Tiny garden

軌道(2)

 三月の空気は澄んでいた。
 山の自然に恵まれた上郷を、早良は気に入っていた。陽の匂いがする空気を胸に満たすと、溜まり込んでいた苦々しさがすっと和らぐ。丘の上まで登っていく足取りも心なしか軽かった。
 今回の出張では、初めて宿泊先に上郷の旅館を選んだ。出張の場合は出来る限り直帰するようにし、それが叶わない場合でも、煩わしさのないビジネスホテルを選択するのが早良の常だったが、何度か訪れた上郷村を、もう少しじっくり味わってみたい思いに駆られたのだ。仕事中毒と囁かれる早良には珍しいことだった。
 だが、それだけ上郷と言う村は魅力的だった。見渡せばぐるりと広がる美しい風景。山並みの一つ一つが手付かずのまま、青々としていて、晴れ渡る空の下で輝いていた。
 まだ失われていないものがここにはある、と思った。

 初めて訪れた時から、無性に懐かしさを覚えた。初めて目にしたのに、どこかで見たことのあるような気にさせられる原風景だった。
 それまで早良にとって、仕事だけが唯一情熱を傾けられる事柄だった。他には何もない。趣味と公言する車も、読書も、映画鑑賞も、全て生きることの煩わしさを一時忘れる為の息抜きにしか過ぎない。それでも仕事にのめり込んでいる時だけは、生きている意味を実感出来た。たとえその『仕事』が、全て父親が周到に敷いたレールの上にあるものだとしてもだ。
 父親の影を疎ましく思いながらも、夢中になれるものがあるだけまだ幸いだと思っている。諦めにも似た思いで、感謝さえ口にする。他人への不信を抱きながらも、早良は仕事に打ち込むことをこの世に生きるよすがとしていた。
 そして傾倒する心を揺り動かす情景に、上郷で出会った。
 磨滅し、疲弊し切った早良の心を、嘘をつけない自然の情景が動かしたのだ。だからこそ早良はこの村の為に働きたいと思ったし、プロジェクトも慎重に練り込んだ思い入れの深いものとなった。

 美しい村でありながら、上郷は過疎の危機を迎えていた。
 元々の主産業は稲作を中心とした農業だったが、近年それだけでは立ち行かなくなっていた。人口は減り、特に若い世代の流出が顕著となっている。近隣の都市までの距離も遠く、訪れる人もごく少ない。そこで村が乗り出したのが、これまであまり着目されていなかった観光の分野に力を入れることだった。
 その目玉の一つとなるのが、現在建設中の新公民館だ。

 早良は現場主任の冨安と共に、丘の上にある建設現場に足を踏み入れた。現場は土と砂埃の匂いが立ち込めており、すぐ傍まで近付けば耳が痛くなる騒々しさだったが、早良には当然、慣れた環境だった。
 ヘルメットのベルトに指を掛けながら、早良は冨安の説明を聴く。上郷村新公民館の建設は全て計画通り、順調に進んでいるようだ。まだ作り掛けの建物を仮設足場越しに見遣りながら、早良は計画書に載せていたCGの公民館の姿を思い浮かべる。ビジョンとして重なる三階建ての公民館は、上郷の風景に調和する、素朴で品のある白亜の建物だった。観光の目玉として人を呼ぶ材料にもなる、と確信していた。
「頑張ってますよ。それはもう、夏休みシーズンに間に合わせなくてはいけませんからね」
 冨安は冗談めかした口調で言い、早良はそれに合わせて笑んだ。
「おっしゃる通りです。上手くすれば今年の夏から人を集められるでしょうから」
「ええ。いえね、昔っから言ってたんですよ。上郷はそっちのファンの方々にも人気のあるところらしくて」
 と、冨安は騒音にも負けじと声を張り上げる。
 そう言えば彼は上郷の生まれだと聞いていた。早良は軽く眉を持ち上げ、騒がしい中から冨安の言葉を拾う。年長の相手への礼儀として。
「せっかくだからもっとよく眺められるように、施設でも作った方がいいんじゃないかってね。天文台が出来れば、きっといい呼び水になりますよ」
 視線を上げると、現場の上空も抜けるような青空。
 夜の星空の美しさも、きっと素晴らしいものだろう、と早良は思う。
「夏休みと言えば、流星群がよくてね」
 飾らない口調の冨安が、しみじみその名を口にした。
「ご覧になったことありましたっけ。ペルセウス座流星群」
「いえ。資料で写真を拝見したのみです」
 早良はかぶりを振った。
 ペルセウス座流星群と言えば、三大流星群の一つだ。日本国内でも比較的観測が容易だと言うこともあり、広くその名が知られている。夏休みの時期に現れる為、観光の目玉としてはまさにうってつけだった。
 新公民館の建設計画書には、そのペルセウス座流星群の天体写真も添えられていた。上郷で撮影された写真の中、流星群は明るく、美しく輝いていた。遮るものもない夜空に流れる星々を、直に観たことがないのは残念だと、早良は思った。
 冨安も、同じように思ったようだ。眉尻を下げてこう言った。
「それはもったいない。今年は是非ご覧いただきたいですよ。この空にね、星がぽろぽろ、素早く落ちていくんですけどね。それはもう、きれいでね。私は星のことはよくわかりませんが、とにかく素晴らしい。こりゃあ大勢の人に見て貰わんとと思ってたんです」
 ジェスチャーを交えて、ごつごつと骨張った手が宙を動く。ちょうど、新公民館が建つ丘と、向かい側にある小さな山との間を示しながら。
「そうですね。一度、拝見したいものです」
 早良は控えめに、しかし胸の高鳴りを覚えながら頷いた。
 再び建設現場に視線を転じれば、自然と最上部に目が留まる。
「天文台が出来れば、天体観測もより親しみ易いものとなります。この村の活性化にも繋がるでしょう」

 新公民館は三階建てで、天文台が新設されることとなっていた。
 上郷の星空の美しさをより前面に売り出す為の施設だ。計画通りに行けば、完成は夏休みシーズンの直前、ペルセウス座流星群の時期にも間に合う。
 だから、建設工事に遅れは許されなかった。早良は足繁く上郷へ通い、現場を見て歩いている。勤務先の本社や居住地からはかなりの距離があったが、仕事の為ならそれも厭わない。そして上郷の美しさにも惹かれたからこそ、早良の熱意は今までになく強まった。

 その熱意は現場にも伝わっている。
 冨安は皺のある顔をくしゃくしゃにして笑った。
「お蔭様で計画には滞りもなく、上手い具合に進んでますとも。まあ、任せておいてください。とびっきりの新公民館を打ち建ててみせますから」
 おどけたような台詞に面白味は感じなかったが、早良は少し、口元を緩めた。
 礼を失しない反応は心得ている。冨安が信用に値する男かは知らなかったが、少なくとも仕事の面では頼りに出来ると考えていた。仕事上の付き合いは大切にしなくてはならない、せめて表向きだけでも。割り切ることが出来るだけの分別は持ち合わせているつもりだった。
 となると、父親の思惑通り、志筑史子のことも大切にしなくてはならないのかもしれないが――早良は浮かんだ優しげな顔を、すぐに脳裏から追い払う。彼女に関してはまだ、割り切る気にはなれない。疎ましいものはやはり、疎ましかった。
 早良が思わず溜息をついた時だ。
 急に、冨安が顔を顰めた。普段は愛想のいい初老の男も、怒りを見せれば厳つさが強調される。その険しい顔付きは、早良の肩越しに向けられた。
「こらっ、お前たち! 入ってきちゃいかんと言ってるだろう!」
 冨安の怒鳴り声を聞き、早良は振り返る。
 ヘルメットを指で持ち上げると、すぐ真後ろまで近付いていた小さな影を認めることが出来た。

 小学生くらいの子どもが、七人ばかり。あどけない顔立ちに、怯えの表情を浮かべている。じっと強い視線を早良の方へと向けている。
 そのうちの一人、一番体格のよい少年はむしろ怒りの滲む眼差しをしていた。彼だけが怯えた様子も見せていない。冨安の怒声すらものともせず、叫んだ。
「そこの人、話がある!」
 早良は黙って、叫んだ少年を見下ろす。
 真っ直ぐな目を向けられると、さすがに困惑した。話とは何のことだろう。
「危ないから入ってくるなといつも言ってるのに! ほら、出て行きなさい!」
 怒鳴り返した冨安の声に、子どもたちの中で一番華奢な少女が、おずおずと口を開いた。
「ほら、雄輝くん、怒られてるよ。ここじゃないとこで聞こうよ」
 雄輝、と言うのは体格のいい少年の名前らしい。少女は少年の手を引こうとしたが、少年はあっさりとそれを振り解いた。そして真っ直ぐな目を冨安に向ける。
「おじさんは黙ってて! 俺たちはこっちの人に用があって来たんだ!」
「何が用だ。この方はお忙しいんだ、お前らの言うことは聞かん」
 冨安はそう答えたが、早良はちらと子どもたちの顔を見てから、そっと冨安に尋ねた。
「この子たちは?」
 困惑の色濃い表情で冨安が答える。
「村の悪ガキどもですよ。とにかくやんちゃな連中で、現場辺りをうろちょろしては何やかやと言ってくるんで、困り果ててるんです」
 早良は訝しがりながら、子どもたちの顔を眺めていた。
 自分に用事があると言うのは、何のことなのだろうか。見ている限り、本当に話があるのは雄輝と呼ばれた少年だけで、後の子たちは引っ張られているだけのようでもあったが。
 少し考えてから、早良は口を開いた。
「話と言うのは、何かな」
 見下ろす視線を少年に定めると、少年は一瞬、気圧されたように口を噤んだ。しかしすぐにきっと眉を逆立てて、言った。
「公民館を壊しちゃうって話。止めて欲しくて来たんだ」
「公民館? 麓にある、古い方のか?」
「古くないっ!」
 言葉尻を捕まえるように少年は怒鳴り、
「まだまだちゃんと使えるのに、新しいのなんて要らないんだ! 何で壊しちゃうんだよ!」
 その主張を聞いた早良は、戸惑いの色を隠せない。
 少年の生意気さには腹も立たなかったが、しかし苛烈なまでの主張には、どうしたものかと思わされる。子どもの扱いには不慣れだった。大人と違い、やんわりとした拒絶が通用しない相手だから性質が悪い。
 早良が目を瞬かせていると、不意に隣の冨安が、あ、と声を上げた。
 丘の麓に何かを――誰かを見つけたらしい。
 手を振りながらこう叫んだ。
「あかりちゃーんっ! 君んとこの雄輝くん、また来てるぞーっ!」
「げ」
 冨安の声を聞いて、雄輝少年が顔を強張らせる。

 早良は何気なく、冨安が手を振る方向に目を遣る。
 そして、見た。
 血相を変えた妙齢の女性が、猛然と丘の道を駆け上がってくる姿を。見覚えはない相手だったが、驚くほどの速さで近付いてくる形相は印象的だった。非常に険しい顔をしている。
 長い髪を振り乱し、形振り構わず駆けてくる。
 年若い女性の、あんな姿を見たのは初めてだった。鬼のような形相を目の当たりにしたのも、初めてだった。
 彼女は丘の上、早良たちが立っている建設現場まで辿り着く前に、声を張り上げて叫んだ。
「雄輝っ! あれほど駄目だって言ったのにーっ!」
 工事現場の騒音にも負けない声が、鼓膜をびりびりと震わせる。
 今度は早良が気圧されそうになりながら、しかし横目で、雄輝少年が身を竦めたのだけは確かめていた。
PREV← →NEXT 目次
▲top