Tiny garden

天頂引力(6)

 溜息をついたのは史子だけではなかった。
 もう一人、疲労感がありありと滲んだ溜息をついた人間がいた。
「……とんでもないことをしてくれたな」
 早良の父親だ。
 皺の目立ち始めた顔に苦々しい表情を浮かべ、節くれだった手で顎を撫でている。鋭い眼光は息子の早良にだけ向けられていた。史子とあかりの存在は視界に含めていないようだ。
 次の言葉は重く沈み込むトーンで発せられた。
「お前は志筑さんのご厚意をむげにした。そうやって大事な縁を踏みにじって、好き勝手にふるまうことで、うちの会社は傾くかもしれん。現にあの方は大分お怒りだった。お前はどう責任を取る、克明?」
 水を向けられた早良は、父親をじっと捉えていた。
 テーブルを挟んだ距離を測るべく、しばらく見つめていた。

 二十四年の人生、ずっと父親が敷いたレールの上を歩いてきた。
 早良はろくに反抗もしてこなかった。そうしても無駄だとわかっていたし、そのくらいなら黙って呑み込んでいく方が余程楽だったからだ。
 失うものの多かった人生は、早良の心を歪ませた。他人に対する信頼の情をも奪い去った。父親のことを信頼しているのかどうか、早良は今でもよくわからない。信頼とも不信とも違う範疇の中に、その人はいる。恐らく信頼しようがしまいがどうにもならない、動かしがたい壁であったのだ。レールからはみ出すことも許さない、揺るがせない壁だった。
 その壁を乗り越える時が来た。父親と向き合う機会がやってきた。
 ただ一つ確かな感情として、早良は父親ではなく『社長』に尊敬の念を抱いていた。会社を経営し人を従える存在としては立派な人間だった。父親の地位に就くことが、きっと向いていなかっただけだ。
 早良は乗り越えていかなくてはならない。父親を。自分の中にも流れている血を。そうすることで大人になる。親の手を借りない大人だと、示すことが出来るようになる。

「――責任は、必ず取ります」
 早良は、断言する口調で答えた。
 あかりや史子に強い言葉を言わせておいて、自分が逃げたのでは男が廃る。真っ直ぐに向き合おうと決めた。
 父親が眉間の皺を深める。
「本気で言っているのか」
「はい」
「出来るものか。具体的にはどうする?」
 鼻を鳴らして、父親は早良の言葉を切り捨てた。
「志筑さんを怒らせた失態も、史子さんとのせっかくの良縁を破談にしかけたことも、そう易々と挽回出来るものではない。お前はどうやってこの損失を埋め合わせると言うんだ」
 火を見るより明らかな損失だった。少なくとも会社にとって、大きな痛手となるのは間違いなかった。この縁談に期待を寄せていた人間も多い。その期待を踏みにじった早良には、やらなければならないことがたくさんあった。
「その分、働きます。仕事で挽回します」
 早良は言う。
「これまで以上に働きます、死に物狂いで。そうしてこの度の損失を埋め合わせるつもりです。俺は、他のものなら全て犠牲にする覚悟があるんです」
「覚悟か。簡単に言うな」
 父親が笑う。微塵も愉快そうではなく、くたびれたような笑い方だった。
「単に働くだけで埋め合わせの利くようなものか。お前のような若輩の仕事の、その何倍もの利益のあることだったんだ。それをお前はぶち壊してしまった」
「すみません」
 詫びた早良は返す刀で、
「でも、これだけはどうしても譲れません。俺は望まない結婚をするつもりなんてありませんし、不幸せになるつもりもありません。志筑さんのことを不幸にもしたくありません。お互いに親の言いなりになって、自分の望まないことをする気はないんです」
 と告げる。
 ぴりりと震える空気の中、父親がまた息をついた。
「ろくに自立もしてない奴が、反抗することを正しいと言うのか?」
「ですから、自立をするのです。今日から、たった今からです」
「おとなしく言うことを聞いていればいいものを。お前に何がわかる」
「ええ、俺にはわかっていないだけかもしれません。でも」
 言葉の応酬を、早良は冷静に続ける。思いのほか頭に血が上らなかった。
「俺は、この先のことが何もわからないような、そんな未来が欲しいんです」
 新しいものが欲しかった。
 早良という人間を作り、築き上げていたものの中にはない、どこにもない、新しい要素が。
 レールの上を外れた、まだ知らない未来の先に、それはふんだんにあるような気がする。新しいものを日々取り込んでいく生活は、楽しいばかりではないだろう。辛いことも戸惑うことも、思い悩むこともあるだろう。それでも早良にはとても魅力的なことに思える。
 一度、そんな感覚を味わってしまえば。
 早良はあかりの手を、少し強めに握り締めた。僅かな間があり、そっと握り返された。それだけで力が湧いてくるのがわかる。
「お願いします、父さん」
 父親に、改めて向き合う。
「俺にチャンスをください。この度の損失の挽回の機会と、まだわからない、まっさらなままの未来をください。俺はその為なら何でもします」
 父親は、間髪入れず呟いた。
「お前は一体、どこまで馬鹿なんだ」

 恋は人を愚かにするという。早良は初めての恋をして、その時にまた、何かを失ったのかもしれない。
 しかし得たものも確かにある。それは早良を揺るがし、衝き動かし、心の向かう方へと導いた。強大過ぎる力だった。無限の可能性を秘めた力のように、早良には思えて仕方なかった。

 不意に、父親が視線を移した。
 早良ではなく、黙ったままでいるあかりの方を見た。
 あかりがはっとしたように身動ぎすれば、早良の父親は溜息交じりの問いを口にする。
「宮下さん、君はこの馬鹿のどこがいい?」
「え?」
 声を上げたあかりが早良を見る。早良もあかりを見て、視線がぶつかり、ほんの少し気まずく感じる。
 父親は苛立ちを隠さずに続ける。
「うちの息子はこの通り、手の施しようもないほど未熟で、愚かな男だ。君がどういうつもりかは知らんが、こいつといれば君まで人生を棒に振ることになるかもしれない」
 あかりは答える前に、もう一度早良を見た。そして何かを決意した表情になる。
 早良の父親に向かって、答える。
「……早良さんは、私たちのところに、春を連れてきてくれた人なんです」
 初めて出会った夜と、同じ言葉を口にする。
「私の生まれ育った村は上郷といって、この街よりもずっと田舎で、何もないようなところです。お買い物をするにも学校に行くにも不便で、私も高校生の頃は電車で二時間以上も掛けて、遠くの学校へ通っていました。そういう村だから、過疎が進んで……出て行っちゃう人も多かったんです。昔と比べると寂れてしまって、まるで冬ばかりが続いているような村でした」
 あかりが語るのは、懐かしい故郷のこと。生まれ育った場所のこと。そして早良が訳もなく惹きつけられた、あの美しい上郷のこと。
「でも、早良さんはそこに、春を連れてきてくれたんです。上郷のいいところを見つけてくださって、雪が解け、芽吹きの季節を迎えて、また賑やかで人の息づく村になるようにって、一生懸命働いてくださったんです」
 背筋をぴんと伸ばして、彼女は早良の父親に語りかける。
「私は、だから、早良さんのことをとても尊敬しています。馬鹿だなんてことありません。早良さんは私の恩人で、そして上郷にとっても大恩人ですから」
 すぐ傍らで彼女の言葉を聞く早良は、場違いな面映さを覚える。うれしさを隠し切れていないだろう顔を、どうすれば取り繕えるものかと思案を巡らせていた。
 相変わらず、彼女はとても、真っ直ぐだ。

 早良の父親は、あかりの言葉に何も反応しなかった。
 肯定も否定もしないまま、しばらく彼女を注視していた。その後、静かに椅子から立ち上がる。そして独り言のように言った。
「……挽回出来るものなら、してみろ」
 諦めにも似た、投げやりな物言いだった。
「どうせお前が継ぐ会社だ。お前が傾かせようが潰そうが、好きにすればいい」
 言うだけ言って、父親もまたラウンジから去っていく。
 その背中へ早良は告げる。
「必ず挽回します」
 そして必ず、次の世代へと継がせてみせる――そう言おうと思ったが、それはそれで酷く面映い言葉のような気がして、心の中だけに留めておくことにした。
 必ず。そう、確かに思う。あかりの手を掴まえながら、思う。

 まだ残っていた内田が、慌てふためいた様子で早良の父親を追っていく。こちらを一度だけ振り返り、非難がましい目を向けてきた。
 そうして、ラウンジの空気が変わった。
 三人だけの広い空間に、音量を絞ったBGMが戻ってきた。
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