Tiny garden

ダスト・トレイル(1)

 早良を取り巻く状況はめまぐるしく移り変わろうとしていた。
 表面上は何も変わっていないように見えた。史子から詳細を聞いた後も、内田とは特に話をしなかった。仕事で顔を合わせてもあの如才ない秘書は取り澄ましたような顔をしていたし、早良も仕事にまで日頃の懸案事項を持ち込もうとは思わなかった。どうせ本当の敵は、表立って動いている内田ではない。裏で内田の糸を引いている人間なのだから。
 敵は、早良よりも迅速に行動を始めた。数日も経たぬ内に、早良は父親から『大事な話がある』と持ちかけられた。仕事を定時で切り上げて、夕食を家で摂るように告げられた。
 父親の言う『大事な話』とやらが何であるか、概ね感づいていた。むしろ他に何があるだろうと思う。だから帰宅した時には覚悟を決めていたし、眼前に迫る厄介事についての息苦しさ、それに出遅れた自分に対する苛立ちを抱えていた。今までなら迷わず飲み込み、覆い隠そうとしていただろう感情に、早良はあえて向き合うつもりでいた。誰の目にも留まらぬところで、その胸中もまた移り変わろうとしていた。

 実のところ早良も無為無策でいた訳ではなく、史子と互いの意思を確認し合ってからの数日、自分なりの行動を取ろうともしていた。しかしその行動は何ら実を結ばず、焦りを募らせるばかりの日々を過ごしていた。
 あかりは電話に出なかった。
 あれから何度掛けても、彼女と連絡を取ることは出来なかった。
 そんな折の父親の行動には多少の動揺もした。既に腹をくくっている以上、逃げる気はなかったが――せめて彼女の声が聞けたらと、思わなくもなかった。
 今頃、あかりは何を思っているだろう。どうしているだろう。無難な時間を選ぶように部屋へ掛かってくる電話を、どう思い、どんな理由で拒み続けているのだろう。早良はその答えを知らない。
 もし知ることが叶っていたら、もう少し強い気持ちでいられたのかもしれない。揺るがしがたいはずの覚悟に、暗い影のような不安が落ちることはなかったのかもしれない。

 約束の夜、早良の自宅の居間は、かつてないほど奇妙な沈黙に支配されていた。
 緊張感と気まずさとが混在する空気の中、卓上には家政婦の作った夕食が並べられている。しかし給仕は母親がするつもりらしく、家政婦を退出させた後は早良と早良の母親と、二人きりになった。
 父親の姿はまだない。帰宅するなりすぐに部屋に篭もってしまった。早良の前へ、まだ姿を見せてはいない。もうじき来るだろうと思いつつも、いささか焦れているのが本音だった。
 母親は口を利かない。家にいる時はおとなしく、顔色も悪く、父親の言いなりでしかない女だった。早良にとってはどうとも言えない、印象の薄い存在だった。この母親も、仕事で外へ出る時はいきいきとしているらしいが、それが事実なのかどうか、早良は自分の目で確かめたことがなかった。
 何もかもが薄っぺらだと思う。父親も、母親も、三人で築いてきた沈黙ばかりの家族関係も。三人で夕食を共にするのは何年ぶりになるだろうか。この居間へ足を踏み入れたのさえ、早良にとっては久しいことだった。お蔭で自宅にいるのに寛げる気はせず、居心地の悪さばかりが漂っていた。
 品のいいブランドの調度と、オフホワイトで統一された居間は、来る客来る客に美しい、素晴らしいと過剰なまでに誉めそやされていた。しかし早良の目から見れば、これほどまでに居心地の悪い場所もなかった。寛ぐべき場所ではなかった。昔からずっとこの居間は――この家は。
 ソファーに腰を下ろした早良は、黙って姿勢を正していた。傍らの母親も直立不動で、じっと父親が来るのを待っているようだった。相変わらず顔色の冴えない、おとなしい存在だった。

 やがて、居間のドアが開いた。
「待たせて悪かった」
 一応の謝罪と共に現われた父親は、部屋着に着替え、くだけた格好でいた。そういう父親の姿を目にしたのも久しぶりで、早良は少なからず驚いた。温かみとはかけ離れていた家庭にて、形ばかりの家族らしさが装われているようだった。
「いえ」
 早良がかぶりを振ると、父親は機嫌よく笑み、差し向かいのソファーに座った。そして妻に、酒を持ってくるように告げた。直立不動の姿勢を解いた母親はそれに従い、卓上にはすぐに食前酒の用意がされた。
「お前も飲むだろう」
 父親の物言いはいつでも有無を言わさぬ調子だった。真っ直ぐに早良を見て、そう尋ねてきた。早良が躊躇すると、すかさず言葉を添えてくる。
「いいから、たまには付き合いなさい。こんな機会でもなければ親子で飲む機会もない」
「……では、いただきます」
 あまり気乗りはしなかったが、結局早良も従った。シェリー酒が注がれた小さなグラスを受け取り、ぎこちない乾杯をする。父親は一息で呷り、早良は一口だけでグラスを置いた。礼儀作法はこの際差し置かなければならない。今夜は酔うわけには行かない。
「ところで、話というのは何ですか、父さん」
 早良は即座に切り出した。父さん、と父親に呼びかけるのも、およそ記憶を辿れないほど久し振りだった。乾杯よりも更にぎこちなく思えた。
 父親はそんな早良を笑った。
「まあ、そう焦るな。食事をしながらでも構わないような話だ」
 言って箸を取り、皿をつつき始める。こんな空気の中でも食欲はあるらしいのが不気味に思えた。空気を支配している当人には、当然余裕もあるようだ。
 早良にはない。食欲も余裕もなく、ただひたすらに焦りを募らせている。それでも自分の気持ちがはっきりしていることは救いだと思えた。
 もし、予想通りの話を持ち出されたら、胸中を全て曝け出すつもりでいた。志筑史子とは結婚出来ない、彼女は友人であり、そして今の自分には――彼女よりも強く、必要としている相手がいるのだと。連絡の取れない、既に先日、拒まれてしまった相手ではあったが、最早抑え込める気持ちではなかった。
 箸を置いたままの早良を目に留めて、父親は首を竦めた。
「食べないのか? お前は外食するのが好きらしいが、たまには家での食事もよいものだぞ」
「すみません。用件をお願いします」
 頑なに、早良は促す。なぜか警戒心が強まった。
「相変わらずだな、克明。お前は昔からあれこれとせっかちだったが、性急に事を推し進めるとろくな結果にならんぞ。これは何についてもそうだ。仕事でも、人間関係でもな」
 もっともらしい口ぶりの後で、父親もまた箸を置く。
「せっかく親子水入らずの時間を楽しもうと思ったんだが、まあいい。お前が落ち着かないというなら、先に用件を済ませてしまおうか」
 言うなり何かを取り出した。四角く、紙のように平たいものだった。父親の手がその何かを差し出し、卓上の空いた場所へ、早良にもよく見えるように置く。
 手紙だと、すぐに察した。淡いピンクの封筒だった。消印の押された切手が留まった。その下に記された早良の名前と自宅の住所も目についた。どこかで見覚えのある、小さく丸みを帯びた文字。いかにも若い女か、少女の書きそうな筆跡だった。
 思わず早良は手を伸ばしていた。封筒を拾い上げ、震える手でゆっくりと引っ繰り返す。裏面に記されていたのは予想通り――。
「これは……」
 呻き声が漏れた。
 封筒の裏には、あかりの名前と住所が、無防備に記されていた。現在の、あのアパートの住所だった。
 更に早良を動じさせたのは、その封筒が既に開けられているものだったことだ。封がされておらず、花びらを模したらしいシールは糊が剥がれていて、封筒の上で小刻みに震えた。中の便箋の淡い色が覗いていた。裏側から見た、小さく丸みを帯びた少女らしい文字も。
 理解した瞬間、弾かれたように顔を上げていた。テーブルを挟んだ向こう側で、早良の父親はごく平然と笑んでいる。
「この手紙を、どうして?」
 動揺の中で早良は尋ねた。察していた。前にあかりから貰った手紙だと思った。春先に早良の元へ、勤務先へと送られてきた二通の手紙。そのうち一通は雄輝からのもので、もう一通はあかりからだった。二通とも手帳の中にしまい込んでいた。後生大事にするように、いつでも持ち歩いていた。そのくせ何度も読み返すには面映く、早良はあかりの筆跡を正確には覚えていなかった。こうして彼女の名前を目の当たりにしてようやく察した。
 あの手帳はどこにあるだろう。帰宅してからの行動をとっさに思い返す。スーツのポケットに入れてあったのを抜き取り、自室の机の上に置いていたはずだ。いつも無造作にそうしていた。あの部屋には誰も入れないようにしていたからだ。家政婦はおろか父親も、母親も立ち入ろうとはしなかった。几帳面な早良は常に部屋をきれいにしていて、そのせいで僅かにでも人が立ち入ればすぐに気付けた。引き出しの中でも本棚でも、誰かが少しでも動かせばわかってしまうのだった。
 しかし、今はどうだろう。早良のいないあの部屋に誰かが足を踏み入れていても、ここからでは確かめようもない。早良はずっと居間にいた。手帳は机の上に置いていた。そして手紙は。
「俺の部屋に入ったんですか。無断で立ち入って無断で持ち出してきたんですか」
 怒りを抑え込んだ声で早良は尋ねた。それを父親は苦笑いで受け止めようとする。
「随分な言い様だな。そんな真似はしていない」
「じゃあどうして、この手紙を持っているんです?」
「そうだな。克明、お前は何か勘違いをしているんだろう」
 温厚そうに聞こえる口調が返って癇に障った。早良は即座に噛みついた。
「勘違い? どういう意味ですか」
 すると父親は、まだ至って穏やかに語を継いだ。
「この手紙はお前も知らない、読んでいないもののはずだ。お前の部屋へ勝手に立ち入って盗んできた訳じゃない。まあ、さして変わらないくらいのやり方かもしれないがな」
「俺の、知らない……手紙?」
 言われて早良は、改めて手紙を見た。
 淡いピンクの封筒は、以前貰った手紙とまるで同じだった。同じレターセットを使ったのだろうと思った。しかし宛先は違った。そういえば、以前に貰った手紙は、早良の勤務先に直接送られていた。眼前にある手紙の宛先は、早良の自宅、この家だった。
「内田くんから報告があった。お前が手紙を手帳に挟んで持ち歩いているという話だ。お前らしくもないふるまいだと思って、私も気になったのだ。念の為うちに届いた郵便物をチェックさせていたんだが」
 父親が傍らの母親を見遣る。母親は強張る表情で俯く。
 輪郭さえ残らずに、装ったはずの家族らしさは失われた。あっという間のことだった。居間の空気が張り詰めていく。
「知らない名前のお嬢さんから、こんな可愛らしい手紙が届いていたものだからな、つい中を検めさせてもらった」

 早良の領域は、既に踏み荒らされていた。
 嫌悪のあまり眩暈がした。
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