Tiny garden

透明度は低く(7)

 信用ならない人間揃いのこの世の中で、最も信用の置けない部類に含まれるのが、あの内田という男だった。
 仕事はそれなりに出来た。秘書として傍らに置くのに不満もなくはなかったが、そもそも早良自身が秘書に頼らなくともある程度こなせる人間だ、あの男のせいで仕事に支障が出るということもさしてなかった。
 ただ、あの男には父の息が掛かっている。早良の父親と、もしかすれば史子の父親も、なのかもしれない。縁故採用だと聞いているからそういう繋がりのあることも想像出来た。そしてそのせいだろう、内田はしつこく史子との仲を後押しするような言動を取っていた。
 秘書にプライベートまで踏み込まれるいわれはない。早良はそう考え、内田の言動をことごとく無視してきた。それでも内田は越権行為を繰り返した。仕事中であろうと史子からの電話は取り次ぎ、予定を入れれば史子との約束かと探ろうとした。不快だったが、くびに出来ない相手となればやり過ごすより他ない。だから今日まで、早良は内田のことを放置しておいた。
 しかし――あの男は、早良の目の届かないところでも動き始めていたようだ。

『この間、初めてお電話をいただいたの』
 おずおずと史子が語を継いだ。
『いきなりのことだったから驚いたわ、どうして私の番号をご存知なんだろうって。でも内田さんは謝っていらして、これも仕事ですからどうぞご寛恕くださいっておっしゃったの。それで……』
 史子がその謝罪を許容していないらしいのは、声のトーンで知れた。不安げな口ぶりだった。
『早良くんのこと、いろいろ聞かれたの。この間よ、早良くんに、いいお店は知らないかって質問された、あの夜。早良くんに電話する前、内田さんと話をしていたの』
「もしかして、君はそれであの晩、俺に電話を掛けてきたのか」
 察した早良が問うと、史子はええ、と肯定した。
『そうよ。何だか嫌な予感がしたから……だって、ちょっとおかしいじゃない。秘書の方が早良くんの、お仕事以外の行動まで気にするだなんて。お仕事のことで連絡があるって言うならわかるけど、でも、それにしても私のところまで電話をするのは変だと思ったの』
 確かに妙だ。酷く、奇妙だ。
 息苦しさを覚えて、早良は運転席のシートに背を預けた。
『だけど疑うのも、変かと思って。私が、父や早良くんのお父様のことを気にするあまり、猜疑心が募ったのかもしれないって思えてきて。内田さんは早良くんの秘書さんだもの、疑ったら失礼かと思って、あの夜は言わなかったの』
 史子らしい朴訥さだった。彼女は人を疑うことを知らない。箱入りのお嬢さんは、迫る危機にも鈍感だったようだ。
 それでもこの段階でも、気付けただけましと言うべきか。
『でも、いろいろ聞かれたわ。早良くんと出かけたのか、一緒なのか、一緒じゃないなら誰と一緒なのか知ってるのか、心当たりはあるかって……私、その時は訳がわからなくて、ただ一緒じゃないことだけ答えた。心当たりなんてなかったし、早良くんにデートする相手がいるなんてことも知らなかったもの』
 史子の話は続いている。だんだんと、沈鬱な声になっていく。
『そして今日も、お電話をいただいたの。早良くんが誰かと外で会っているらしいけど、ご存知ですかって。私は知らなかったけど、でも、早良くんにそういう、相手のいることは知っていたから。それは絶対に話しちゃいけないって思ったから、言わなかった』
 黙って耳を傾ける早良の胸裏に、ちらとあかりの泣き顔が過ぎった。たちまち胸が痛み出し、やり切れない思いでいっぱいになる。様々な感情で満たされて、息も出来ないほどだった。
 追い詰められていると気付いた。
『内田さんは、そうですかってお答えになって、その後でおっしゃったの。――志筑さんのお心を煩わせるようなことにはなりませんから、ご安心くださいって』
 そのくだりは、史子も苦しそうに告げてきた。
 早良の握り締めた携帯電話が、すっと冷えていくようだった。全身の熱があっという間に奪われた。身体中がぞくぞくし、不快な寒気に襲われた。背筋を冷たい指先で触れられ、そこから心臓を直に握り潰される感覚。その手は内田のものであり、父のものであり、史子の父親のものでもあり、そして数多くの、利益を得ることを望む人々のものでもある。
 追い詰められていた。
「内田は、何をすると言っていた?」
 早良の口調はきつくなった。問い詰めるべき相手が史子ではないとわかっていても、自然とそうなってしまう。
『ううん、何も。そういうことは何も言わなかったわ。おかしなことをするような人ではないと思っているけど……探りを入れてきているのは確か、だから。私、どうしていいのかわからなくて』
「それで、俺に教えてくれたんだな」
『ええ。でも、ごめんなさい。もっと早くに言っておけばよかったのかもしれない』
 史子の言葉を早良は肯定したくなった。しかし、意味のないことだった。
「いや、知らせてくれただけでもありがたい」
 それも正直な気持ちだった。シートに身を沈めた早良が瞑目すれば、すかさず史子が尋ねてきた。
『早良くん、早良くんは……どう思ってるの?』
 闇の中でそれを聞く。絶望的な問いに聞こえた。
「どうって、内田のことか?」
『え、ええ……。私、こうして話してたら、何だか恐ろしくなってきて。ねえ、やっぱり、あの方って』
 彼女の中でも、疑念は育ちつつあるらしい。そうでなければおかしいくらいだ。もうとっくに追い詰められているのだろうから、早良も史子も、二人揃って。
 あの男は信用が置けない。内田を秘書にしてからというもの、ずっと早良は思ってきた。いつか、何かを仕掛けてくるのではないかと思っていた。何をしでかすかまではわからなかったが、いつか、早良の望まないようなことを、取り返しのつかない形でしでかすのではないかと。獅子身中の虫とはあの男のことを言うのかもしれないと、密かな予感として抱いていた。先日までならそれはただの誹謗、疎ましさを転嫁させただけのものと言えただろう。しかし。
「お互いに、少し気を付けた方がいいかもしれない」
 早良はそう、答えた。
「うちの父も、君のお父さんも、いよいよ行動に出ようとしているのかもしれない。あるいはもう何らかの行動を取っているのかもしれない。あの男は――いや、内田は、俺の言うことは聞かないが父の言うことはよく聞くような奴だ。君も気を付けた方がいい」
 自嘲めいた言葉になったが、事実でもある。内田のことも、もしかすれば互いの親のことも。
『ええ、私、そうなったら』
 史子が悲痛な声を上げてくる。
『私はお父様に話すわ。お父様がもし、私たちのことで、強引に話を進めようとしてきたら。前に早良くんと話したこと、打ち明けてみるわ。お互いに望まない結婚をする必要なんてないものね。私たち、友達なんだから』
 友達。その言葉を耳にすると、再び苦い記憶が舞い戻った。
 全て失ったはずだった。幼い頃の友達は、齢を重ねるごとにいなくなった。ここに至るまでに皆、どこにもいなくなったと思っていた。
 どうせいなくなるのだから、誰も要らないと思っていた。失う可能性のあるものを欲する気もなかった。失わずに済む保証のあるものだけを手元に置いておきたかった。そうして一時、早良の心からは誰の姿も消えていた。

 今は、どうしても失いたくないものがある。
 追い詰められていると知っている。内田と、父と、史子の父親と、その他の利益を得ようとする人間たちに、早良は追い詰められようとしている。だからと言って諦め切れるはずもなかった。それで諦めのつく事柄ならとうに構わず放っておいたはずだ。
 失いたくないものがある。手に入るかどうかはわからない。手に入れても一時のことで、幼い頃と同様に、何もかも失って、避けられて、去っていく姿だけを記憶にとどめる結果となるのかもしれない。それでも、失いたくなかった。

「俺も、父と話をしてみるよ」
 史子に向かって、早良はそう言った。
「俺だって望まない結婚はしたくない。君に不幸な結婚もさせたくない。抵抗しよう、お互いに。今更、この年になって親の言いなりになるものかと言ってやろう」
 本当に言うつもりでいた。
 早良にとっての父は、ただただ目障りな存在であり、枷であり、どうにかしてやり過ごさなくてはならないものの筆頭だった。反抗するよりも言いなりになるのが楽なのは知っている。だが、反抗しなくてはならなかった。
「俺も君を助ける。その為に出来る限りのことをする。二人で力を合わせて、皆にわからせてやろう」
 柄にもなく力強い言葉が飛び出し、早良は自分でも驚いていた。こんなことを口にするような人間だっただろうかと、自ら思った。変革を感じた。
『……早良くん』
 どこかほっとした様子で、史子が応じる。
『ええ、私もよ。私もそう思う。協力して、結婚なんてせずに済むようにしましょう。馬鹿げたことだものね、こんなの』
 そして彼女は少し笑った。いくらか明るさを取り戻した様子だった。まるで鏡の動きのように、早良につられたのかもしれない。
『ね、早良くん』
「どうした?」
『こんなこと言うのは差し出がましいのかもしれないけど……守ってあげてね、あなたの好きな人のこと』
 史子の言葉に、早良は思わず、
「ああ」
 頷いていた。
 本来なら否定すべきタイミングだったと、三秒後に気付いた。しかし間に合わなかったし、嘘でもないのかもしれなかった。史子も意外と笑わなかったので、結局黙っていることにした。
 少なくとも、失いたくないのは確かだ。


 電話を切った後で早良は、フロントガラスの向こうに広がる空を見上げた。
 この街の夜空はいつでも濁り、淀んでいる。先を見通せるような空ではなかった。
 だが、その先に明日がある。立ち向かうべき未来がある。手に入れたい、失いたくないものがある。失いかけている彼女を取り戻し、そして望むべき未来へと辿り着きたかった。
 思い描いているのはまだ、ぼやけて曖昧な未来だった。
 それでもはっきりと思った。彼女を――あかりを守りたい。たとえ助けを必要とされていなくても、早良にとっては必要な存在なのだと気付いていた。
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