Tiny garden

星が降る日まで(1)

 その日は、あいにくの雨天だった。
 ワイパーが忙しなくフロントガラスを上下する。ハンドルを握る早良も、どことなく落ち着かない気持ちでいた。道が混むから雨の日はあまり好きではなかったはずだ。しかし今は不機嫌ささえ影を潜めて、ひたすらそわそわした心持ちでいる。
 あかりの住むアパートまではもう少し。これから彼女を迎えに行くのだという事実が、早良の心を浮つかせている。
 楽しいとも、うれしいとも違っていた。強いて言うなら今の心境は、子どもの頃に抱いた不思議な高揚感に似ていた。初めてのところへ出かけていく時、初めての遊びをする時、気持ちがそわそわと浮き足立つのを懐かしく思い起こす。こんな感覚を今更思い出すこと自体が、早良にとっては奇妙だった。

 そもそも奇妙な縁だと思う。あかりとは年齢も離れている上、出身地も育った環境もまるで違う。上郷での仕事がなければ出会う機会もなかっただろうし、出会っていても、あかりがこちらの大学へ通わなければこうして一緒に出かけることもなかった。
 一度顔を合わせ、同じ街に住んでいたとしても、これまでの早良なら係わりの薄い他人と縁を結ぼうなどとは考えもしなかっただろう。奇妙なことだが、しかし確実に、早良はあかりに興味を持っていた。
 今日まで彼女とは、ほんのごく数回電話で連絡を取り合っただけ。大学でどうしているか、どんな風に暮らしているかにはほとんど触れられなかった。早良にとっての最もたる興味はそこだった。あれからどうしているだろう、あれからはもう、涙に暮れてはいないだろうか。その点ばかりが気になっていた。
 まるで保護者と、被保護者の関係だ――そんな思いを胸に過ぎらせて、かえって居心地の悪さを覚えた。他人の領域に踏み込みたいと思う衝動に、早良はまだ、慣れていなかった。


 あかりのアパートの前はがらんとしていて、雨音だけが響いていた。
 時刻は午後六時少し前、あかりの住む部屋一室だけが照明を点している。
 彼女はもう出かける用意が出来ているだろうか。早良はスーツのポケットから携帯電話を取り出し――かけて、止めた。代わりに車のエンジンを切る。ダッシュボードから傘を引っ掴むと、ドアを開けて車を降りた。
 傘を差し、あかりの部屋まで駆け足で向かう。雨の勢いは強く、傘にぶつかる度に賑やかな音を立て、更に心を逸らせた。
 革靴で水を撥ね上げながら、辿り着いた彼女の部屋の前。早良はためらうことなくチャイムを押す。軽快な音が一つ、ドア越しに響いた。
 すぐに足音が近づいてきた。
「はーい」
 あかりの声が応えて、ドアの隙間から顔が覗く。目が合うなりあかりはにっこりと笑んだが、なぜかすぐに、しまったという顔になった。
「こんばんは。迎えに来た」
 心なしか素っ気なくなる早良の言葉。そして早良も、あかりの姿を認めると、自らの失策に気付いた。
 現われたあかりは普段着だった。長袖のTシャツにブラックジーンズといういでたちで、スーツを着込んだ早良とは対照的だった。
「ええと……」
 あかりもそのことは把握したらしい。ぎくしゃくと切り出してきた。
「早良さん、スーツなんですね」
 視線が宙を泳ぎ、戸惑ったような声が続く。
「あの、もしかして今日は、ちゃんとした格好をした方がいいんでしょうか。こんな格好じゃなくて……」
 早良は返答に詰まった。
 服装についても指示するべきだったか、と思った。前提からしてあかりは大学生、それもつい数ヶ月前までは高校生だった娘だ。外に食事へ行くと言って、『ちゃんとした格好』をする発想まではないだろう。こちらの不手際だったと言わざるを得ない。
 今日の為に予約した店は、確かに服装を問われるようなところだった。何度か仕事で利用した折に印象がよかったので、そこにしようと決めたのだったが、十代の娘を連れて行くには相応しくなかったかもしれない。もっと気楽な店を選んでおくべきだった。完全に失敗だった。
 早良は困り果て、思わず尋ねる。
「君、その格好で?」
 するとあかりも、申し訳なさそうに応じてきた。
「すみません、私、あまりお洋服を持ってなくて……。何を着ていこうか、迷ったんですけど」
 恥じ入るような告白に、早良まで気まずい思いがした。相手は仮にも女性なのに、何ということを言わせているのだろう。服をあまり持っていないなどと、赤の他人には言いにくい話だろうに。
「ご、ごめんなさい、私、そういうのちっとも気が付かなくて。そうですよね、普通はもっとちゃんとした格好をしますよね。あの……」
 考え込む早良を見上げて、あかりは居た堪れないそぶりだった。まごついているのが傍目にもわかる。
 彼女を見ているうち、早良は決断した。胸ポケットから携帯電話を取り出すと、掛ける前にあかりへと告げる。
「いや、いい。違う店を探す」
「え……」
「予約はキャンセルすればいい。他の店にしよう」
 元々、選んだ店が悪かった。同世代を誘うならともかく、あかりの年齢を全く考慮に入れていなかったのは問題だった。仕事で食事の席を設けるのとは全く違うのだと、もっと早くに気付いておくべきだった。
 後悔しながら携帯電話を操作する。件の店の番号は登録してあった。当日キャンセルは迷惑がられるだろうが、やむを得ない。キャンセル料を払って詫びるより他ない。
 画面には他にもいくつか行きつけの店の番号が並んでいたが――ほとんど普段着のあかりを連れて行けるようなところはあるだろうか。あまりおかしな店に出かけていく訳にもいかないし、食事に行くのだから不味い店は論外だ。かといって人気のある店は、この時分からでは予約を入れるのも難しい。となると、残る方法は――。

 雨音が次第に耳障りになってきた。
 差したままの傘も邪魔で、携帯電話を手にした早良を苛立たせる。自らが招いた失策とはいえ、挽回するのは難しいように思う。そもそも今日はあかりを元気づける為の食事の約束でもあったのに、かえって彼女を後ろめたい気持ちにさせている。
 何か打つ手はないものか。気まずい空気を混ぜ返す、何か。
 画面を覗きながら、早良が思案に暮れていれば、
「あのっ」
 不意にあかりが、口を開いた。
 目を向けると、済まなそうな面持ちの彼女が、こちらを見上げていた。
「すみません。私、またご迷惑をお掛けして」
「迷惑じゃない」
 即座に早良が切り返す。
「ちゃんと連絡していなかった俺も悪かった。他の店にするから、君は気にしないでくれ」
「でも、当日のキャンセルって、お金が……」
「子どもは気を遣わなくていいんだ」
 前にも告げた言葉を、今度は語気を強めて口にする。
 それであかりも一度は唇を結んだが、直におずおずと言ってきた。
「スーツなら一着、あります。大学の入学式で着たやつで、あんまり似合ってないって弟には言われたんですけど……それでもよければ、着替えてきます」
 リクルートスーツか。早良は納得すると共に、やや申し訳ない思いであかりを見た。
「別に無理はしなくてもいい。他の店を探すから、待っていなさい」
「無理じゃないです」
 真顔で言ったあかりは、その後すぐに口元を綻ばせた。
「本当に似合わないんですけど、馬子にも衣装って皆に言われるくらいで。だから早良さん、笑わないでくださいね」
 物言いも軽く、彼女の顔には笑みが戻っている。明かりの点ったような笑顔だった。
「すぐに着替えてきます。ちっともお待たせしませんから、早良さんは中に入っていてください」
 ドアを大きく開けて、招いてくる。
 それでも早良は躊躇した。
「俺は、君に無理させるつもりは――」
「無理じゃないですよ、早良さん」
 尚もあかりが言い募る。はにかむ笑顔で、はっきりと。
「時間、まだ、大丈夫ですよね?」
 問われて早良は、携帯電話の画面に視線を落とした。確かめてから正直に答える。
「あ、ああ。でも」
「じゃあ、お願いです。着替えてきますから、ちょっとだけ待っていてくれませんか?」
 あかりの物言いは無邪気なようで、その実、気遣いに溢れている。気を遣う娘だった。大人でも子どもでもなく、だからこそ早良にとっては扱いにくい相手だった。
 元来、早良も強情さを持ち合わせてはいたが、それもあかりの前では形なしだった。自らの失策を挽回するどころか、彼女に気遣われてすらいる現況に焦りを抱き始めている。今日は何の為の約束だったか、忘れた訳でもないのに。
「……わかった。そうしよう」
 渋々と答えた早良。
 するとあかりはもう一度笑んで、促した
「上がってください、外は雨が降ってますから」
 その申し出に、早良は曖昧な表情で従った。
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