Tiny garden

軌道(4)

 陽が落ちる前に、早良は仕事を切り上げた。
 子どもたちとの約束も忘れてはいない。楽しい気分になることはなかったが、義務感だけで足を向ける。
「お疲れ様です」
 去り際、声を掛けてきた冨安は、その言葉の後で申し訳なさそうな顔をしてみせる。
「本当にすみません、ガキどもの面倒までお任せしてしまうようで」
「いえ」
 早良はかぶりを振ったが、いささか疑問にも思った。
 なぜ冨安が彼らのことを詫びてくるのだろう。昼頃の会話からはさして親しいようにも見えなかったのだが。
 怪訝にした表情が伝わったのか、冨安が言葉を継いだ。
「ガキどもには前々から手を焼いていたんですよ。我々がきちんと注意しておけたら、ご迷惑をお掛けすることもなかったんですが……」
 そういうことか、と腑に落ちる。
 形式的な微笑を浮かべて、早良は応じた。
「お気になさらないでください。私は本当に、これも仕事のうちだと思っています」
「すみません、手の掛かる連中でしょうが、よろしくお願いします」
 ヘルメットを取り、ぺこりと頭を下げる冨安。その後で、更に続けた。
「特に雄輝、あの子はとんだガキ大将でしてね」
 早良の胸裏にも、あの少年のあどけなくもきりりとした表情が浮かぶ。姉とは似ているようで似ていない。あかりの表情はもう少し柔らかで、それでいて変幻自在だった――いや、彼女はもう関係ないはずだ。早良は浮かんだ顔を振り払う。なぜか少し、焦る思いで。
 面に出ない心中の微々たる変化、その合間にも、冨安の言葉は続いていた。
「村の子を率いては無茶なことばかりやらかす。いつか問題になるんじゃないかと思ってたんですがね。まさかあっちの公民館を残せと言い出すとは」
 彼が嘆息するのも無理はない。
 無茶な話だった。旧公民館は既に満身創痍でぼろぼろなのだ。修繕に改装を重ねればまだ残して行くことは可能だ。もちろん、出来ないことはない。だがその為には先立つものが必要となる。過疎の危機を迎えている上郷にそれだけの予算が割けるものかと、早良も思うのだった。
 早良に出来ることはそうない。この村の財政を救うだけの持ち合わせがある訳でもない。せいぜい、あの子どもたちの話を聞いてやるくらいだ。仕事のうちとして出来るのは、そのくらいのことだった。
「ちゃんと話し合ってきますよ」
 と、早良は穏やかさを装って冨安に告げた。
「新しく出来る公民館が、無駄なものだなんて言われないように。彼らにも、ちゃんとわかって欲しいと思いますから」
 ――そうだ。幼くてまだ何もわかっていないような子どもらに、このプロジェクトの善し悪しを決め付けられて堪るか。何としてでもわからせてやらなくては。失敗は許されない。
 早良は内心を押し隠すように息をつく。どうあってもその内心を他人に悟らせることはしなかった。表向きは仕事熱心で、しかし穏やかな気質の青年として、彼らと接することにしている。
「では、失礼します」
 冨安に向かって一礼すると、冨安もお辞儀を返してくる。
「お疲れ様です」
 その言葉にもう一度頷いて、早良は、ゆっくりと夕暮れの丘を下り始めた。

 日が暮れかけた上郷の村は、全体が淡いオレンジに染まりつつあった。
 丘から見下ろす風景の中、広がる田畑の端々までもが同じ淡い色をしている。ぽつりぽつりと立つ民家も、丘と向かい合う位置にある、緑豊かな山並みも。
 足元から伸びる、緩やかに下っていく丘の道もそう。
 道を辿るうちに早良は、景色に取り込まれていくような感覚を覚えた。早良もまた、淡いオレンジの光を浴びている。上郷と同じ色をしている。
 思わず足を止めた。
 早良は、どこかに溶け込むことに違和感があった。自分は決してどこにも溶け込まない人間だと思っていた。よく人目を引くのもそのせいだと思っていた。きっと自分はどこにも溶け込まないような人間なのだと、考えざるを得なかった。
 上郷の風景に惹かれても、この村に取り込まれ、溶け込み、受け容れられて過ごすことはないだろうと、思っていた。
 同じ色に染まる夕暮れの景色は、だから、嫌気がした。懐かしく、心揺り動かされる風景に、今は息苦しささえ覚えている。全てを飲み込むような夕暮れ時があまり好きではなかった。早く陽が沈んでしまえばいいと、早良は思う。
 堪らなく懐かしいのに、そう思えて仕方がない。

 再び足を動かそうとして、ふと、視線が一箇所で留まる。
 向かい側にある山の麓に、村では二番目に大きな建物がある――もうじき三番目になるのだが、今のところは二番目だ。
 古い農家をそのまま利用した、趣きある和風建築のその建物を、早良は資料で見知っていた。
 あれは旅館だ。上郷に唯一、一件だけある旅館。
 そして早良の今晩の宿泊先でもある。
 民宿のような、アットホームな雰囲気の宿だと聞いていた。そういう雰囲気はまさに早良の苦手とするところだったが、あの旅館一件しか選択肢がないのであれば他に手段の取りようもなかった。上郷で夜を過ごしたい、と言う思いを叶えるには。お坊ちゃん育ちの早良には、車内で一夜を過ごすなどと言うことは論外、受け容れ難いことだった。

 おもむろに早良は、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
 ダイアルするのは目に留めている、向こうの山の麓の旅館。予約の際に告げていた到着時刻よりも少し遅れそうだから、その旨を伝えようと思った。
 コール二回で、電話は繋がった。
『はい、旅館みやしたです』
 優しげな女性の声が応えた。
 どこかで聞いたような気がする、と思った。部屋を取った時に応対したのは宿の主人だったから、聞き覚えがあるはずはないのだが――早良は眉根を寄せながらも、静かに切り出した。
「本日予約をしております、早良と申します」
『……あ』
 小さく聞こえた声。驚きのような、微かな声が零れた。
 しかし早良が訝しがる前に、電話の向こうの女性は取り繕った様子で言った。
『ど、どうかなさいましたか』
「そちらに伺う時刻を五時頃とお伝えしていたのですが、少し遅れそうなのでご連絡しました」
『はい、承りました』
 女性はすぐに、どこかほっとした様子でそう言った。
 遅れるから何時に着く、と告げないうちから、だ。
 早良は今度は訝しく思い、言い添える。
「遅くとも六時には伺えると思います。よろしいでしょうか」
『ええ、承知いたしております。何時でも大丈夫です』
「は……あの?」
 どういうことだと問い返す前に、電話の向こうで彼女が、言った。
『あの、私、先程の』
「はい……?」
『姉です。先程ご迷惑をお掛けした、雄輝の、宮下雄輝の姉です』
 声のトーンががらりと変わる。
 聞こえているのは確かに、あかりの声だった。
『姉のあかりと申します。先程は、本当に申し訳ありませんでした。うちの弟がとんだわがままを言って』
 彼女は途端に早口になって、まくし立てるように詫びてきた。
「い、いえ、そんなことは」
 思わず早良も一歩引き、動揺を隠しきれずに答える。
 あの旅館は、あの姉弟の実家だったのか――二人の名字を聞いていなかったので思い至らなかった。上郷は小さな村だが、それにしても狭いものだ。
 もう関わりはないだろうと思っていたあの女性と、こんな形で繋がるとは奇妙なものだと思いが過ぎる。
『早良さんがご気分を害して、うちに泊まらないとおっしゃるんじゃないかって気が気じゃなかったんです。でもそうじゃなくて、本当によかったです』
 電話越しの声が表情を容易く甦らせた。あかりがどんな顔をしているか、察しが付くのが実に奇妙だった。接したのはほんの短い間だけだったのに。
『私どものしつけが至らないのに、こんなことを申し上げるのも何なのですけど』
 と、あかりは年頃にそぐわない口調で言った。
『もし雄輝が言うことを聞かないようでしたら、どうぞ、がつんと言ってやってくださいね。何でしたらお尻をぱちんとやってくださっても結構です』
「はあ……」
 そんなことが出来るか。早良は心中密かに呟く。
 大体子どもと接するだけでも重労働なのに、わんぱく小僧のしつけを任されても困る。それで訴訟沙汰にでもなったら目も当てられない。他所の子に手を上げるなど願い下げだと思った。
『あ、一応私もお邪魔するつもりでいるのですが、念の為申し上げました』
 だから、あかりの次の言葉には、反応が少し遅れた。
「は……、あなたも、ですか?」
 早良は目を瞠り、電話の向こうであかりが、笑うような息を漏らす。
『はい、お目付け役として。あまり早良さんにご迷惑をお掛けしてもいけないですから』
「そうですか……」
 あかりとまた顔を合わせるのが、疎ましいような気がしていた。
 彼女の印象は鮮烈だった。特別風変わりでもないのになぜか記憶に残っている。
 そして接し方に戸惑っている。現在進行形で、早良は困惑している。あかりには、雄輝たちと同じように接してもいいのだろうか。電話で聞く彼女の声は、口調は、子どもではない。だが大人の女のようにも思えない。どう接してやるべきなのか、再び戸惑う羽目になるのかと考えるだけで、疎ましかった。
『ですから、あの、私が言うのもなんですけど遅れていらっしゃることはお気になさらないでください』
 早良の動揺には気付かず、あかりが語を継ぐ。
『それよりも、弟が本当に無礼でごめんなさい。本当にあの子は目上の人に対する態度をわかっていなくて……私からもきっちり言い聞かせましたけど、ごめんなさい。早良さんにお手間を取らせて申し訳ない限りです』
 女の声が告げてくる。隙のない、しかし柔らかく明るい声で。
 電話に出た直後とはまた違うトーンに聞こえた。
 早良は確かに動揺していた。こんなにも接し方に迷う相手は初めてだ。子どもでも大人でもなく、隙がないのに柔らかい。くるくると素早く変化する印象についていくのがやっとで、対応を考える暇さえ与えてくれない。
「いえ、お気になさらず」
 早良はようやくそれだけ言った後、息苦しさを覚えて、無性に気まずく思った。
『ありがとうございます。早良さんが優しい方で、よかった』
 易々とそんな言葉を口にするあかりが、電話の向こうにいるにもかかわらず、ごく近いところまで立ち入られているようだと思えた。

 似ているような気がした。
 あかりは、上郷の夕暮れ時の景色に似ていた。
 無性に懐かしく、早良を取り込もうとするが、馴れ馴れしいまでの距離感のなさが疎ましくて、息苦しくて仕方がなかった。
 初対面の相手にここまで心乱されるのも奇妙なことだ。暮れていく丘の道の上、足を止めた早良は気まずさを募らせていた。
PREV← →NEXT 目次
▲top