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冬の楽園

 雪もあまり降らなくなって来た、冬の終わり。
 それでも日が落ちればめっきり冷え込んで、まだまだ上着は欠かせなかった。

 部活が終わる時刻ともなれば外は真っ暗で、日中の暖かさは影も形も見えない。
 我が写真部は実に自由な気風をしていて、月に一度の『写真部通信』の為に写真を一枚提出したら、あとは何度顔を出そうが、何枚写真を撮ろうが構わないという活動ぶりだった。
 ぎりぎり二桁の部員が全員揃うことは滅多になく、今年度の皆勤賞は部長の早坂先輩と俺くらいのものだ。俺は高校からカメラを始めたから、皆よりもてんで下手だった。だからもっと上手くなりたくて――ついでに早坂先輩に会えるというのもあって、部活の度に顔を出すようにしている。
 それでもカメラの腕はちっとも上がってないけど。

 ともあれ、今日の部活も終わりだ。
 帰り道に吹くからっ風に備え、俺は制服の上にコートを着て、手袋まで填めた。
 コートのボタンは全部留めて、手袋は五本の指がちゃんと入ったかを三回も確かめる。結んで開いて、を繰り返して、しっくり来ないと填め直す。
 そうしてもう、五分近く時間を潰している。
「お疲れ様、清田くん。気をつけて帰ってね」
 部室でのろのろと帰り支度をする俺に、早坂先輩が声を掛けてきた。
 横目で窺えば、先輩はまだ椅子に座ったまま、立ち上がる気配も見えない。くるりとカールした長い髪を人差し指に巻きつけて、どうも手持ち無沙汰な様子でいる。
 どことなく物憂げな微笑が、支度にもたつく俺を見上げた。
「あれ。手袋、サイズ合わないの?」
 小首を傾げて問われれば、頷くより他にない。
「ええ、まあ……」
 嘘だけど。
 こないだ買ったばかりの手袋は、買う時にさえしっかり確かめた。育ち盛りとはいえ、あっという間にサイズが合わなくなるほどじゃない。
 別に手袋のせいでもたもたしているわけでもなかった。

 要は、早坂先輩の動向を気にしていたってだけだ。
 先輩はまだ帰らないんだろうか。さっきからちらちら見てるけど、部室の机の上に置いたコートを着る気配もない。
 部活は終わったし、他の連中は皆帰っちゃったし、今月の『写真部通信』も発行したばかりだ。あえて居残ってすることもないはずなんだけどな。早く帰り支度、始めてくれないだろうか。
 もたもたしているふりをするのも結構大変なんだけどな。

 あわよくば帰り道、途中まででも一緒に――なんて考えていた俺は、やがて痺れを切らして、手袋を脱ぎながら尋ねてみた。
「先輩は、まだ帰らないんすか」
「うん」
 躊躇いもなく早坂先輩が頷く。
 こうもあっさり答えられると、こっちは当てが外れてがっかりだ。
「そ、そうですか……」
「そうなの。鍵を閉めたら返してくるのが部長のお仕事だからね」
 部室の鍵をちりちり言わせて、先輩は笑顔を見せた。
 でもこっちとしては、これだけ待ったんだから食い下がりたい気持ちもある。
「もう暗いですし、付き合いましょうか?」
 鍵の返却先は職員室だと知っていた。校舎にはまだ明かりが点いているけど、外は真っ暗だし、人気もない。先輩を一人にするのは男としてどうかと思う。
 下心ありありなのもどうかと思うけど、とにかく。
「気持ちは嬉しいけど、清田くんも遅くなっちゃうよ」
 早坂先輩は優しい口調で、それでいてきっぱりと答えた。
「電気も消しておくから、あとはこの部長に任せてください」
 胸を張る仕種は可愛かったけど、要は断られたってことだ。
「あ、じゃあ、帰ります……」
「うん。また次の部活でね」
 どこかほっとしたような先輩の声に背を押され、俺はとぼとぼ部室を後にした。

 左手の不自然さに気づいたのは、無人の昇降口まで辿り着いた時だった。
「あれ?」
 手袋が、ない。
 右手はちゃんとしてるのに、左手は素手のままだ。
 慌てて記憶を手繰り寄せれば、そう言えば部室で外していたのを思い出す。先輩を待つ為の時間稼ぎに、脱いだり填めたりしていた手袋。まさかそのまま忘れて来てしまうなんて、ついてない。
 でも考えようによっては、もう一回先輩に会える。
 むしろラッキーなうっかりミスと言えるのかもしれない。これはわざとじゃない。断じてわざと忘れたわけじゃないけど、忘れてきてよかった。
 静かな廊下を走って戻り、俺は再び部室へ向かう。

 写真部の部室に入るのに、ドアをノックなんてしたことはない。
 空き教室をそのまま使っているうちの部室は、ドアももちろん教室と同じ引き戸だった。クラスの教室に入る時にノックなんてしないのと同じように、部室にも一声かけたりせずドアを開ける。明かりが点いていることは窓から見てわかっていたし、まだ早坂先輩がいるはずだと思っていた。
 だから、
「わあっ!」
 飛び込んですぐに早坂先輩の絶叫を聞いた時は、腰を抜かすほど驚いた。
 ――今の声、何だ?

 俺はとっさに視線を巡らせた。
 さっき出てった時と、机や椅子の配置は変わっていない。先輩によく似合う可愛らしいコートも机に置かれたままだ。先輩の鞄は開いていて、その横に、制服の上、つまりセーラー服が無造作に放られている。
 早坂先輩は、細い両腕で身体を隠すようにして立っていた。
 俺を見る目が今までにない厳しく、睨んでいるようだった。そして蛍光灯の青白い光の下で、頬を赤々と燃やしている。そして先輩の両腕は、驚くほどに白かった。
 着ているものが白かった。
 染み一つない白の長袖シャツが、俺の目に眩しく映った。

「着替え中です!」
 鋭い声を投げつけられ、ようやく我に返る。
 どうやら先輩は部室で着替えをしていたらしい。制服のセーラーを脱いだなら、本来ならとても素晴らしい、眼福な姿が拝めるはずだった。
 だけど先輩が曝け出しているのは下着姿ではなく――いや、あれも一応、下着か。
 例えばうちの母さんが着てたような、飾り気皆無で保温第一主義の、白い長袖シャツだ。俺の世代でこういうシャツを着てる女の子なんていないと思ってたけど、いたな。ここに。
「何で、ここで着替えてるんですか」
 俺はぽかんとして尋ねた。
 一方の先輩は上気した顔で叫ぶ。
「だ、だって、もう帰ったものだとばかり思ったから!」
 それにしたってあまりにも無防備すぎやしないだろうか。
「寒いから一枚多く着て帰ろうと思ったの! 見ないで!」
 まあ、先輩の言うことはもっともだ。日が落ちると冷えるから、寒いのが苦手な先輩は一枚余分に着た方がいいだろう。
 だけど普通はセーターを着るとか、じゃないのかな。
 わざわざ下着を持参して重ねる辺り、先輩はちょっとずれてる。
「私、下着姿なんだけど!」
 早坂先輩が黒髪を振り乱して主張した。
 それで俺も目の前の事実をようやく認識するに至って――見た目はどうあれ、下着姿の女の子の元へ飛び込んでしまったのは事実だ。先輩が恥ずかしがってる以上、可及的速やかに出ていくべきなのは俺の方だ。
 そこで、大急ぎで机の上に忘れていった手袋を回収した。
「す、すみませんでした!」
 そして慌てて部室を飛び出す。

 廊下を一息に駆け抜けて、昇降口まで辿り着いてから、思わず深く溜息をついた。
 今のは事故だ。
 偶然の出来事だ。
 とはいえ、先輩はそう思わないだろう。着替え中、ノックもせずに入ってきた俺は、糾弾されても致し方ない。おまけに下着姿を結構じっくり見てしまったし――。
 人気のない昇降口で立ち止まる。
 冷え込んだ空気の中で、心が落ち着きを取り戻していく。
 すると心臓が妙にどきどき言ってることに気づいて、思わず胸を押さえた。俺は、先輩のあんな色気のない下着姿でも、十分すぎるほど平静さを失っていたらしい。いや、だって、下着は下着だろ。
 早坂先輩は、今頃、何を考えているだろうか。
 やっぱり怒っているんだろうか。

 やがて昇降口に現れたコート姿の先輩は、俺を認めるなり精一杯険しい顔をしてみせた。
「見たでしょう」
 低い声で問われて、頷かざるを得ない。
「はい……見ました」
 見たも見た。今更なくらいしげしげ見た。
「私、もうお嫁に行けない」
 早坂先輩は項垂れる。
 きれいな黒髪がはらりと落ちて、その表情にも影が過ぎる。

 お嫁に行けないというのが、下着姿を見られたからなのか、その下着が実用本位の何とも色気のないやつだったからなのかはわからない。
 お嫁に行けない、というフレーズも最近はあまり聞かない。さして露出もない下着姿を見られたくらいでそんなことを口走る先輩の奥ゆかしさをしみじみと実感する。
 どうあれ、俺がそれを見てしまったのは事実だ。
 だから謝るつもりで、先輩をここで待っていた。

「すみません」
 俺は頭を下げて詫びた。
「ノックもせずに入った上、その、見てしまって……」
 先輩は何も言わない。
 身じろぎする気配もない。
「なるべく忘れるようにしますし、どんな罰でも受けます」
 忘れるのは難しいことだけど、早坂先輩が望むならそうする。先輩に『お嫁に行けない』とまで言わせてしまった以上、俺にはそうすべき責任がある。
「本当に、すみませんでした」
 もう一度、重ねて詫びても、先輩は黙っていた。
 そのまましばらく、場には沈黙が流れ続けた。
 気まずい空気だった。俺は頭を上げるに上げられなかったし、先輩の反応を待つしかない。
 嫌われてしまうだろうか。早坂先輩に冷ややかな目を向けられるのは、想像するだけで辛い。何より好きな人に嫌われて、平気でいられるはずがない。

 どのくらい経っただろう。
 ずっと黙りこくっていた先輩が、不意に息をついた。
「……もう怒ってないです」
 驚くほど、穏やかな声で言った。
「と言うか、元々怒るつもりもなかったから」
 恐る恐る視線を上げてみる。
 唇を尖らせ、頬を赤々と燃やし、それでも瞳は困ったように彷徨わせる先輩の顔が見えた。
「ただ、君にあんな姿を見られたくなかっただけで」
 そう先輩が言ったから、俺はもう一度告げた。
「すみませんでした」
「もういいですってば」
 静かな場所に溜息が、やけに大きく響く。
「その代わり、責任は取ってもらおうかな」
 責任。
 向けられた言葉の重さに、改めてはっとする。
 責任を取るっていうのは、――つまり、その。
「ええと、それって」
 俺は顔を上げ、からからになった喉から声を出した。
「その、どうしたらいいんですか、先輩」

 すると先輩はますます困惑した表情になって、忙しなく瞬きを繰り返した。
 それからむくれた様子で、ぼそりと言う。
「……それは、その、……これとか」
 コートのポケットに手を突っ込むと、先輩が何かを取り出した。
 使い捨てカイロだ。まだ未開封。
「これを開けて、いい感じに温めてください」
 目の前に差し出されて、俺は戸惑った。
「え、あの、それが『責任を取る』ってことなんすか」
「そうです。カイロが温まるまで振るのが大変だから」
「そんなことでいいんすか、先輩」
「ほ、他に一体何があるって言うの」
 早坂先輩がちょっとむきになる。

 しょうがなく俺は使い捨てカイロを受け取り、封を切ると、先輩の為にぶんぶんと振り出した。
 でもこれって、いつもの『先輩命令』と何が違うんだろう。
 そもそも責任を取るってこんなことでいいのか。こんな単純なことでいいのか。疑問には思ったけど、いい感じに温まったカイロを握り締める先輩は結構幸せそうに見えたので、まあいいかと思い直す。

「それとね、清田くん」
 カイロを大事そうに持った早坂先輩が、そこで言いにくそうに口ごもる。
「忘れてくれるなら……その方が私としても嬉しいです」
 さっきの下着についてのことだろう。当然、俺も頷いた。
「もちろん忘れます」
 できるかどうかはともかく。
 いや、早坂先輩の為だ。忘れるようにしなくては。
「い、いつもはこんなの着てないんです。冬だけなんです、本当です」
 早坂先輩も必死になるほど恥ずかしそうだ。
 やっぱりああいうシャツは、俺くらいの世代の女の子にとって恥ずかしいものなのかもしれない。
「いつもはもっと可愛いのを着てます。今日はとても寒かったから……!」
「わ、わかりました。先輩、その辺で!」
 先輩の口から『可愛いの』の詳細を聞かされたら、もっと忘れられないことになりそうだ。
 知りたい気持ちもあるけど、やめておこう。
「あ、先輩。よかったら手袋使います?」
「いいの?」
「いいすよ。俺、サイズ合わなくなっちゃったみたいなんで」
 こないだ買ったばかりでサイズもぴったりな手袋は、より細い手の先輩に貸してあげた。
 俺は何か妙に暑かったし、より寒がりな人が使った方が手袋も喜ぶだろう。
「ありがとう」
 先輩はぶかぶかの手袋を填めて、すごく嬉しそうな顔で笑った。

 結局、何だかんだで俺たちは、途中まで一緒に帰った。
 冷え込む夜道を肩を並べて歩く間、早坂先輩はずっと上機嫌でにこにこしていたから、責任は十分取れたってことなんだろう。
 でもって、俺も幸せだったから――やっぱり忘れるの、難しそうだ。
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