Tiny garden

新月の頃(4)

 早良はカーラジオのスイッチを切った。陰鬱なメロディは、車内に漂う気まずい空気を余計に掻き立てるだけだった。
 車に乗り込んでからというもの、あかりはほとんど口を利かない。尋ねられて住所を答えた時と、その後小声で詫びた時のみ。それ以外は押し黙ったまま後部座席に腰掛けている。シートには寄り掛からず、どこか畏まった様子に見えた。
 バックミラー越しに彼女を見た早良は、言い知れぬ不安を覚えた。――上郷にいた頃よりも少し、痩せたようだ。顔立ちはほとんど変わっていないはずなのに、見せる表情はぎこちなく、そして明るさに乏しい。公民館の建設現場で初めて出会った時のいきいきとした顔は影を潜めていた。
 不思議なことに、早良はいささか落胆していた。あかりの子どもとも大人ともつかない感情表現にあれだけ振り回されたというのに、それが垣間見えなくなるとどことはなしの不安を覚える。当然あるべきものが見えない虚無感が、奇妙な焦りを加速させる。そしてそのことを自覚すると、かつてない感情に囚われていることに対し、更に不安が募るのだった。
 一体彼女の、何を気にしているのだろう。こうして再会したのは偶然に過ぎず、車に乗せてやったのはあくまでも口実。それなのに、口数少なく表情の硬い彼女が気に懸かって仕方がない。今日は新歓コンパだと言っていた。コンパの解散時刻にしては早い時分だと思えたが、では彼女は――。

 ふと、あかりが顔を上げ、ミラー越しに目が合った。
 早良はすぐに逸らし、いつの間にか消えていたよそ行きの微笑を作り上げた。フロントガラスを見つめながら、後部座席の彼女に問う。
「こちらでの生活はいかがですか」
 間を置かず、明るさを装った声が返ってくる。
「ええ、大分慣れました。大学と部屋を行き来するだけなら道にも迷わないんですけど」
 優等生の回答だった。早良は内心で眉を顰め、あかりは尚も言葉を続ける。
「こうして遠出をしてしまうと、途端に道がわからなくなってしまうんです。まだあちこちに足を伸ばしたことはなくて……だから今日は本当に助かりました。ありがとうございます」
 彼女が頭を下げたのが、バックミラーの隅に映る。その後に続く、気遣わしげな表情も。
「でも、早良さん。同窓会はよかったんですか?」
 姿勢を伸ばした彼女の様子を、早良はあまり見ないようにと努めた。それでもバックミラーを見遣れば自然と目に入る。その度に焦りにも似た言い知れぬ不安を抱く。
「私、早良さんには上郷でも大変お世話になったのに、その上ここまでしていただいて……何とお礼を言っていいのか。むしろ、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい」
 あかりが大人の態度で言葉を紡ぐ。それを聞いて、早良は微かに笑った。
「いえ、お気になさらず」
「でも」
「どうせ気の乗らない集まりだったのです。どうしてもと言われて出ることにしていましたが」
 早良はごく温和に応じたが、言った後で僅かに後悔した。他人にあまり本音を語るものではない、と日頃肝に銘じていたのに、意図せずほぼ事実に近い言葉を打ち明けてしまった。するりと飛び出した本音を、今更取り繕うのも難しい。
 一瞬、奇妙な沈黙があった。あかりが息を呑むのが、その後で聞こえた。
「早良さんにもそういうこと、あるんですか」
「そういうこと、とは?」
「ええと、その……人の集まりが好きではなかったり、ということです」
 そう言った時、あかりは躊躇うようなそぶりを見せた。早良も慎重に言葉を選ぶ。
「多少は。私は、酒を飲むのがそれほど好きではありませんから」
 模範解答に軌道を修正するつもりだった。しかしあかりは早良の内心を知らない。ほんの少しの共感を混ぜて、声を弾ませる。
「早良さんって、とっても社交的な人なのかと思っていました」
「社交的、ですか」
「ええ、人と会うのが好きで、人と話すのが好きで、いつも皆の輪の中心にいるような人だろうなって。だから意外に思ったんです、早良さんでも気の乗らないことってあるんですね」
 早良の領域にあっけらかんと踏み込んでくる彼女は、恐らく無自覚なのだろう。しかし早良にとっては触れられたくない箇所であり、装い、偽り続けなければならない側面でもある。先に零した本音を打ち消す為にあえて切り返した。
「私からすれば、あなたこそそういう印象がありますよ、あかりさん。人の中心にいて、明るさを振りまいているような方だと思っていました」
 今度は完璧に、優等生を装う台詞。
 だがそこで、あかりは表情を曇らせた。直後声のトーンが落ちる。
「そんなこと……私、ちっともそんなことないです」
 それから、お互いに黙り込んだ。
 バックミラーから視線を外した早良は、フロントガラス越しに夜の町並みを見据えた。目映いネオンは遠ざかり、水銀灯の並ぶ幹線道路へと入る。対向車のヘッドライトが流れていく度、脳裏を過ぎった当たり障りない言葉も全て流れ去っていくようだった。

 何と言葉を掛けていいのか――いや、そもそも言葉を掛ける必要があるのか。彼女に深く関わることはしたくなかった。関わりたくないはずだった。
 だが今、早良は彼女の為に言葉を探している。当たり障りのない、耳に心地良い言葉を探してやりながらも、それらを口には出来ずにただ逡巡を続けている。彼女の明るさを取り戻したいと、漠然と思っている。彼女から明るさが消えてしまった要因を、わかりもしないくせに思い巡らそうとしている。それらは一体どうしてなのだろう。
 歯痒さに顰めた顔が、フロントガラスに映り込む。また笑みが消えている。気付いてもすぐには装えない。

「……早良さん」
 不意にあかりが、早良を呼んだ。
 ミラーには寄る辺ない子どものような、心許なげな表情が映っていた。
「あの、私……」
 何かを言いかけて、止めて。あかりの態度は不審だった。早良は一呼吸置いてから尋ね返す。
「どうしました」
 するとあかりは目を伏せた。今までよりもずっと抑えた低い声で、ぽつりと言った。
「私、今日……抜け出してきちゃったんです」
 幹線道路を流れる走行音に、紛れてしまいそうなほど抑えた声だった。
「新歓、大学で声を掛けて貰って、行ってみようって思って。だけど行ってみたら会場は居酒屋で、空気が何だか合わなくて、すぐに抜け出してきてしまったんです」
 ぽつぽつと途切れがちな言葉が紡ぎ出される。
「お酒が出るなんて思わなかったから、びっくりしちゃって……」
 言い訳のように口走った後で、あかりは少し早口になって続けた。
「あの、はっきり言えたらよかったんだろうって思います。未成年だから飲めないんですって。でも同期の子たちも皆飲み始めていて、断れる空気じゃなくて、だから……適当な口実を作って、逃げてきちゃったんです」
 なるほど、と早良は呟く。自分にとってもかつて通ってきた道だった。もっとも、早良が史子と共に所属していたサークルは、行儀の悪いことは出来ないような育ちのいい連中ばかりで、まかり間違っても未成年に飲酒をさせる空気にはならなかった。早良にとっては、それはそれで不自然な、作り物めいた環境にも思えていたのだが。
「私、空気読めてないんですよね」
 あかりは微かな苦笑いを見せた。
「わかってるんです。そういうのもちゃんとこなしていかないと溶け込めないって。なのに……」
 しかしそこで言葉を止めると、後には何も続かなかった。ゆっくりと項垂れるのが見えた。

 早良はまだ、言葉を探していた。彼女に掛けられる、最善の言葉を。
 だが何を告げていいものかわからない。彼女が何を求めて、そんなことを打ち明けてきたのかもわからない。他人の領域にずけずけと踏み込んでくる彼女は、自らの領域に踏み込まれることも構わないということなのだろうか。そうだとしても、早良にはそこまで踏み越える気などさらさらなかった。
 越える気はなかった。
 ただ、奇妙に落胆していた。あるべきものが見えない不安が心を捉えて離れなくなる。笑っていてくれる方がよかった。あかりは笑っている方が似合っていた。無垢な子どもの笑みも、大人びた気配りの笑みも、どちらも彼女らしいものだった。彼女はそのどちらも上郷に置いてきてしまったのか、ここにはない。ここでは取り戻せないのかもしれない。
 だがそれでも、受容し慣れていくのが人というものだ。早良が成長するに従い、表情を装い偽りの温厚さを身に着けたように、あかりも多くのものを失いながら成長していくのだろう。上郷にはなかったたくさんのものを目の当たりにしながら、どうしても変わっていってしまうのだろう。摩滅し、失い、絶望しながらも、ここで生き抜く為の強さを得るのだろう。そうして彼女は完成していく。今の彼女とはまるで違う存在へと、変貌を遂げていく。
 惜しい気がする、とふと思う。なぜかはわからないが、無性にそう思う。だがそのことは口にせず、結局早良は当たり障りのない模範解答を選んだ。
「そのうち、あなたに合った居場所が見つかりますよ」
 早良の言葉は優しかったが、拒絶にも近かった。彼女の領域には踏み込まない。そのことを優しさのうちに暗に示した。
「大学にはたくさんの人間がいる。あなたと気の合う人だって間違いなくいるはずです。あまり気負わず、マイペースに過ごすのがいいでしょう」
 そうではないことを、お互いわかり合える相手など容易く見つけられるものではないことを、早良自身が一番よく知っているのに。
 あかりはそれをどう受け止めたのか。次の瞬間にはふっと笑んで、頷いていた。
「はい――そう、ですよね。私もそう思います。だから、頑張ります」
 その後でようやく表情を和らげた。輝く瞳がフロントガラスの向こうを見つめている。
「あ、この辺りです、私の部屋! よかったあ、ようやく見覚えのあるところまで来ました」
「ええ、もうじき着きます」
 事務的に答えた早良は、膨れ上がる虚無感をやり過ごすので精一杯だった。
PREV← →NEXT 目次
▲top