Tiny garden

新月の頃(3)

 同窓会の行われる当日の土曜日、早良は繁華街へと足を向けていた。
 車をビルパーキングに停め、街中を一人歩いていく。デパートや飲食店が多く立ち並び、街灯とネオンサインの明かりが煌々と輝く界隈。夜の七時を過ぎた辺りでは人気も多く、昼間とは違う賑わいを見せている。
 雑踏の中を、早良は黙々と歩いていた。姿勢のいいスーツ姿と凛々しい面差しは、すれ違う人の目を引いた。大勢の中にいても注目を集めるような端整な顔立ちをしていた。
 早良自身も、見知らぬ相手から視線を向けられる事実には気付いていたが、それが好ましいとは一向に思えずにいる。ただただ、鬱陶しいものでしかなかった。下手に人目を引くくらいなら、誰からも気付かれず、ひっそりと存在していられる方が余程楽だろうと思った。
 早良に備わっているものは全てが羨望される、恵まれたものばかりだった。家柄も、裕福さも、容貌も才能も立ち居振る舞いまで全てが恵まれていた。それに不服を唱えることは贅沢なのだとわかっていても、その恵まれた生活こそが疎ましい時もあるのだと、時折思う。欲しいものは恐らく他にある。だが、手に入れる術がわからない。そしてそれを手に入れた時、果たして自分は本当に充足するのか。そのことすらもわからない。
 ただ、欲しかった。自分ではないものが。これまで自分を、早良克明という人間を形作ってきた様々な要素の、そのどれでもないものが欲しかった。そうして自分が、全く違うものになれればいいと願っていた。
 叶わないことだとわかっていても、願った。誰にも悟られないところで、密かに望んでいた。

 史子との待ち合わせ場所は、繁華街でもひときわ賑わっている百貨店の前だった。
 木の植えられた広場にはベンチも幾つか並んでいて、そこに若者たちや仕事帰りのサラリーマンたちの姿がある。待ち合わせスポットとして名の知られたこの場所で、早良は史子と落ち合う約束をしていた。
 辿り着いてすぐ、溜息をつく。植木の陰に身を潜めるようにして立ち、ネクタイを締め直した。スーツを着てきたのはせめてもの抵抗だった。急な仕事が入ったと嘘をつき、適当なところで中座するつもりでいるのだ。そうでもしなければとてもではないが付き合い切れない。史子にも、大学時代の同期たちにも、自分の中の鬱屈とした感情にも。
 四月の風は三月よりも温かかったが、いささか強く吹き付けていた。この辺りに吹く風は排気ガスの臭いがしていた。早良は乱されていく髪を指で梳きながら、風を避ける場所を探す為、視線を巡らせた。

 遠くで水銀灯の光が滲んでいる。空は暗く、地上の眩しさとは対照的で、星の一つも見えていない。新月の頃で、月の姿もない夜空だった。
 目に留まった空の色を見て、ふと、上郷で見た星空が記憶の中で甦る。冴え冴えとした冷たい、遠いところにある光。息をするのも躊躇われるような静けさの中で、強い光を放つもの、そっと密やかに瞬くもの、様々な星が浮かんでいた、あの空。確かに美しく、記憶に焼き付けられた一夜だった。
 彼女も、今はこの空を見上げているのだろうか――ふと、早良は思う。上郷で見たものとは違う、星も月も見えない夜空。あかりはこの空を見て、どんな思いを抱くのだろう。
 そう考えるといささか複雑な思いがして、咄嗟に早良はかぶりを振った。彼女のことを考えてはいけない、と思った。二度と出会いたくない相手だったはずだ、なのに迂闊に思い出す必要はない。
 眉を顰めて視線を下ろした。
 しかし、その時だった。

 早良の目に、今度は見覚えのある姿が留まった。あどけなさの残る少女の顔をした、すらりと背の高い姿。長い髪を今は結い上げて、こちらの方へ歩いてくる。華奢な手足をふらふらと揺らし、どこか翳りのある表情をした彼女が、ふと百貨店前の広場へ足を踏み込んで、こちらに気付く。
 その時には早良も気付いていた。彼女だと、わかった。
「早良さん……ですか?」
 先に、あかりの方が声を発した。
 名前を口にするとすぐ、直前まで翳っていた表情にぱっと明かりが点ったようになり、こちらまで駆け寄ってくる。初めて出会った時と同じ、俊敏な動作だった。
 呼吸も乱さず、立ち木の傍らに立つ早良の元までやってくると、はきはきした口調で告げてきた。
「お久し振りです、早良さん」
「あ……」
 早良は咄嗟に声が出ず、慌てて絞り出すように応じる。
「お久し振りです、あかりさん」
 そう呼んでしまってから、不躾だろうかとふと思う。彼女のことを名前で呼んだのは初めてだった。年下の、幼い少女を呼ぶのならそれでもよかっただろう。しかし彼女を子どもではないとするなら、名前で呼ぶのは無礼なことのようにも思えた。
 しかし、あかり本人は特に気に留めた様子もなく、早良の言葉に大きく頷いてみせた。
「はい。同じところに住んでいるようだとは存じていましたけど、こんな風にお会い出来るなんて、ちょっとびっくりです」
 その通りだと早良は思う。酷く驚かされた。お蔭で喉から声が出ず、挨拶さえ上手く言葉にならない。
 二度と会いたくないと思っていた相手が目の前にいる。その事実に、早良はやはり動揺していた。そして動じさせられながらも、不快に感じてはいないということにも驚かされていた。
 あかりは不意に、あ、と声を上げた。それから眉尻を下げ、こう尋ねてきた。
「あの、早良さん。いきなりですみませんが、道を教えていただけませんか」
「道……ですか?」
「はい」
 と答えた後、あかりは苦笑してみせて、
「実は、これから部屋に帰るところなのですけど、道がわからなくなってしまったんです。この辺りはほとんど来たことがなくて、夜出歩いたことも全くなかったので……」
「ああ、そういうことですか」
 得心した早良は、しかし怪訝に思った。夜出歩いたことのない彼女が、どうしてこんな時間にこんなところをうろうろしているのだろう。手紙に記されていた住所を早良は覚えていた。確か、彼女の住んでいる辺りは市内の外れの方にある住宅街で、ここから帰るにはいささか時間も掛かってしまうはずだ。
 早良の疑問を見抜いたように、あかりは語を継いだ。
「今日は、人に連れてきて貰ったんです。新歓コンパ、だったんですけど」
 そう口にした時、彼女の表情が翳った。
 何かを思い出すように笑みを消し、気まずげに視線を落とす。たった一瞬見せた表情が、印象に残った。上郷で過ごした夜、星を見ながら言葉を交わした、その合間に見せた翳りと、同じものだった。 
 彼女の表情が翳った理由を、早良は問い質すつもりはなかった。人に連れてこられたはずの彼女が一人で帰途に着こうとしている理由も、一般的なコンパの終了時刻には、今時分はいささか早いという事実も、気に留めないようにした。何となしに察してはいたが、どうでもいいことだ。
 次の瞬間には、あかりも笑顔を取り戻してみせた。
「まだバスの路線なんかもよくわからなくて、どう帰ったらいいのか、迷っていたんです。電車で帰ろうと思うので、駅の場所を教えていただきたいのですけど……」
 彼女がそう切り出した時、早良は迷った。道を教えたところで、彼女を夜の街に放り出しておくのはどうかと思われた。ふらふらと街中をさ迷い歩く田舎娘を、放っておくことは出来そうにない。
 いや、これは口実だ。気乗りしない同窓会から逃れる為の、うってつけの理由だ。それ以上でもそれ以下でもなく、望まない相手との再会にも、利用してやるとの思いしかない――言い聞かせるように早良は心の中で繰り返す。
 そして遂に、言った。
「それでしたら、お送りしますよ」
「え?」
 あかりが目を瞠った時、引けないと思った。
「今日は車で来ているんです。道がわからないのでしたら、あなたの部屋まで送って差し上げます」
「いえ、でも……申し訳ないです。そこまでしていただかなくてもいいのに」
 彼女は慌てたようにかぶりを振った。しかし、早良もかぶりを振り返し、やや強い口調で告げる。
「未成年の方をこんなところで放り出しておく訳にも行きませんから。あなたに何かあっては、あなたのご両親や弟さんにも顔向け出来ません」
「そんな、大丈夫ですよ。何も起こったりしませんから」
 苦笑するあかりに、更に重ねて申し出ようと、早良は次の言葉を考えた。

 しかし、そこに。
「――早良くん」
 史子の声がして、早良は振り返る。
 グレーのワンピースを着た史子が、ヒールの音を鳴らしてこちらへと歩み寄ってくる。途中で、早良の傍らにいるあかりに気付いたのか、立ち止まり、瞬きをしてみせた。
「早良くん、こちらのお嬢さんは……お知り合い?」
 目を向けられたあかりが、迷うように早良を見る。挨拶をすべきかどうか考えたに違いない。その必要はないと、早良は即座に答えた。
「ああ。仕事の関係でお世話になった先の、お嬢さんなんだ」
「そう……」
 まだ怪訝そうにしている史子に対し、
「志筑さん」
 口を挟めぬよう、素早く言葉を継ぐ。
「今日の同窓会、やっぱり出られない。済まないな」
「どうして? そんな、急に……」
「こちらのお嬢さんを送っていかなくてはいけないんだ」
 驚きのあまり口元に手を当てた史子に、ごく平然と言った。
「だから申し訳ないが、今日はこれで失礼するよ。皆によろしく伝えて欲しい」
「え、ええ……でも……」
「じゃあ、また」
 早良は会釈をして史子に別れを告げると、あかりの方へ向き直る。そしてわざと事務的な口調で促した。
「では、お送りします。参りましょうか」

 あかりは事態を掴めぬ様子で、しばらく早良と、呆然とする史子とを見比べていた。
 しかし早良が踵を返し、ビルパーキングへと歩き出すと、慌てて追い駆けてきた。
 敏捷な足取りで程なく追いついたあかりは、早良のすぐ背後から声を掛けてきた。
「あ、あの、よろしかったんですか? 早良さんは今日、同窓会だったんですよね? なのに」
「構いません」
 早良は振り向きもせず、突き放すように応じた。
「道に迷った子どもを、こんなところへ放り出しておくことは出来ませんから」
「……すみません」
 本当に申し訳なさそうな声が背中に聞こえ、早良はなぜか苛立ちを覚えた。
 口実として利用しただけとは言え、もう少し言いようがあったのではないかと思う。こう告げれば、あかりが責任を感じてしまうとわかっているのに。少なくとも子どもに対する態度ではないと、早良自身も自覚していた。
PREV← →NEXT 目次
▲top