Tiny garden

軌道(5)

 古い公民館の前はひっそりとしていた。
 夕焼けの色に染められた白い漆喰の壁。品のいい洋風建築の公民館は、しかし歩み寄ると次第にぼろぼろの姿をあらわにする。大きくひびの入った壁、剥がれかけた屋根、立て付けの悪さがうかがえるドア。
 開け放たれた入り口の前で立ち止まり、早良はその姿を眺めやる。修繕し、保存していく為の費用をざっと見積もる。そしてしばらく後には嘆息する。やはり子どもたちの言い分を聞き入れる訳にはいかない。
 だが――金のことを別にしたならどうだろう、とも思う。この公民館の造形もなかなか美しい。上郷の素朴な風景の中、品よく調和している。目立つこともなく自己主張することもなく、ひっそりとここにあった。丘の上の新しい公民館と、麓にある古い公民館。頭の中で思い浮かべてみると、それは絵になる情景のようにも思えた。
 以前訪れた時には、正直、壊すべきだと考えていた。外見の古びた姿も、踏み入った時のがらんとした物寂しい様子も、新しい公民館が建てばより際立ってしまうだろうと考えた。日中はほとんど陽が差し込まず、暗い館内。打ち合わせの為に足を踏み入れ、館内を歩き回った早良は、薄暗さや軋む床の音にそっと苦笑したこともあった。
 しかし夕陽の中にある姿を見ると、不思議な感慨が込み上げてくる。
 僅かに心が揺れ動き始めたのは、当初から壊すべきものだと考えていたせいかもしれない。それに反対する意見を聞けば、確かに一考すべきかと思うところもある。早良の打算的な性質は、或る意味では柔軟でもあった。

 公民館の中へ足を踏み入れた早良は、ますますその考えを強くする。以前訪れた時には見つけられなかった光景があった。
 射し込む夕日に照らされて、廊下の床がつやつやと輝いている。よく磨かれた木造の床。美しい光沢を放ちながら奥まで続いている。玄関から入ってすぐのところには階段もあり、同じようにつやつやした光を放ちながら階上へ繋がっていた。そして照らし出された館内では、子どもたちが待ち構えていた。
 逆光で表情の見えない子どもたちは、早良の来訪に気付くと、ぱっと素早く立ち上がる。
 いくつ物陰がこちらへと伸びてくる瞬間を、早良は見た。
 見つけた時にはっとした。絵になる情景だと思った。
 ここには、人の姿がよく似合う。人がいるのが相応しい。公民館なのだから当たり前なのかもしれないが、人がいれば、陽が射し込めば、ここはまだ十分に絵になるのだ。
「来たな」
 雄輝が一人、声を上げる。
「お邪魔します」
 早良はゆったりと笑んだ。子どもに相対する場合、あまり気弱な態度を取るつもりはなかった。余裕を見せなければ、幼い連中はそこに付け入ってくるのだと知っている。扱いの難しいことこの上ない。
 雄輝は早良に対し、首を竦めた。
 そして、
「こっち、上がってきて」
 身振りも添えて、階段を上がってくるよう告げた。
 玄関先で早良が靴を脱ぐと、子どもたちはばたばたと足音を立てて階段を駆け上がる。
 床の軋む音が足音に掻き消される。
 階上で歓声のような声も聞こえて、はしゃぐ様子がここまで聞こえてきた。
 小さな靴の散らばる玄関で、自分の靴だけを揃えてから、早良もゆっくりと階段を上がり始める。窓のある踊り場を通り過ぎ、階上へと辿り着くと、二つある会議室の片方で賑やかに影が動いた。
 小さな会議室も、夕暮れの陽に照らされていた。そこに集う子どもたちの影。テーブルや椅子は隅の方に片付けられていて、光る床の上、子どもたちは円を作って座り込む。そこから影が伸びてくる。形も大きさも様々な影が、戸口に立つ早良の足元まで届いている。
 早良は会釈をして、会議室内に立ち入った。

 車座になった子どもたちの輪に加わると、すぐに早良は切り出した。
「早速だけど、君たちに見せたいものがあるんだ」
 持参したアタッシェケースから取り出したのは、大判のプリント写真数枚だ。
 そこに写っているものを一目見ようと、子どもたちがそれぞれ身を乗り出す。
 早良は子どもたち全員の目に留まるよう、写真を広げて輪の中央に置いた。
「天体写真だよ」
 と、説明を加えながら指を差す。
「きれいに、よく撮れてるだろう。これは月だ、クレーターまではっきりと写っている」
 指先が示した白っぽい月の姿を、子どもたちは食い入るように見入る。月面のでこぼこがくっきりと浮かび上がった写真。
「それからこっちは宵の明星――金星だ」
 早良は別の写真を示す。時期が合えば昼間でも見つけることの出来る明るい星は、写真の中でもきれいに写し出されている。
「こちらは木星。縞模様があるのが、ちゃんと見えるだろう?」
 更に次の写真を指そうとすると、すかさず雄輝が口を挟んだ。
「これは、土星だよな。輪っかがあるから」
 彼の指は確かに、土星の写真を指していた。
 暗闇の中にぽっかり浮かんでいる土星の形も、鮮明だ。
「そう」
 早良が満足げに頷くと、雄輝ははっとしたような顔になり、たちまち眉を顰めた。
「けど、これがどういう意味があるんだよ。これとこの公民館が関係あんのか」
 他の子どもたちも一様に――しかし雄輝よりはおとなしい、怪訝な表情を見せる。
 早良はもう一つ頷き、彼らに告げた。
「実はね。これらの写真は、ここ上郷で撮影されたものなんだ」
「え?」
 雄輝がきょとんとし、他の子どもたちも顔を見合わせる。
「この村は星がとてもきれいに見える。他のところよりも特別にね」
 そう言って、早良は笑んだ。表向きは優しく見える笑顔で。内心では、話を早くも自分のペースに持ち込んだことに対する、会心の笑みを浮かべて。
「だからここに天文台を、天文台のある新しい公民館を建てることには意味があるんだ。とても重要な意味が」
「別に星なんて、どこで見たって同じだろ」
 噛み付いてきた雄輝を、軽くいなす余裕もある。
「そんなことはない。この村のようにきれいに見えていることなんて、滅多にあるものじゃないんだ」
 早良は言い、もう一度順番に写真を指で追っていく。
 視線は子どもたちの表情に留め、そっと語りかける。
「『光害』という言葉がある。光の害、と書く。――ここよりも人の多く暮らしている街中では、街の明かりが空を照らしてしまって、星がきれいに見えないんだ。スモッグのせいで空が澄んでいないこともよくある」
 例えば、早良が住んでいる街がそうだ。
 あの街は酷くごみごみしていた。区画整理をする前に、雨後のたけのこのように現れたビル街がバランス悪く街を侵食している。あちらこちらが目映く光を放ち、夜空を見上げる気も削がれる。
 対照的に上郷は魅力的な場所だった。広く澄み切った空と、ごくささやかな建物の数。遮るものもなければ眩し過ぎるものもない。
 場所にはそれぞれ相応しいあり方があるのだ。この公民館も人の姿があることで絵になっていたように、美しく広がる夜空には、ひっそりとした空気がよく似合う。賑々しさも目映さも全く不要だった。
「だけど、上郷は違う」
 次第に熱っぽさを帯びる口調に、早良自身は気付かない。
「この村の夜空は特別なんだ。よそにはない、美しさがある。それをもっともっと多くの人に見て貰いたい。多くの人にこの美しさを知って貰って、美しさを大切にすることを知って貰いたい。だからこそこの村には、天文台が必要だと思うんだよ」
 夜空を眺める機会が欲しいと、早良も切に願っていた。何もかも忘れて、仕事のことも、父親のことも、自分に関わる全てのことをも忘れて、上郷の空を眺める時間が。ここにいれば何もかも忘れられるような気がした。そのくらい強く、この村に惹きつけられていた。
 子どもたちはどうだろう。生まれながらにこの村にいた彼らは、よその空のことなど知らないのかもしれない。この美しさも、当然のものとして受け止めているのかもしれない。上郷の自然の貴さを、価値を知る、今はいい機会なのかもしれない。
「……特別、なのかあ」
 雄輝は、俄かには信じがたいといった様子で嘆息した。
 間髪入れず早良は語を継ぐ。
「そう、特別だ。こんなに恵まれた、天体観測の条件が揃った場所は滅多にない。だからそのことは、この村のことは、君たちも大いに誇るといい」
 上郷を誉めることも忘れない。
 子どもたちは一様にはにかみ、あどけない笑顔を見合わせた。
 唯一、雄輝だけが不満そうな顔を隠さない。
「何となく、わかったけど」
 ぼそりと言って、早良を睨む。
「天文台があったら喜ぶ人がいるってのは、わかったけど。でもだからって、何でこっちの公民館まで壊す必要があるんだ?」
 早良は少年の視線を黙って受け止めた。
 唇を尖らせた雄輝が、言葉を続ける。
「上郷の空が特別だって言うなら、この公民館だって特別なんだ。ここにはたくさん思い出もあるし、皆もずっと長い間大切にしてきたんだ。うちの父ちゃん母ちゃんの結婚式も、じいちゃんの葬式もここでやったし」
「クリスマス会とか、お泊まり会もやったね」
「子ども会の集まりは、いつもここだったよね」
 雄輝の言葉を継ぐのは、他の子どもたち。
 思い出を語るのに躊躇いはないようだった。口々に言う表情は不安げだ。
「何とか壊さないで済む方法って、ないの?」
 単刀直入に尋ねた雄輝を、早良は難しい表情で見据える。
「難しいな。予算の問題がある」
「お金……?」
「そうだ。ここを直すにも、維持していくにも当然お金が掛かるんだ。古ければ古いだけあちこち直す必要があるし、ずっと遺しておくなら尚のこと」
 早良がそこまで言うと、子どもたちは揃って項垂れた。
 雄輝ですらも落胆した様子で、
「じゃあ、どうにもなんないの? 新しい方が建っちゃったら、こっちに回すお金なんてないじゃん」
 と聞いてくる。
 溜息を一つそっとつき、それから早良は切り出した。
「全く何も出来ない訳じゃない」
「えっ?」
 ぱっと顔が上がるのに、呆れる思いも少々あった。
 あまり期待されても困ると、慎重に言い添える。
「先に言っておこうか。君たちの希望を叶える為に、こちらにも出来ることはある。但し、全て叶えることは出来ないし、新しい方の公民館を建てることだけは、どうしても譲れない」
 早良は言い、更に続けた。
「決めるのは君たちだ。君たち、上郷の皆さんだ。古い公民館を壊さずにおくのも、遺しておくことも、出来ない訳じゃないだろう。その為に削る部分もあるだろうし、遺すからには使い道を――公民館としてではない別の使い方を考えなくちゃいけないだろう。何よりお金のことを考えなくてはいけない、だけど」
 子どもたちがじっと聞き入る。
 熱意溢れた目をしている。
「私も考えてみよう。これから先、この公民館を直し、遺していくのにどのくらいのお金が必要になるのか。ちゃんと計算して、村の人たちに知らせるよ。私が出来るのはそれくらいで、その後のことは、君たちが考えるんだ」
 早良は一息に言うと、子どもたちの顔を見回した。
 そして、最後をこう結んだ。
「それでよければ、力を貸すよ」

 持ちかけられた話のどこまでを理解したのか。
 早良が話を結んでからも、子どもたちはしばらくの間、顔を見合わせていた。
 やはりただ一人だけ、雄輝だけがきっと険しい表情をしていた。
 だが、やがて口を開いて、にこりともせずに告げる。
「わかった、それでいいよ。決めるのは俺たちなんだよな?」
「そうだ」
 頷く早良に、雄輝は真っ直ぐな眼を向けた。
「じゃあ、決める。村の皆で話し合って決める。出来る限り遺していけるように、俺たちは皆に言うよ。だから、――お願いします。力を貸してください」
 雄輝が頭を下げた。
 続いて子どもたちが一人、また一人と頭を下げる。
 早良も大きく頷いて、その意思を受け止めた。
 ざっと見積もりを出す必要があるだろう。修繕費と維持費と、それから、この公民館の活用法についての案を。今日はもう仕事をしないつもりでいたが、どうやら仕事からは離れられない運命らしい。
 心中密かに苦笑した時、ふと早良は、誰かの視線に気付いた。

 公民館二階の会議室、その戸口に、あかりの姿があった。
 いつの間に来ていたのだろう。彼女は早良と目が合うと、軽く笑んで会釈をする。雄輝たちはまだ気付いていない。早良は驚きに、一瞬目を逸らした。
 彼女はひっそりとそこに立っていた。夕陽が徐々に鳴りを潜める日暮れ時、名残を惜しむようなオレンジの光に染められた、この空間と同じ色をして立っていた。彼女の影はこちらには届かない。逆に自分の影が届いていることを認めて、早良は居心地の悪さを覚える。
 それでも礼を失しないよう、一瞬の後に会釈は返した。
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