Tiny garden

透明度は低く(6)

 それからアパートに辿り着くまで、あかりは一つも言葉を発さなかった。
 涙も声も枯れ果ててしまったのか、後部座席で抜け殻のようになっていた。車が揺れる度にからからと合わせて揺れるさまは、ハンドルを握る早良の心をも動じさせた。
 泣き腫らした目も、涙の跡が残る白い頬も、濡れてしまったブラウスも、何もかも放ったらかしだった。構わないでくれと言われた以上、早良には何も出来なかった。

 雨はいつの間にか止んでいた。
 アパートの前で車から降りたあかりは、最後に一言、呟いた。
「ごめんなさい」
 早良は頷いた。言いたいことは山ほどあったし、引き止めたい気持ちは十分過ぎるほどあった。詫びたいのはこちらの方だった。謝って済むことなら謝りたかった。あるいは時計をあの時まで――ワンピースのことなんぞで笑われていたあの時間まで戻して、全てなかったことにしてしまいたかった。
 楽しかった。話の弾んだ夜だった。
 それなのに、容易く壊れてしまった。
 元通りに修復する方法を早良は知らない。詫びたところであかりの気持ちは変わらないだろうし、かえって堪えて酷だろうと思う。彼女はそういう娘だった。幼いくせに余計な気を遣って、いつも早良を悩ませた。子どもなら子どもらしく素直に甘えておけばいいのに、それをしない。素直さに欠けていて、頑固で、手に負えない娘だった。
 やがて、あかりは身体を翻した。あんなに泣き喚いたくせにまだ敏捷な足取りで、自分の部屋へと飛び込んでいく。すぐにドアの向こうに消えた。部屋の照明はいくら待っても点らなかった。
 一人きりの車が動き出す。ほとんど惰性でアクセルを踏み込み、ハンドルを切る。

 苦い記憶が胸を過ぎる。
 成長と共に、大人になるにつれ、早良は多くのものを失ってきた。それは純粋さでもあり、人を信じる素直さでもあり、そして友達でもあった。
 とりわけ友達に関しては、最も理不尽な形で失っていた。皆が大人になり、早良の身の上を意識せずにはいられなくなったからだ。早良は特別な存在として扱われた。大企業の社長の息子として生まれ、将来を嘱望されてきた。そうして特別扱いされるうち、以前のように友達として接してくれる相手はいなくなった。かつて仲のよかった少年たちは早良を遠巻きにして羨望の眼差しを送り、かつて口喧嘩もした少女たちは目的を隠して近づいてくる。早良には何も残らなかった。信じられる存在は一人としていなかった。大人になる過程で失ってしまうものなのだと思うより、他なかった。
 だから、そういうものだと思うしかない。あかりのことも。甘えたくないのだと泣きながら訴えてきた、あの頼りない、大人になり切れていない少女のことも。これまで何度も繰り返してきた喪失のうちの一つだ。たった一つにしか過ぎない。失うものも摩滅するものもあると、これまで嫌になるほど教えられてきた。そういうものだと、早良は、思いたかった。

 なのに――あかりのアパートを離れ、少し車を走らせてから、早良は唇を噛んだ。また空いている道を探して、路肩へ寄せて、車を停めた。
 思えなかった。思いたくなかった。これまで失ってきたものたちと、あかりとを等しい存在として考えたくなかった。また同じように繰り返すことはしたくないと思った。彼女を失いたくなかった。失う可能性をまだ考えられずにいた。
 車内灯が息を潜めるように消え、エンジンの冷却水がひっそり音を立てて流れた。雨の止んだ夜、窓には水滴がいくつもいくつも残っている。フロントガラス越しには空が見えた。濁り、赤々と染まる曇り空。星の見えない淀んだ空が広がっている。
 早良は失言を理解していたし、悔やんでもいた。結果として彼女の傷に触れてしまったことを辛く、苦しく思っていた。けれどその一方で苛立たしい気持ちもあった。彼女に拒絶され、助けは要らないのだと言われて、無性に腹が立った。
 ――優しい、から。駄目な私にも優しくして、くださってるの、わかってたんです。
 何を、わかったような口を利くのだろう、彼女は。早良が真に優しかったことなど一度もなかったはずだ。親切にはしていたかもしれない。気まぐれに、優しさを向けてやろうとしたこともあったかもしれない。しかし早良は優しい人間ではなかった。大人になってからはずっとそうだった。あくまで自分のしたいようにしただけだ。親切にしてやろうと思ったからそうした。偶然居合わせたから家まで送ってやった、涙にも付き合ってやった。慰めのつもりで食事に誘った。そしてその次は、デートに誘った。早良が、そうしたかったからだ。それは優しさだと言えるだろうか。優しい人間の取る行動と言えるだろうか。
 真に優しい人間は失言などせず、相手のことを思い遣って発言するだろう。そして自分のしたいようにするのではなく、相手のしたいようにさせるものだろう。だから自分は優しくなどない。あかりは勘違いをしている。
 優しさなどと、そんなありふれた言葉で括って欲しくなかった。これは。胸の内にあるこの感情は。

 思い返したら無性に腹が立ってきた。反論してやりたくもなって、早良は携帯電話を取り出す。あかりの部屋の番号を表示して、しばらくの間睨みつけていた。
 掛けることは、しかし、出来なかった。
 腹が立っているのに、苛立たしいのに、悔しいくらいなのに、出来なかった。
 早良はディスプレイに表示された番号を見据えている。バックライトが消え、見えなくなってからも、しばらく注視していた。実は番号など見なくともよかった。覚えていた。かつて何度もこうやって、睨んだり注視したりしていた番号だ。掛けようかどうか迷って、非常に迷って、逡巡の果てに踏み切って、それでデートに誘ったのだった。繋がったら何を言おうか、どう言って切り出そうか、世間話をどの程度持ち出そうか、何と言えば彼女は笑ってくれるだろうか、考えばかりを巡らせていたことがあった。今となっては儚い、遠い、幸せな記憶だった。

 急に、電話が鳴動を始めた。
 ディスプレイが光り、番号を表示する。それはあかりよりも見慣れた相手からの着信だった。
 早良は僅かに迷った。今は他の誰とも話をしたい気分ではなかった。しかし相手は今夜の恩人、礼くらいは言わなければならないと――結局、通話キーを押す。
 深呼吸をしてから、応じた。
「もしもし」
 感情を抑え込むのにそれだけの動作で事足りるはずもない。だが、装うのは得意のはずだった。誰にも今の心境を悟られたくなかった。
『……早良くん、もう帰ってる?』
 志筑史子の声は、いつもよりも暗かった。
 以前にも一度、こんな風に落ち込んだ声で電話をしてきたことがあったはずだ。思い出しながらも早良は応じる。
「いや、まだ車の中だ。急ぐ用か?」
『う……うん。いいの、デート中なんでしょう?』
 背筋がぞくりとした。嫌なところを突かれた、とその瞬間に思った。
 しかし即座に別の思いも抱いた。どうして知っているのだろう。史子は、早良の今日の予定を、なぜ知っているのか。
 彼女にお薦めの店の話を聞いた時は、いつ行くのか、何時に行くのかを一言も話していなかった。話す必要もなかった。史子の方も特に尋ねては来なかった。
 そして彼女は、以前にも早良の外出予定を知っているような口ぶりをしていた。ちょうど前回、あかりと食事に出かけた時だ。あの時も確か。
 余計に寒気がしてきた。早良は思わず尋ねていた。
「どうして、そのことを知ってるんだ」
 電話越しに、史子が溜息をつくのが聞こえる。
『ええ……早良くん、今、電話していて平気なの?』
「え? ああ、構わない」
 どうせ後は帰宅するだけだ。真っ直ぐ帰宅する気にもならなかったが、他に立ち寄る当てもない。――前にも同じようなことを思った気がする。
『そう……』
 早良の答えを聞き、史子は僅かにためらうような間を置いた。
 そして、
『ねえ、あのね、もしかしたら』
 やけにもったいぶるように切り出してきた。
『私、誤解しているだけなのかもしれないの』
「……何のことだ?」
『うん、あの、ね』
 やけに慎重だと思う。史子は、何を言いたいのだろう。
『もしかすると私、的外れなことを言うかもしれない。的外れなこと、考えてるのかもしれない。だけど不安……だから。気になってしょうがないから、言うわね』
 史子の前置きに、ますます悪寒が強まる。
「一体、何だって言うんだ」
『うん。もし、私の言うことがおかしいと思ったり、信じるに値しないと思ったら、遠慮なく言ってね。私もそんなこと、考えないようにするから』
「ああ。それで、どうした?」
 性急に早良が促す。
 電話の向こうで史子が、呼吸を整えたようだった。
『実はね』
 彼女が、トーンの低い声で打ち明け始める。
『今夜、内田さんからお電話があったの。私のところに』
「内田……が?」
 秘書の名前を聞くと、さすがにぞっとした。あのろくでもない、しかし如才ない男のことは、仕事以外では聞きたいとも思わなかった。
 早良に黙って、史子へ電話をする。その用件とは何なのか。目論んでいるのは何なのか。早良の胸中で俄かに疑心が膨れ上がった。
 そして史子も言った。
『今夜、早良くんと出かけたのかって、私に聞いてきたの。出かけてないなら、早良くんが外で会う相手に心当たりはないか、って』

 心臓を鷲掴みにされたようだった。
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