Tiny garden

透明度は低く(2)

 雨はここ数日間、全く途切れることなく降り続いている。
 梅雨明けの宣言はもう少し先になるらしい、とラジオのニュースが穏やかなトーンで伝えた。

 早良はカーラジオに耳を傾けるふりをして、時々バックミラーで後部座席を見遣る。近頃心の中に存在している人物が、今はそこにいた。雨に洗われる窓を、興味深そうにじっと注視している彼女。相変わらず少女とも大人ともつかない、どちらにでも転じられる顔つきをしている。今日の彼女は半袖のブラウスにブラックデニムという、背伸びをしない装いだった。
 スーツ姿よりよほど似合っている。しかし、可愛いのかどうかはわからなかった。早良の目ではどうとも判断しがたい。むしろ客観視出来ないせいで、正当な評価を下せないだけかもしれない。そこまで思った後で、そんなことを考える自分が馬鹿馬鹿しく感じられた。ふと顔を顰める。
 可愛いかどうかなど関係あるものか。顔が気に入って誘った訳ではない。あかりが可愛かろうがそうでなかろうが、誘いたかったからそうしたまでだ。――今日がこれまでと違う約束の日だとわかっていながらも、早良は言い訳を重ねたくなる。
 無性に落ち着かない気分で、フロントガラスに視線を移す。ワイパーの忙しない動きの向こう、雨の夜空が広がっていた。

 同じ雨の降る日でも、上郷とこちらは空の色がまるで違う。
 夜の街の灯を映し、霞んだ薔薇色をしている空。上郷の灰一色の空とは趣が違い、まるで異国にでも迷い込んだようだった。晴れた夜でも星は見えず、雨雲垂れ込める日ですら明々としている奇妙な空。
 故郷と同じ空を望むことすら出来ない、この街をあかりはどう捉えているのだろう。後部座席に腰掛けた彼女は口も開かず、ただ流れる景色を見ている。濡れた窓の向こうでは街灯の光が滲んでいた。
 バックミラーでその表情を観察し、早良は少し安堵した。あかりの内心までは窺い知れないが、表向きはいつも通りの彼女に見えていた。口元を軽くほころばせて、車の窓から外を眺めている。ひとまずはこのドライブを楽しんでくれているようだ。窓から見えるのが故郷とは異なる景色でも、彼女の横顔は柔らかく映っていた。

 早良の方は、やはり緊張していた。
 何せ今日の約束は、自らデートだと前置いて誘ったものだ。普段通りにふるまうのがいいのか、普段とは何かが違ってしかるべきなのか、今日を迎えるまでに散々悩んだ。今日の予定は食事のみだったが、何か他にデートらしい予定でも組み込んで置くべきかとも悩んだ。結局、相手はまだ大学生、夜遅くまで連れ回すのは道義にもとる行いだろうと思い、食事だけにしておこうと決めたのだったが――デートに挑む人間の心労と重圧は、いやというほど実感出来た。
 浮かれているような気がした。こんなにも心労を受け、重圧を感じ、緊張にぴりぴりしているはずの心が、なぜか不快に思えなかった。快いくらいだった。この時間が。彼女がここにいることが。

 先程から、会話はほとんど交わしていない。
 何を言えばいいのかわからなかった。デートらしい会話など知っているはずもなかったし、若い娘が好みそうな話題も知らなかった。先日、上郷村で雄輝や冨安と話したことについては、もう少し後に話そうと思っていた。本当に進退窮まった時の切り札にしようと。自分の不器用さと口下手さを今更のように思い知り、早良は歯痒さも覚えていた。
 それでもつい、話題を探そうとしてしまう。早良なりに彼女との時間を楽しもうとしているからだ。
「もうすぐ、店に着く」
 フロントガラス越しに通りを眺めやりながら、ふと早良が言った。
 後部座席で気配が動く。バックミラーには魔法の解けたような、あかりの怪訝そうな面差しが映り込んだ。
「はい」
 彼女の声音はカーラジオと同じように穏やかだった。
 早良も軽く笑む。
「雨が降っているから、すぐに外へは出ないようにな。俺が傘を差すまで待っていてくれ」
 釘を刺したつもりだったが、何かがおかしかったのだろう。あかりが小さな笑声を零した。
「わかりました」
 笑われたのか、それとも単に愛想で笑ってくれただけなのか、どちらなのだろう。今の早良にはそんな瑣末な仕種さえ気に掛かって仕方がなかった。
 どちらにしても彼女の態度なら、不思議と好ましく思えてしまう。彼女の素直さ、衒いのなさが何より心地よかった。


 店の駐車場に車を停めると、すぐに窓の全てが見えなくなった。
 車を打つ音がばらばらとやけに大きく聞こえる。雨脚は出掛けよりも更に強まったようだ。若干忌々しく思いながら、早良は傘を手に運転席のドアを開く。たちまち雨が傘を打ち、激しい音が耳の中まで響いてくる。
 後部座席のドアを開ける時は、傘を差し掛けるようにした。
「出なさい」
 声を掛けると、あかりは小さく頷く。
 傾けられた傘を見上げた時、彼女はふとはにかむような表情を浮かべた。そのまま身軽に降り立って、一つの傘の下に二人、ごく自然に収まった。
 ふふっと、微かな笑い声がしたのはその直後。
 雨音の中でも聞き逃さなかった早良は、訝しく思い視線を下ろす。すぐ傍ではあかりが目を細めていた。
「何がおかしい?」
 早良は車のキーをロックしながら尋ねる。
 笑われるのも特別不快ではなかったが、気にはなった。彼女が一人で楽しそうにしているのが羨ましくもあった。
 それであかりはかぶりを振って、
「いえ、おかしかった訳じゃないんです。ただ」
 はにかむ笑顔で続けた。
「何だか、外国の映画みたいだなって思ったんです」
「……何が?」
 とっさに早良は眉を顰めた。
 早良も映画はよく観る方だ。もっぱら気分転換の為に、自宅で観ることが多かった。目的が目的だけに小難しいのは選ばず、気分のすっとする、アクション映画などを好んで観た。そのせいか一度観た後は内容を忘れてしまうこともたまにあった。
 外国の映画らしい何かが、今ここで起こっただろうか。当然のように早良は首を傾げた。
「こういう場面って、よく映画にありませんか。恋愛映画とかで……男の人が傘を差し掛けてくれるようなシーン」
 あかりは面映そうにしながら語を継いだ。
「私、こんな風にして貰うのって初めてで、ちょっとくすぐったかったんです」
 傘へと叩きつける雨の中、その言葉ははっきりと聞こえた。
 一つの傘の下、照れ笑いを向けられて、むしろ早良の方が反応に困った。恋愛映画なんて付き合いでもない限り見る気にもならないジャンルだ。それを模倣したと捉えられるのはいささか不満だった。思わず目を逸らし、言い返す。
「別に……普通のことじゃないか。俺は君に風邪を引かせちゃいけないと思ってこうしたまでで、面白がられるようなことじゃない。当たり前のことをしただけだ」
 言ってしまった後で、むきになっている自分に気付いた。無性に気まずい思いがして、早良は恐る恐る視線を戻す。
 あかりはしばらくの間きょとんとしていた。早良の態度が不思議だったのだろう、瞬きを繰り返していた。
 だが、ややあってから表情を綻ばせる。
「普通のこと、なんですね。私、知らなかったです」
 そして実に感じ入ったような口調で、
「覚えておきます。私もこんな風に、当たり前みたいに傘を差し掛けられるようになりたいです」
 と言った。

 早良はいよいよ反応に困った。
 あかりから真っ直ぐな感情と視線を向けられると、途端に居心地が悪くなる。彼女が純粋に感服しているらしいと察していた。感服されるようなことは何もないことも自覚していた。傘の下の空間がやけに狭く、距離の詰まったものに思えた。
 雨音がざあざあと喧しい。傘に叩きつけてくる。言葉に詰まって小声で答えようものなら、すぐさま問い返されてしまいそうなくらい賑やかだ。
 だから、答えは選ばなくてはいけない。
「大したことじゃない」
 直前に深く息を吸い込んだせいで、溜息交じりの答えになった。
「今日は俺が君を誘ったんだから、このくらい気を遣うのは当然だ」
 それが本心の全てでないことは、早良自身がよくわかっている。
 あかりははっとしたように早良を見上げた。その後でまた、小さく笑った。
「でも、そういう気配りを何でもないことみたいに出来る早良さんは、すごいと思います」
 雨音は強く続いている。
 早良がごく微かな声で、全く、とぼやいても、あかりには気付かれないほどに。

 彼女の素直さが好ましい。だが時折、反応に困る。
 それに何より、彼女はまるでいつもと変わらぬふるまいのようだ。今日の約束に緊張しているのは早良の方だけらしい。その事実が何とも、早良の胸中をざわめかせてやまなかった。
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