Tiny garden

透明度は低く(1)

 梅雨の時期が続いていた。
 上郷も一面が雨。春先より濃い緑の山も、田畑も、ぽつぽつと立ち並ぶ民家も全て、今日は雨に打たれている。
 訪れる度に姿を変えていく、上郷は美しい村だった。季節の移り変わりに従い、野山の色も違っていく。山と向かい合わせの丘の上では、新しい建物が築かれようとしている。

 早良は傘を差し、新しい公民館の建つ丘の上まで足を運んだ。煉瓦舗装の済んだ歩道はぬかるむことなく、緩やかな丘陵を上るのも楽だった。
 雨の中、待ち構えていた冨安の表情は明るい。早良に対し、どこか誇らしげに公民館を指し示してみせる。
「屋根が間に合ってよかったですよ。全く今年は女梅雨ですからね」
 公民館は既に完成予想図に近い姿をしていた。まだ周囲に足場は組まれたままだが、天井仕上げを既に終え、内装工事も着々と進んでいる。配管は先日で終了し、また梅雨を見越して窓ガラスのはめ込みも急ピッチで行われた。外壁の仕上げと施設周囲の整備が終われば、いよいよその美しい姿を目にすることが出来るようになる。
 早良は満足げに新公民館を見上げた。完成時が待ち遠しくて仕方がなかった。もちろんそれは早良に限った話ではないだろうが、ここまで胸が躍るのも早良にとって初めてのことだ。
 この公民館はきっと上郷の為になる。そして目玉ともなるだろう。そのことを彼女はどう思うだろう。上郷を深く思い、だからこそこの村を飛び出した彼女は。きっと彼女も笑顔になり、共に喜んでくれるに違いない――知らず知らずのうちに、心に一人の顔を浮かべている。それは少女の顔も、大人の顔もするような、早良にとっては扱い難いはずの相手の顔だった。
 近頃はとみに、彼女の顔が胸裏を過ぎる。これまでに目にしてきた様々な面差しがたびたび記憶によみがえり、早良は何とも言えぬ居心地の悪さを味わっていた。それは決して不快ではなく、むしろふと口元の綻ぶような、面映い感覚だった。今日では彼女を、ほぼ自発的に心に住まわせているとも言えた。早良自身にも信じがたいことだったが、心の中にあかりが存在することに、すっかり慣れてしまったようだった。

 しかし、それでも、冨安からあかりの話を振られた時には動揺した。
「あかりちゃん、元気にしてますかねえ」
 冨安の口ぶりは実に何気なく、特に訳知った様子でもなかった。だが早良はうろたえた。とっさに表情を作れず、何とも複雑な心境で答える。
「ええ……あの、旅館のところのお嬢さんですね」
「そうですそうです、覚えていらっしゃいましたか」
 人好きのする笑顔で冨安は言い、
「あかりちゃんがですね、早良さんのお住まいの街の大学に通っているんですよ。ご存知でした? 向こうに行ってからもう三ヶ月になりますか、姿が見えないとやはり寂しくて敵いません。あっちではどうしてるのか、よその子ながらも気になるんですよねえ」
 と続けて、早良の狼狽を更に強めた。
 あかりはその名の通り、明るく朗らかな娘だった。上郷ではその心を弱らせるものも惑わせるものもなく、ただひたすらに明るい娘でいられたのだろう。冨安らにもその存在がしっかりと根付くほどに。
 早良は少しの間思案した。しかしどう取り繕ってもわざとらしく思え、結局正直に打ち明けてしまうことにした。
「あかりさんでしたら、向こうで会いましたよ」
 平静を装って告げれば、冨安の方が瞠目する。
「本当ですか? いやはや、都会も案外狭いものですなあ。早良さんがあかりちゃんと会っていただなんて」
「ええ、偶然ですが二度ほど、道で行き会いまして」
 確かに、嘘ではなかった。最初のうちはただの偶然だった。もしかすると二度目の邂逅も、早良の心が求めた結果だったのかもしれないが――酔った上でのふるまいだ。確信はない。
 どちらにせよ、嘘はついていない。本当のことを全て話していないだけだ。単に『二度行き会った』だけではないことは、さすがに打ち明けられなかった。まさか食事に誘ったことがあるなどと、その上今度はデートに誘ったなどと言えるはずもない。そうと知れたらどんな反応をされるか。早良は奇妙に恐々としていた。
「そうでしたか」
 早良の胸中を知らない冨安は、うれしそうに笑んでみせた。
「偶然とは言えうれしいもんです。あかりちゃん、元気でした?」
「ええ。大学では友人も出来たと言っていました」
「そうですか、いやあよかった。向こうに馴染めたみたいで、何だか私までほっとしましたよ」
 冨安が胸を撫で下ろし、早良も深く追及されなかったことに安堵する。
 内心、口を滑らさぬようにと神経を尖らせていた。ことあかりの件に関しては、自分にはいささかの隙が出来るようだと気付いていた。先日の史子との会話でそうと認識してから、早良は余計に落ち着かない心持だった。

 そこへ、雨音を打ち破るような声が聞こえてきた。
「早良さーんっ!」
 聞き覚えのあるようにも思え、しかし記憶の中ではっきりと符号しない、ややしゃがれた声だった。
 精一杯振り絞られたらしい声を耳にした早良は振り向き、丘を駆け上がってくるブルーのレインコート姿を見つける。そして冨安もほぼ同時に見つけたのだろう、慌てながら呻いた。
「あの悪ガキ、傘も差さずに……! 風邪引くぞ、全く!」
 その呻きで早良も、レインコート姿が誰であるか察した。サイズの小さな長靴が水音を立て、少年がこちらへと駆けてくる。坂道を一息に上ってくる辺りは、やはり姉弟だ、と早良は思う。
 舗装された道を駆けてきた彼へ、早良は歩み寄るとすぐに傘を差しかけてやる。
 青いフードがむくりと持ち上がり、悪戯っ子の笑顔が覗いた。
「久しぶり!」
「……ああ、久しぶりだ」
 雄輝の言葉に、早良は頷く。穏やかに笑い返そうと思ったが、少年の前髪からぽたぽたと雫が落ちているのを見れば、苦笑いしか浮かんでこなかった。相変わらずやんちゃな少年のようだ。
「お前、何で傘を差さないんだ。風邪引くとお父さんもお母さんも心配するだろう」
 冨安が咎めると、雄輝はあどけない顔に不満の色を浮かべる。
「こんなんで風邪なんて引かないよ。ちゃんとレインコート着てるしさ」
 声のトーンが違うようだ、と早良は思った。変声期を迎えたのかもしれない。前に顔を合わせたのは三月だから、変わりがあるのも当然だろう。
 あかりが聞けば驚くのではないだろうか――そう考えかけて、早良はまた一人うろたえた。何かにつけて彼女のことを考えている。それ自体はどうしようもないのだろうが、口を滑らしかねない相手のいる時は用心しなくては、と思う。
「いいから、酷い降りになる前に帰りなさい」
 冨安の言葉には聞く耳持たず、雄輝は早良へと水を向けた。
「早良さん、うちの姉ちゃん元気?」
「――え?」
 虚を突かれた早良が、目を瞬かせる。
 その隙だらけの表情に対し、少年は嬉々として答えた。
「姉ちゃんに聞いたんだ。向こうで早良さんに会ったって」
 背筋がひやりとする。あかりは雄輝に、自分とのことを話していたようだ。二人きりの姉弟だから、まあ当然なのかもしれない。
 しかしどこまで話しているのだろう。早良は内心、焦りを抱く。冨安には『偶然、二度会っただけ』と話した手前、雄輝が余計なことまで言わなければいい、と不安に駆られた。
「そう……か。いや、会ったのは事実だ」
 ひとまず冷静に応じた早良に、雄輝は尚も笑んで、
「んで、道に迷った時に早良さんに偶然会って、部屋まで連れ帰って貰ったって」
「……そんなこともあったな」
「すみません、ふつつかな姉で。っつうかうちの姉ちゃん結構ドジだからさ。早良さんがいてくれなかったらどうなってたか。道に迷いすぎて上郷まで戻ってきちゃってたかもだし」
 雄輝は口の利き方まで、少し変わったように思えた。大人びた物言いもするようになっていた。
 もっとも、冨安には鼻を鳴らされていたが。
「何が『ふつつかな姉で』だ。あかりちゃんがここにいたらまた叱られてたぞ。雨が降ってるのに傘も差してないとは」
「しつこいなあ、いいんだってば!」
 唇を尖らせた雄輝は、それでも早良には笑顔だけを向けてくる。
「早良さん。もしまたうちの姉ちゃんが道に迷ってたら、面倒だろうけど助けてやってくれないかな。姉ちゃん、ああ見えて抜けてるから、弟としちゃ危なっかしくてしょうがないんだ」

 それは恐らく、額面通りでしかない言葉のはずだった。
 だが早良には、この少年に全てを見透かされたような気がしていた。――恐らくあかりは、自分と食事の約束をしたことなどは、弟にも話していないのだろう。話せないのかもしれない、と思う。或いは弟には話しても、両親にはかえって気を遣わせるから黙っているようにと口止めしたのかもしれない。
 どちらにせよ、あかりの口から早良の胸中までもが露呈することはないだろうが、早良には雄輝の言葉が意味深長なものに聞こえた。早良がどういう想いをあかりに対して抱いているのか、早良よりも先に見抜いているように思えた。
 雄輝の表情は明るく、揶揄するようではちっともなかった。だが早良は何とも気まずい、面映い心持で、あどけない少年を見下ろしていた。
「任せておいてくれ」
 やがて、はにかみながらも答えた。
「君のお姉さんに何かあったら、手を貸すようにするよ」
 早良がそう告げると、雄輝はにっと白い歯を見せる。傍らで冨安が首を竦めながらも、表情を和らげたようだ。
 言った後で早良は、しばらく面映さを引き摺っていた。それでも言葉に嘘はないと思えた。彼女の為になら、いくらでも手を差し伸べられる。嘘ではなかった。

 降りしきる雨の中、早良は梅雨が明けるのを待ち望む気持ちでいた。
 夏になればあかりは、上郷へと帰ってくる。その頃には新公民館も完成している。彼女にも立派な姿を見せられることだろう。
 今から、流星群の季節が恋しく思えた。
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