも笑顔で、改めてのお辞儀をする。
「初めまして、宮下です。よろしくお願いします」
 そしてちらと早良の方に、ねだるような視線を向けてきたので、早良は史子の紹介もする。
「志筑さんは俺の大学の同期で、友人だ」
 友人だと告げた時、史子はくすぐったそうに笑んだ。笑顔で言い添えてくる。
「早良くんとは子どもの頃からの付き合いなの。だから、知りたいことがあったら何でも聞いてね。小さな頃の話とか、学生時代の思い出とか包み隠さず教えてあげる」
「わあ、素敵ですね! 是非お願いします」
 すぐさまあかりが手を叩いた。楽しそうに顔を見合わせる二人を、当の本人は戦々恐々と眺めている。自分が話題の中心になることにも慣れていなかった。しかも目の前でそんな話をされては気まずくてしょうがない。
「いいわよ、遠慮なく聞いて。あかりさんには全部話しちゃうから」
「楽しみにしています!」
「その代わり、あかりさんもよかったら教えてね」
「え? 何をですか?」
「二人でいる時の早良くんのこととか、……あ、そうだ。何て言って告白されたのかとか!」
 史子の言葉に、あかりははにかんで早良の方を見る。早良は、思い切り目を逸らした。この上なく、気まずい。
 しかし早良のことなどお構いなしで、女同士の会話は続く。
「今度、アルバムを持ってくるわね。早良くんの、こんなに小さかった頃の写真、たくさんあるの」
「見てみたいです! でも、いいんですか?」
「もちろんよ。何だったら早良くんの写ってる写真、あかりさんにプレゼントするから」
「そんな、悪いですよ」
「遠慮しないで。早良くんにとっては、ちょっと恥ずかしいだろうなって写真もちらほらあるのよ」
「……見たいです、とっても」
 史子とあかりはすっかり打ち解けてしまって、早良は身の置き所がなかった。二重の意味で。
 なので、とりあえず二人を促すことにする。
「そろそろ、帰ろうか。ここにずっといる訳にもいかないし」
「え? もう? まだ時間はあるわよ、早良くん」
 返事をした史子に、今日は一体何をしに来たんだという言葉が喉まで出かかる。
 しかし、今日の当初の目的を思えば、この時間は大きな成功だった。緊張の反動で、史子もあかりもはしゃいでいるだけなのだろう。強張ってしまった顔と心をゆっくりと解きほぐせるような時間だった。


 ラウンジを後にした三人は、ホテルの廊下で、ある人物と再会した。
 内田だった。スーツ姿の彼は、疲弊しきった表情で廊下の壁に凭れていた。早良たちの姿を見ると、待ち構えていたように壁から離れる。そうして厳しい目を向けてくる。
 あかりが怯えた顔つきになる。彼女を庇うようにして前に出た早良は、怒りを抑え込みつつ秘書へ声を掛ける。
「まだお帰りになっていなかったんですか、内田さん」
 年上の秘書は、瞬間に早良を睨んだ。きっと音のするような眼差しだった。
「あんたのせいだ」
 敬語も何もすっ飛んだ口調で告げられた。
「何てことをしてくれたんだ、早良克明」
 呼び捨てにされたのも初めてだった。恐らく彼の内心では、何度もそう呼ばれていたのだろうが。
「あんたが余計な夢を見るから悪いんだ。黙ってりゃ上等のものが手に入る生活をしてるくせに、まだ何か欲しいってのか。それで俺からも奪い去ってく気か。議員の娘でも満足せずに、若い女に手を出して、その上俺の人生まで踏んづけていく気か」
 品性に欠ける言葉で、内田は早良を糾弾する。嫉妬交じりの視線を向けてくる。噛みつかんばかりの勢いは、それでも早良の心を動かさない。
「俺はもうじきクビになる。今回のことで、責任を全部おっ被せられるだろうさ。こっちは仕事だからやったことなのに……くそっ」
 ホテルの壁を蹴る内田を、早良は複雑な思いで見た。ひとかけらの憐憫も浮かんでは来なかったが、この男の内心を想像するくらいのことは出来た。早良はやはり身勝手で、利己的で、ずるい人間なのだろう。
 しかしだからと言って、欲しいものを求めて何がいけないのだろう。他のものを犠牲にして何かを手に入れることの何が悪いのだろう。そうして充足と幸せを得た早良は身勝手なのだろうが、いつよりも人間らしいのだと自ら思う。それは歪ではない、ごく真っ当な心の欲求のはずだ。
「あなたが何をしたのか、俺はしっかり覚えておくようにします」
 早良は至って冷静に、内田へと告げた。
「俺もあなたも同じことです。欲しいものがあるから動いた、それだけです」
 内田は何も言わない。若輩からの言葉は、それは何であれ拒絶したいのかもしれない。信用ならないこの男は、今日一日だけで随分とやつれたようだった。侮蔑の視線はどこか弱々しかった。
 早良は結果として内田の運命を左右したが、運命を自由にする力はない。許しがたいほどの怒りを覚えていても、あるいは気まぐれに同情を寄せたとしても、何の干渉も出来ない存在だった。父親たちと同じように、ただ乗り越えていかなくてはならない。
 だから早良も、それ以上は何も言わなかった。あかりと史子を促して、ここから立ち去ることにした。

「……早良くん」
 エレベーターに乗り込んでから、ふと、史子が口を開いた。
 早良がそちらを向けば、ためらいがちな面差しが俯く。
「ねえ、その……どうするつもりでいるの? 内田さんのこと……」
 自らも探られるような真似をされても尚、史子は内田が気に掛かるらしい。そうと尋ねられ、早良も返答に困る。
「あの人の去就は、俺が決められることじゃない」
 正直に答える。
 クビに出来るものならとっくにそうしていた。内田について恨みこそすれど、温かい感情を持つ理由など皆無だった。自分の迂闊さ、未熟さも十分に思い知らされた。もう二度と、顔も見たくないというのが本音だ。父親の息が掛かった人間でなければとっとと辞めさせることも出来ていたのに、と悔しく思う。
 だが、ある意味ではこれも正直に、言った。
「もしあの人がこれからも、俺のところで働くっていうなら、とことん付き合ってもらうつもりだ。これからは忙しくなる、死に物狂いで働くと決めたからな。自分から辞めたくなるくらいこき使ってやる」
 信用ならない人間は大勢いる。そういった人間を排除するだけの力は早良にはないし、排除していくことばかりが有益なのだとも思わない。若輩と呼ばれるほど未熟なうちは、手近にある物を利用していく方がいい。
「本当に強くなったのね、早良くん」
 史子が、羨ましそうに呟いた。
「でも、そうよね。あかりさんのことを守らなきゃいけないんですもの、強くなってて当たり前よね」
 早良は無言のまま、隣に立つあかりの顔を見た。
 怯えの色の消えた顔が、目の合った瞬間に綻んだ。
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