Tiny garden

星が降る日まで(2)

 招かれたあかりの部屋は、早良の思っていた以上に狭かった。
 入ってすぐのところにあるダイニングキッチンと、その奥に一間だけ。小奇麗にはしてあったが、必要最低限の家具しかなく、物寂しい風景だった。小型のテレビに小型の冷蔵庫、それに低いテーブルの他は、特に目につくものもない。奥へのふすまは閉ざされていたから、早良の感覚からすると実に手狭な部屋に見えた。
 だが立ち入った早良を困惑させたのは、その狭さでも物寂しさでもなかった。
 雨の日だというのに、部屋の中は妙にいい匂いがしていた。香水や食べ物の匂いとは違う、ほのかで柔らかな匂いが。
「座ってください、早良さん。何のお構いも出来ませんけど」
 いそいそと座布団を敷くあかり。こういう気の回るところは、家業を手伝った癖が出ているのかもしれなかった。
「ありがとう」
 早良が会釈と共に腰を下ろすと、
「すぐに着替えてきますから」
 あかりは笑顔で言い残し、奥のふすまを開けた。するりと中へ滑り込む。すぐにふすまは閉められて、早良は見慣れぬ部屋に一人取り残された。
 雨脚は弱まったのか、先程よりも雨音が遠ざかっていた。そのせいで奥の部屋の、ごく微かな衣擦れの音まで漏れ聞こえてきた。
 彼女が服を着替え始めている。
 聞こえた。着衣が何かに触れ合う音。ストッキングを手繰る丁寧な音、ファスナーを上げる短い音。いやに鮮明に聞こえてきた。
 聞き耳を立てているつもりもない。なのにどうしてか耳につき、早良はより一層落ち着かない気持ちになった。意識を逸らそうと、用もないのに携帯電話を弄った。

 早良の自室も常にきれいにされていたが、この部屋のような匂いはしない。几帳面な性格もあって、休日ごとには必ず部屋の掃除をしている早良だったが、あかりの部屋の雰囲気はまた違う次元のもののように思えた。
 そういえば、女性の部屋に立ち入ったのは初めてかもしれない。ふとそんな認識が脳裏を過ぎった。――あかりをはっきり『女性』と定義していいのなら、だが。
 これまでにも大学時代の同期や、或いは仕事の付き合いのある相手に、部屋へ来るようにと招かれたことはあった。しかしそういう誘いを受けても気乗りせず、早良はやんわりとかわし続けてきた。紳士的なふるまいを心がけているといえば聞こえはいいが、実のところは単に面倒なだけだった。他人の領域に踏み込むのが苦手で、煩わしいとしか思えなかった。声を掛けてくる連中が皆疎ましく、仕事に打ち込んでいる方がまだ楽しいと思っていた。
 そのはずが、今はこうして招かれるがまま、あかりの部屋へと上がりこんでいる。その上彼女の部屋の雰囲気に、すっかり平静さを失っている。狭く、飾り気もないこの部屋が、訳もなく早良の心を掻き乱した。ほのかないい匂いと、雨音よりもごく近くに聞こえる衣擦れの音と、見慣れない他人の部屋の風景そのものが。


 ふすまが再び開いたのは、十五分ほど経ってからのことだった。
「お待たせしました」
 そんな声と共に、あかりが姿を見せる。先程とは趣の違うスーツ姿は、面を上げた早良を更に戸惑わせた。
 ダークグレーのテーラードカラー。白いブラウスにタイトスカートと、まさに定番のリクルートスーツだった。本人が言っていたようにあまり着慣れていないのか、スーツに着られているような印象さえ与えた。高めに結った髪が初々しく映る。
 眩しいくらいにまっさらな少女がそこにいた。
 大人の顔も子どもの顔もする彼女は、スーツを着るとことさらにあどけなく、頼りなげに見えた。
「どうですか、この格好。おかしくは……ないですよね?」
 照れたように笑いながら、あかりは尋ねてきた。
「ああ、別に……」
 舌の縺れた早良の答えをどう思ったか、彼女がうれしそうに首を竦めた。
「よかった! これを買った時の、雄輝の評価は散々だったんです。あの子、酷いんですよ。私にスーツが似合わないとか、ちっともお姉さんらしく見えないとか、そんなことばかり言うんですから」
 似合うかどうかは、早良にはよくわからなかった。上手く着こなせているかといえば、決してそうではないし、大人のように見えるという訳でもない。
「でもこれで、早良さんにご迷惑を掛けずに済みます」
 あかりはようやく安堵した様子で、早良へと声を掛ける。
「お待たせしてすみませんでした。着ていくお洋服のこと、前もって聞いておけばよかったですね。本当にごめんなさい」
「……いや」
 とっさに早良もかぶりを振る。
「俺が確認しなかったのが悪かった。君みたいな年代の子と食事に行くことがなかったから、すっかり失念していた」
「そんな、早良さんは悪くないです。誘ってくださって、本当に感謝しています」
 スーツに着られた身でありながら、あかりの言うことはどこか大人びている。とっさに気を遣われたのがわかって、焦燥がまた募った。
 お蔭で言いかけた言葉が掻き消えてしまった。――次は、気を付けるようにする。そう言おうと思っていたのに。
 しかし、次の機会などあるだろうか。ある方がいいのだろうか。自分にとって、彼女にとって。これからの時間がどんなものになるのかすら、まだわからない。にもかかわらず、次の機会に言及しようとした早計さが自分で癪に障った。
 やはり他人の領域は苦手だ。何かにつけ心乱されてしまう。
「そろそろ、時間だ。行こうか」
 早良は携帯電話をしまい込み、立ち上がる。
「はい」
 頷いたあかりが早良の動作を待ってから、照明のスイッチに手を伸ばした。ダイニングの電灯が消えると同時に、玄関にオレンジの光が点る。
 ドア越しに聞く雨音はもう弱々しい。この分だと帰りには止んでいるかもしれない。
 暖かな色の光の中、早良はちらとあかりを見た。
 彼女の方も、早良を見ていた。目が合うと、やや怪訝そうにしてみせた。
「どうかしました? 何か、忘れ物でも……」
「いや、違う」
 もごもごと口ごもるように早良は言った。
「可愛いな、その格好」
 どちらかと言えばその言葉は、本心からのものではなかった。女性が服装を替えてきたらどこかで誉めてやるべきだという、礼儀作法に則った言葉だった。本来なら替えてきた時点で告げるべきだったのだが、いろいろと不意を打たれて今の今まで言えずにいた。
 ようやく言えた。
 かと思えば、あかりはきょとんとしてみせた。そのすぐ後に、くすくすと笑いながら答えてきた。
「そうですか? ありがとうございます、早良さん」
 彼女の反応を見た早良は、思った。――言葉の選択を誤ったかもしれない。
 きれいだと言うべきだったか、それともよく似合うと言うべきだったか。そのどちらも的確ではないような気がして、口には出来なかった。だが可愛いと告げたその表現は、果たして的確だったのかどうか。少なくともあかりにとっては、どうということもない誉め言葉だったようだ。
 それなら言わなければよかった。そう思った後で、奇妙なほど気負っていたことに気付いて、早良はまた焦りを抱く。
 結局、彼女は大人か子どもか。一体どちらなのだろう。彼女に一番相応しかった褒め言葉とは、何だったのだろう。


 あかりを車の後部座席に座らせると、早良も運転席へと乗り込んだ。
 助手席に座らせない理由は特になかったが、彼女なら遠慮して座りたがらないだろうと思った。
「雨、弱まりましたね」
 走り出した車の中で、あかりは雨に洗われる窓を見つめていた。バックミラーには横顔が映り込み、早良はちらとだけ視線を走らせる。
「酷い降りにならなくてよかったな」
「本当です。せっかくのお出かけなのにざあざあ降りじゃ、大変ですもんね」
 そう言ってから、彼女が前を向いたのがわかった。
「今日は誘ってくださって、ありがとうございます、早良さん」
 はきはきした礼を述べてくる彼女に、早良は軽く笑んだだけだった。
 感謝は後にして欲しい、と思う。これから先、何があるかわからない。扱いの難しい彼女を前に、自分がどんな失策をしでかすか、わかったものではない。
 いつになく、早良は自信を失っていた。落ち着きのない逸る心で、これからの時間に思いを馳せていた。
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