Tiny garden

軌道(6)

 上郷に静かな夜が訪れた。
 春先の、しんと冷気が忍び寄る宵の内。
 こじんまりとした旅館の客室の一つで、早良は書類と向き合っている。
 夕飯は済ませていた。宮下姉弟によく似た女将が、部屋に運んできた食事を片付けたその後は、卓上に書類やら資料やらを並べて仕事に没頭していた。
 雄輝たちと約束した以上は、反故にも出来ない。古い方の公民館について、残していく為の手立てと必要なものを考えてやらなくてはならなかった。とは言え、半日年休の現在でさえ仕事に没頭する早良は、いつよりも満ち足りた思いを抱いていた。
 元より、仕事中毒と周囲には囁かれていた。確かに仕事が好きだった。働くのが好きだった。仕事に没頭している間は、自分の存在意義を見出すことが出来た。誰かに評価されることに喜びを覚えた。何よりもはっきりと結果が示されるこの仕事が、早良は好きなのだと自覚していた。
 今も、窓の外も見ず、一心にペンを走らせ、電卓を叩いている。
 仕事の他に好きなもの、好ましいものを見つけることが出来ずにいた。仕事以上のものがこの世にあるとは思えなかった。上郷の景色には惹かれたが、それとて言ってしまえば仕事の延長線上にある思い。この心に、他のものが入り込む隙はないだろうと自覚している。あったとしても、そんなものにみすみす侵入を許すような早良ではなかった。

 その客室のドアが、不意にノックされた。
 早良ははっとして、直後眉を顰める。こんな夜分に、部屋を訪れるのは誰だろう。心当たりはない。同じ旅館に工事関係者も宿泊しているのは知っていたが、わざわざ部屋まで訪ねてくる理由があるとも思えない。
 眉を顰めながら立ち上がる。既に湯浴みを終えてスウェットに着替えたところだ、訪問者は歓迎しない心持だったが、無視をする訳にもいかないだろう。
「はい」
 ドアの向こうへそっと声を掛けると、すぐに反応があった。
「あ、俺、俺」
 聞き覚えのある子どもの声――間違いなく、宮下雄輝のものだ。
 家業がこの旅館なのだから、夜分に館内をうろついていることは納得が行く。だが、仮にも客の部屋まで尋ねてくるとはどういう了見なのか。早良は呆れながらも鍵を外し、重いドアを引き開けた。
「どうしたんだ、君」
 早良の硬い声色を気にした風もなく、ウィンドブレーカーを着込んだ雄輝はにっと笑んでみせた。
「なあ、今から出られる?」
 気安く唐突な問いだった。
 思わず早良は瞠目する。
「今からだって?」
 しかし雄輝はやはり平然として、頷いた。
「そうだよ。早良さんを、連れてきたいとこがあるんだ」
「こんな夜分に、どこへ行くつもりなんだ?」
 内心うんざりしながら尋ねると、雄輝は満面の笑みになる。
「星を見に!」
 その言葉に、一瞬、早良ははっとする。
 そう言えば、見ていない。せっかく上郷で夜を過ごすと言うのに、星空をまだ見ていない。仕事に取り掛かることに夢中で、窓の外を眺めることを忘れてしまっていた。
 雄輝はうきうきとはしゃいだ様子で、自ら語を継いだ。
「いいところがあるんだよ。星がどこよりもきれいに見える場所。上郷で一番、星がよく見えるところなんだ。そこに連れてってやるよ」
 誘い自体は、なかなか魅力的なものに聞こえた。
 しかしその相手が雄輝ともなると、すぐには首肯出来ない。
「君は、こんな遅くに出歩いていいのか?」
 早良の常識からすれば、考えられないことだった。まだ義務教育の子どもがこんな時間に家を出て、外をうろつくなどと言うのは。躾の厳しい家庭に育った早良は、子どもを連れ歩くことには抵抗があった。
 だが雄輝は、むしろ幾分怪訝そうに答える。
「大丈夫だよ。そんな遠く行く訳じゃないしさ」
「しかし……」
「いいんだってば。旅館のお客さんをお薦めスポットに案内してあげるだけなんだし!」
 胸を張った雄輝が、すぐに有無を言わさぬ調子で続けた。
「そうと決まれば、遅くならないうちに行こうぜ。あ、外は結構寒いから、ちゃんと着込んでった方がいいかもな」
 まだ行くとも言っていないのに。早良は心中密かに呆れ返った。
 それからふと気が付いて、雄輝に対し尋ねてみる。
「君、どうして俺を――いや、私を誘いに来たんだ」
「だってあんた、星が好きなんだろ」
 雄輝の回答は明快だった。
「だからとっときの星空、見せてやろうと思ってさ。お礼って奴だよ、お礼」
 そう答えて、雄輝はふと気付いたように声を潜める。
「あ、姉ちゃんには内緒な。宿帳見て、あんたの部屋まで押し掛けたって言ったら、絶対怒るから」
「……わかった」
 早良は唖然としたが、結局、誘いを断らなかった。
 こんなきっかけでもなければ星空を眺める機会もない。――休暇を取ったところでそうなのだから、ここはあえて仕事も放り出し、雄輝の後について行こうと決めた。元々、その為の今夜の宿泊だったはずだ。

 雄輝を見ていると、不意に懐かしさが込み上げてくる。
 早良にも当然のように少年時代があり、仲の良い子らと遊んだ記憶もあった。あの頃はまだ自分の生まれや家庭環境、父親の姿などを考える必要もなく、同じように誰にもそれを指摘されることがなかった。皆、分け隔てなく接してくれた。子供心にも気楽で、愉快で、居心地のいい付き合いだった。
 それが成長するうちに変わってしまった。皆は早良の身の上を知り、それにどのような意味があるのかを知るようになる。そして純粋な友情は失われ、損得勘定によって衝き動かされるようになる。媚を売る者、擦り寄る者、僻む者――どれもこれもが疎ましい顔をして、早良の周りに溢れていた。
 雄輝の態度は過去を思い出させるようで辛くもあり、懐かしくもあった。彼の態度がまだ純粋なものであることに、早良は物憂さを感じている。どうせそれも、いつかそのうちに失われてしまうものだ。

 早足で歩く雄輝の背を追い、旅館のロビーまで辿り着いた時だった。
「げっ」
 不意に先を行く雄輝が足を止めた。棒でも突っ込まれたように背筋を伸ばし、びくりとする。
 早良も歩みを止める。そして雄輝の視線の先を見て、すぐに気まずい思いを抱いた。
 ロビーには、あかりがいた。ちり取りとほうきで掃除をしている彼女の姿があった。彼女はさっと顔を上げ、雄輝と早良に気付くと、訝しげにしてみせる。
「あれ? 雄輝……と、早良さん」
「ね、姉ちゃん……」
 雄輝は何かを問われる前に、ぎくしゃくと姉から顔を背ける。逆にその態度がわかりやすく、たちまちあかりは眉を逆立てた。
「どうしたの、こんな夜遅くにお客さん連れて」
「ど、どうしたって、別に」
 もごもごと答える雄輝は、既に劣勢だ。
 そぶりの怪しさに気付けぬはずもなく、あかりが嘆息する。
「まさか、お客さんの部屋に押し掛けたんじゃないでしょうね」
「してないよ。してないってば」
 そう言いながら、雄輝がちらと早良を見遣る。助けを乞う眼差しだった。
 それで早良も、気乗りしない思いで口添えをする。
「こちらから雄輝くんにお願いしたのです。星が見たいから、どこか良い場所に連れて行って欲しいと」
 するとあかりは、瞬きをした。
 苦笑いを浮かべながら、そっと早良に告げてくる。
「早良さん、うちの弟のことは別に庇わなくてもいいんですよ。これもいつものことなんです」
「はあ……いえ、庇っている訳では」
「むしろご迷惑をお掛けしているようなら、がつんときつく言ってやってください」
 言えるものか、と早良はこっそり思う。それが言えたらそもそも夕方に公民館まで出向くこともなかった。直接ではないが仕事絡みの付き合いである以上、すげなく接する訳にもいかないのだ、上郷の人間とは。そして、その中でも宮下あかりは、最も接し方に困るタイプの人間だった。
 しかし早良の内心も知らず、雄輝は姉に向かって言った。
「早良さんの言う通りなんだってば。嘘じゃないよ!」
「本当?」
「本当だって。あんま遅くならないように帰ってくるからさ、――じ、じゃあ行ってくる!」
 話を切り上げようとした雄輝が、早良の背を押し、玄関まで向かおうとした。
 すると、
「待ちなさい」
 案の定、あかりが二人を呼び止める。
 そして、早良が意外に思うほど、明るい声でこう言った。
「そういうことなら、私も一緒に行くから」
「ええっ!」
 あかりが言うが早いか、雄輝は抗議の声を上げ、早良も心中穏やかではなくなる。
 苦手だと思っていた。大人の顔も子どもの顔も持ち合わせた彼女は、またどちらでもないようでもあり、接し方に戸惑わされた。まだ出会ってから半日も経っていないのにその思いは既に強く、心の内に根付いている。彼女がついてくるのなら、星を見る時間も穏やかならざる思いがするに違いなかった。
 しかし早良に決定権はない。拒み方もわからない。
 そうこうしているうちに、
「何で姉ちゃんまで!」
「だって、あんたがお客さんに迷惑を掛けないか、心配なんだもの。お目付け役が必要でしょう?」
 あかりはもっともらしく弟をやり込め、早良に向かってはにっこり笑んできた。
「では、私も上に何か着てきます。ちょっとお待ちくださいね、早良さん」
 ちり取りとほうきを手にロビーを飛び出していった彼女を、早良は呆然と見送った。
 昼間の出会いの時と同様、あかりは驚くほど素早かった。
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