Tiny garden

ダスト・トレイル(6)

 相対する史子のやつれた顔に、ちらと動揺の色が走った。
 ぎくしゃく視線が逸らされて、腕を掴む手がゆっくり離される。その後、伏し目がちに尋ねてきた。
「本気、なの?」
 恐る恐るの問いは、僅かに早良の気に障った。眉を顰めて応じた。
「当然だ。冗談でこんなことは言わない」
 当然、本気だった。いい加減な気持ちで心を決めることなど出来なかった。こと日頃から抑えつけられていた身だ、この反抗がどれほどの覚悟を必要とするか、並々ならぬ感情があってこそここに至ったのだと思っている。確かに想っていなければ、この心に辿り着くことも出来なかった。
 あかりのことが好きなのだと思う。彼女のことを誰よりも、何よりも想っている。それはごくありふれた、一時激しく燃え上がるだけの感情なのかもしれない。実に安っぽく、実に軽薄な、浮ついた気持ちでしかないのかもしれない。しかしそうであっても、早良の中には確かに存在しているものだった。自分がどうしたいのか、どうありたいのかを、確実に導き出すことが出来た。初めての感情も、初めての感覚も、それが確かなものだと捉えられていたから信じて動くことが出来た。
 胸を張って言えた。本気なのだと、何度でも言うつもりでいた。
 史子は早良の内心を察してか、慌てたように言い添えてきた。
「いえ、そういう意味じゃないわ。あなたの、大切な人への気持ちを疑ってる訳じゃないの。ただ……」
「ただ?」
「……本気で、あなたのお父様や私の父に、立ち向かう気でいるの?」
 問う言葉の端が震えて、史子の恐れが伝わってくる。伏せた睫毛も震えている。彼女には、反抗の意思はもうないようだった。
 それでも、早良は首肯する。
「ああ」
 そうでなくては、望むものが手に入らないのだと知っていた。
「でも、どうやって……。私の父は私の話を微塵も聞いてくれないわ。あなたのお父様はそうではないの?」
「似たようなものだ。うちの父親も、俺の話はまるで聞かない」
 早良は肩を竦めた。あの頑迷な自信家をどう打ち崩すかについては、まるで無策だった。
「だからと言って、易々と諦められるようなことでもないんだ。手放してしまったら、もう二度と手に入らないだろうとわかっている。そうなったら俺はずっと後悔し続けるだろうし、何も考えられなくなってしまうだろう、とも思う」
 摩滅し切った神経がぷつりと切れて、そのまま失われてしまうだろう。歪んだ心は鈍感になり、やがて何も感じなくなるだろう。反抗を諦めた早良を父親たちは喜ぶだろうが、そうあるのが正しいことではないと、今の早良は思う。
 手に入れたのは初めての感情だった。自分自身を、早良克明という人間を形作ってきた様々な要素の、そのどれでもないものだった。そうして自分が変わりつつあることを理解していた。願っていた通りに、新しい要素を取り入れ、今までにない充足感を得ている。手放す気はなかった。それどころか、更に手に入れるつもりでいた。
 次は彼女を。心の中に住まう彼女ではなく、現実に、傍にいてくれるあかりが欲しいと思う。
「方法はあるの?」
 史子が、気遣わしげに尋ねてくる。
「今のところは、正攻法しか考えていない」
 溜息と同時に早良も答える。
「結局は言い聞かせるほかないようだ。どんなに策を弄したところで、あの人たちを出し抜ける気がしない。それに、本当にわかってもらわなくてはならないから、話して聞かせるより他にない」
「聞いてもらえる自信がある?」
 本人にそんな気はないのだろうが、史子の問いはまるで皮肉めいていた。甘くない現実を思い知らせてくるようだった。
「聞かせてやる、何度でも繰り返して。それでも、どうしても駄目なら、俺は何もかも捨てても彼女を選ぶ」
 彼女の他には何も要らなかった。
 たとえ、彼女自身に拒まれていたとしても、だった。
 あかりにこのまま拒み続けられても、振り向いてもらえなくても、この心がある限りは赴くままに動きたいと思う。初めての感情は強く、早良を衝き動かしていた。他の何をもってしても抗えないほどの力で、早良をどこかへ連れ出そうとしていた。
「君にはなるべく、迷惑を掛けないようにする」
 早良はそう、史子へと告げる。
「どうしても迷惑は掛けてしまうだろうが、せめて、君に無理強いはさせない。君にまでこの反抗に付き合ってくれとは言わない。あくまでも俺の、俺一人の気持ちだからな」
 心は決まった。
 今すぐにでも、動き出す用意があった。

 史子は唇を結んでしまった。
 早良から目を逸らしたまま、身動ぎもせずにいる。胸の内では何か、様々なことを思っているのだろうが、窺い知ることも出来ない。やつれた横顔を眺めて、早良は微かな同情心を抱く。――鏡を見ているようだと思う。
 これ以上、史子を思い煩わせるのも酷かと思った。人のいい彼女がああまで激しいことを口にしたのだから、窮状は察して余りある。今夜はもう、そっとしておく方がいいのかもしれない。
 早良は放置していたグラスの中身を飲み干すと、ここから立ち去ろうと腰を浮かせかけた。奥へ引っ込んでしまったバーテンダーを呼ぼうとした。
 と、
「――羨ましいわ、とても」
 不意に史子が声を発した。
 早良は視線を隣へ戻し、自分を見上げている史子の、寂しげな表情に気付く。
「羨ましいって、何が」
 尋ねると、史子は真剣な口調で答えた。
「あなたに、好きな人がいることよ」
 とっさに早良が反応に迷うと、更に言葉が継がれる。
「ねえ、早良くん。あなたの好きな人って、どんな人?」
「どんなって……」
 説明しにくい。どうともはっきり分類出来るような、わかり易い相手でないことははっきりしていた。特別秀でたところも、劣っているところもないように思う。行儀のよさと、表情がころころと変わるところと、身のこなしの軽いところは度々目についていたが――。
「素敵な人なの?」
 史子が問う。
 早良は、一瞬だけ面食らってから、頷く。
「ああ」
「きれいな人?」
 もう一度問われる。今度はより長く面食らう。
「いや……一般的に美人かといわれると、そうでもないような気がする」
「謙遜してる?」
「そうじゃない。普通だ。普通の子だ。可愛いとは、思うものの」
 言い訳がましく言葉尻を濁らせる早良を、史子はからかうでもなく、真摯な眼差しで注視していた。
「前に、話を聞いていた方かしら。若いお嬢さんなんでしょう?」
「ああ」
「いいわね、羨ましいわ。愛し合えて、想い合える人がいるから、早良くん、すごく強くなれたのね」
 史子の言葉は純粋そのものに聞こえたが、早良の心には音を立てて突き刺さった。注釈を入れるのはためらわれたものの、こればかりは嘘をつく気にもなれない。
 それで、打ち明けた。
「その、これは……まだ一方的なものなんだ。まだ相手には話していないし、もしかすると、振られるかもしれない」
 途端、史子が目を丸くした。
「そうなの?」
「そうなんだ」
 頷くのも気が重かった。事実だから、仕方がない。
 怪訝そうな史子はまだ問いを重ねてくる。
「その人には、まだ話さないの? 早良くんの気持ちを」
 随分と痛いところばかりをついてくるものだ、と早良は内心ぼやきたくなった。やはり、正直に答えてしまった。
「ここのところ、連絡も取れない状態が続いていて、話そうにも話せない」
「どうして? まさか、私とのことで……?」
「いや、違う。俺が彼女に不用意なことを言ったんだ。それで彼女が、泣いてしまって」
 思い返して、早良は肩を落とす。あれは全く不用意な発言だった。挽回が利くならいくらでも謝りたいと思う。彼女との会話が、もう一度だけでも叶えばいいと思う。
「そうなの……早良くんでも、思うとおりにいかないことってあるのね」
 史子は嘆息すると、もう一つ、口にした。
「でも、それでもあなたが羨ましいわ。そうやって強くなれたり、ひたすらに想えたり、思い悩んだり、気遣ったり出来る相手のいることが」
 音もなくその表情が翳る。寂しそうに、更に続けた。
「早良くん、私ね。好きな人って、いたことないの」
 打ち明けられた事実に、今度は早良の方が目を丸くする番だった。あれこれと早良の話を聞きたがり、助言をしたがり、また他の女たちとの仲立さえしようとした史子のことだ、きっとそういうことには詳しいのだろうと勝手に思っていた。少なくとも無縁ではないだろうと。
「したことないのよ。恋愛って」
 史子の告白は続く。
「ずっと、出来ないものだと思ってた。どうせ誰を好きになったって、父が許してくれるはずないんだもの。いつかは父の望む結婚をしなくてはいけないから……そう思ったら、誰のことも好きになんてなれなかった。私を好きだと言ってくれる人もいたけど、そういう人たちが私のことを好きだったのか、父のことを好きだったのか、ちっともわからなくて。結局、この歳になるまで一度も、恋愛なんてしてないの」
 どこかで聞いたような話だ、と早良は感じていた。鏡を見ている気分だった。
「ちゃんと恋をしてる人たちが、ずっと羨ましかった。そういう人たちのことは応援したくなったわ。早良くんのことを好きだった女の子たちもそう、もちろんあなたのこともそうよ」
 微かにだけ、史子が笑った。
「早良くんは恋をして、本当に強くなった気がするわ。人が変わってしまったみたい」
「そうかな」
「ええ。そういう風に恋愛が出来るのっていいわね。私も、一度でいいからしたかった」
「……」
 目を瞬かせる早良を見て、史子が弱々しく呟く。
「もし、今の私に、早良くんみたいに好きな人がいたら――私も、父に歯向かえるくらいに、強くなれていたかしら」

 早良は、史子の言葉に戸惑っていた。
 自らの気持ちが恋愛感情なのだと、今更のように気付かされたからだ。
 あかりのことを好きだと思った。傍にいて欲しいと思った。可愛いと思ったし、いとおしいと思ったし、彼女をどうしても手に入れたい、求めたいと思っている――そういった、生まれて初めて覚えた感情のことを、恋愛感情と呼ぶのだと、ようやく気付いた。今の今まで、一括りにする言葉があることを失念していた。それが自分に縁のあるものだとは思わなかった。
 そして、史子の言い分がようやく腑に落ちてきた。新しい感情を取り込んだ早良は、確かに強くなったのだと思う。

 今までの自分からは考えられないような言葉を、口に出来るようになっていた。
「だったら、すればいいじゃないか」
 早良は史子に、そう告げた。
「出来ないはずはない、誰しも。俺だって出来たくらいだから」
 根拠は全くないが、祈るような気持ちで繰り返す。
「このまま君の意思を手放して、人の望むように生きていたら、その願いは叶わなくなる。君は他人事のように言うが、決して他人事じゃない。君の人生の話でもある。望まない生き方をして、ごく平凡な、人並みの願いさえ葬り去って、それでも君は構わないと言うのか? 俺は、俺なら絶対に嫌だ。絶対にそんな生き方はしたくない」
 どうしても手に入れたい。この想いがあるうちは貫き通したい。早良はそんな恋をしていた。甘くもなく、苦しいばかりで、ほんの僅かな楽しさだけをようやく味わっているような、それでも守り続けたくなる、ささやかで一方的で、浮つきがちな恋をしていた。きっと、どこにでもあるようなありふれた恋だった。
 史子が、そんなものでも羨ましいと言うなら、すればいいのに、と思う。
「……早良くん」
 名前を呼んできた、史子が少し、うれしげに笑んだ。
「あなた、本当に変わったのね。やっぱり、可愛いお嬢さんのお蔭?」
「そうかもしれない」
 早良は否定せずに答えた。
 そのせいだろうか、史子の表情もぐっと和らいで、やつれた顔にも穏やかさが戻ってきた。彼女は、ややあってからこう告げてきた。
「私も、強くなりたい。いつか、ちゃんと恋をしたい。それに何より、父に私の気持ちを聞いてもらいたい……そう思うの」
PREV← →NEXT 目次
▲top