menu

執事と羊のスーベニア(2)

 それからというもの、クラリッサのバートラムへの態度は一変した。
 いつものように彼女の姿を求めて歩き回り、ようやく探し当てて笑顔になるバートラムを、少女らしい率直なしかめっつらで迎え撃った。
「何かご用ですか。わたくしにあんなことをしておいて」
 声が震えているのは怒りのせいだろう。それでも精一杯、冷静であろうと努めているのが口調から窺えた。
「君を怒らせたなら済まない。どうしたら許してもらえるかな」
 バートラムが恭しく片膝をついて尋ねると、クラリッサは一瞬だけ困ったように眉尻を下げ、すぐに険しい顔に戻った。
「本当に悪いことをなさったと思っておいでなのですか」
「もちろんだとも。君の白く美しい手に無断で口づけたことは謝るよ。だがそうせざるを得なかった、私の心も察して欲しいな」
 弁解というより、居直り強盗のような平然とした物言いだった。
「考えてもみたまえ。君の手は白百合の花びらのように白く、すらりとしている。蝶たる私が思わず心惹かれて止まるのも仕方のないことだと思わないかね」
 バートラムが朗々と誉め言葉を並べると、クラリッサはむしろ機嫌を損ねたように足を踏み鳴らす。
「そういうお言葉なら結構です。聞きたくはありません」
「花に例えられるのは好みではない? ではこうしようか。君が美しい柳の止まり木、私はその枝で羽を休める渡り鳥だ」
「ですから、そういうことではございません!」
 クラリッサは一喝した。
 どうやらどんな誉め言葉も、あるいは口説き文句にも取り合うつもりはないようだ。バートラムは内心面白がりながら彼女へ流し目を送ったが、目が合えば逸らされるか、さもなければきつく睨まれる。こちらから微笑みかけようものならこれ以上顰められないほど思いきり顔を顰めてくる。それを見たバートラムが『君はしかめっつらも愛らしいな』などと言おうものならたちまち怒りを燃え滾らせ、吠えるように噛みついてくる。
「バートラムさん。あなたがわたくしをからかって、一体何の得があると仰るのです」
 クラリッサはバートラムがちょっかいをかける度に、むきになって咎めてきた。
 しかしバートラムからすればそんなクラリッサが可愛くて堪らなかった。小柄な身体を楽器のように震わせて怒鳴る姿も、赤い髪と同じくらいに頬を赤々と燃やした怒りの表情も、こちらを睨む時に宿る瞳の輝きも、全て酷く魅力的に映った。そうなると彼女を構わずにはいられず、その態度がまたクラリッサの怒りの火に油を注ぐこととなる。
「からかっているわけじゃない。私が誰彼構わず手を取り口づけるような男だと思ってもらっては困るな」
「違いませんでしょう? あなたはそういうお方だと、わたくしは理解いたしましたが」
「違うな、君だからだよ。君の手だからこそキスを贈った。クラリッサ、私の胸に棲みついた女神。このままどこへも行かず、私の胸の内にだけ留まってはくれないか」
 バートラムは自らの容姿が人より整っていることを自覚していた。こうした言葉と甘い微笑みとで婦人を虜にするやり方も熟知している。だがそれもある程度世慣れした婦人ならともかく、たかだが十六歳の、色恋どころか世間すらろくに知らない小娘に通用するものではなかった。
 案の定、クラリッサは軽蔑半分、残りの半分はまず理解が追い着かないという顔で彼を見下ろす。
「どういうおつもりか存じませんが、結構です。私は仕事がございますのでこれで失礼いたします」
 つんと顎を上げたクラリッサが場を立ち去ろうとしたので、バートラムはすかさず前に回り込み、彼女に笑いかける。
「つれないな、君は。愛を語り合う気分でないのなら、せめて今は君の仕事を手伝おう」
「あなたのお手を煩わすこともないでしょう。遠慮させていただきます」
 皮肉なことに、バートラムに言い返すようになってからのクラリッサは、たどたどしかった敬語の扱いにもめきめきと慣れ始めていた。反論の舌鋒も日ごとに鋭さを増し、萎縮したところを見せないようにか背筋もぴんと伸ばし、胸を張った堂々とした立ち姿で相対するようになった。まだ痩せ細ってはいるが、彼女の姿からみすぼらしい孤児時代の面影は失われつつある。
「さあ、わたくしは忙しいのです。そこを空けていただけますか」
 クラリッサはバートラムに向かって手で押し退けるような仕種をすると、わずかに身を引いたバートラムの前をつかつかと通り過ぎていく。
 当然ながら、ここで黙って引くバートラムではない。彼女が目の前を通り過ぎた瞬間、クラリッサの束ねた髪の一房を手に取り、素早く、しかし持ち主にはっきりとわかるように口づけた。
 たちまちクラリッサは跳び上がり、次いでわなわなと震えながら振り返る。
「い、今……いえ、今度は一体何を?」
「そうだな。今度は君の、薔薇に似た赤い髪に止まりたくなった」
 バートラムがそう告げた瞬間、クラリッサがまたしても細腕を振り上げた。
 さすがに二度も平手打ちを食らうバートラムではなく、とっさに後ろへ飛んでかわした。白百合に例えられたばかりの小さな手は虚しく空を切る。それが悔しかったのか、クラリッサは改めてバートラムを睨みつけた。
「そんなに赤くありません!」
 怒鳴るように言うと、ふん、と鼻を鳴らして足音も荒く去っていく。
 どうやら彼女は髪の赤さを気にしているようだ。バートラムはその後ろ姿、こと赤褐色の髪を目に焼きつけながら、満足げにほくそ笑んでいた。
 彼女を構うのが、本当に楽しくて仕方がなかった。

 それからもバートラムはクラリッサにちょっかいをかけ続けた。
 手が空けば彼女の姿を探し、嫌な顔をされようと傍に近づいてあれやこれやと話しかける。無論、彼女の仕事が疎かにならぬよう、時々は強引に手を貸すことも忘れなかった。クラリッサはどんどん扱いに慣れていく敬語でバートラムを迎え撃ち、生来の気の強さで彼とまともに張り合ってきた。それでも仕事を手伝ってもらった際には、不満そうにしながらも感謝の言葉を呟いてくれるので、バートラムはますます調子に乗っては彼女の怒りを買うのが常だった。
 しかしバートラムは彼女を追いかけ回すことに無上の喜びを感じていた。日に日に活力を取り戻していくクラリッサを見ているのは、まさに花を育てているようでとても楽しかった。たとえ彼女から相手にされていなくても、自分の存在が彼女に張り合いを与えているのだと思えば気にならなかった。欲を言えばいつかは――彼女の頬を恥じらいと恋の喜びで赤く染めたいと思っていたが、焦る気持ちはなかった。彼女を孤児院から連れ出した経緯も、彼女が分別をつける年頃までは秘しておこうと考えていた。

 バートラムにとっての唯一の誤算は、その懸想ぶりを見咎める人物がいたことだ。
「――羊を取り押さえたお前でも、小さなご婦人はなかなか捕まえられぬようだ」
 主レスターは蒸留酒をゴブレットに注ぎながら、独り言のような口調で呟いた。
 彼と差し向かいに座っていたバートラムは、瞬間的に口元をほころばせたが、すぐに引き締めた。
「羊は多少手荒にしても、めえめえとしか申しません。しかしご婦人はそうもいきませんので、丁重に扱って差し上げなければ」
 そう弁解するバートラムに、レスターは酒を注いだゴブレットを差し出す。齢六十を過ぎ、商売から身を引いた今となっては好々爺然としたレスターだが、自らの屋敷の中では未だ目を光らせているようだ。良い身なりをした老紳士の顔に、眼光の衰えぬ鋭さだけが異彩を放っていた。
「ご婦人とは得てして羊より怒りっぽいものだ。あまりからかうと噛まれるか、引っかかれるか……痛い目を見るぞ」
 自分のゴブレットにも酒を注ぎながらレスターがぽつりとたしなめてきた。
 バートラムは反論しようとして口を開いたが、レスターが何もかもわかっているという面持ちでいたので、悔し紛れにやり返した。
「旦那様の口からそんな言葉が発せられようとは。あれほど温厚でお優しい奥様をお持ちなのに」
「あれも、昔は手に負えんおてんばだった」
 レスターは懐かしむように笑むと、手にしたゴブレットを軽く掲げた。バートラムもそれに倣い、まずは乾杯を済ませた。
 屋敷中が寝静まる夜更け過ぎ、二人はレスターの執務室にいた。時々こうして夜中に酒を酌み交わすことがあった。レスターの妻メイベルはあまり酒を飲まず、また夫が酒を飲むことを非難こそしなかったが、よく思ってもいないようだった。それでレスターは執務室に小さな酒瓶をいくつか隠しておき、時々バートラムを呼びつけては秘密の酒盛りに付き合わせていた。バートラムも酒が嫌いなわけではなかったから、喜んでお呼ばれにあずかっていた。
「例の、羊が逃げた農園の主と話す機会があってな」
 ちびちびと酒を飲みながら、レスターが何気なく切り出した。
「お前をやけに誉めていたよ。羊を傷一つつけずに取り押さえてくれた、羊の扱いを心得ていると絶賛していた」
「過分なお言葉です。あれはまぐれですよ」
 バートラムは謙遜ではなく、本心から応じる。
 正直なところ、あの羊を無傷で取り押さえようなどという意識はなかったのだ。それどころか彼女に飛びかかるようなことがあれば容赦はしないつもりでいた。
 それに、この辺り一帯の農園主達が自分をどんな目で見ているのかは十分わかっている。
「そうだろうが、向こうからすればこれも何かのご縁、とでも言いたいところなのだろう」
 レスターが短く息をついたので、バートラムは主の次の言葉を察して居住まいを正した。
「お前を婿として迎え入れたいと申し入れてきた」
「ご冗談を」
 バートラムが軽く笑うと、レスターは静かにかぶりを振る。
「冗談ではない。初めてでもないのだし、彼らに跡取りとして熱望されていることはお前もよく知っているだろう。何せその顔だ、こんな田舎で羊や牛ばかり見ているご婦人達がたが熱を上げるのも無理はない」
 農園主の娘達が見目麗しいバートラムに懸想文を送ってきたことも一度ならずある。ただでさえ若者の少ない片田舎の農村において、独身の、しかも有能な美青年が放っておかれるはずもなかった。
 だがバートラムはレスターの傍を離れるつもりはなく、懸想文には丁重な、しかし期待を持たせることのない返事を書くようにしていた。数々の縁談も断り続けてきた。
 それに今となっては、恋をしている。
 彼女はもう眠りについた頃だろうか――赤毛の少女を想い、静まり返る屋敷に耳を澄ませるバートラムに、レスターは尚も続ける。
「これはお前が決めることだ。俺やメイベルに気兼ねすることなく、好きに選ぶがいい」
 その言葉が終わるのを待ち、バートラムは即刻答える。
「では、お断りいたします」
 答えは予想通りだったはずだが、反応の迅速さにかレスターは吹き出した。
「少しは迷ってみせてはどうだ」
「旦那様は私が迷うとお思いでしたか。これまでもずっとお断りして参りましたが」
「いいや。だが、どう生きるのがお前の幸せなのだろうと考えることはある」
 レスターはゴブレットを傾け、一旦喉を潤してから言葉を継ぐ。
「このまま隠棲する俺の執事として暮らしていくよりは、どこかへ婿にでも行った方が幸いかも知れんぞ。お前の才は、あとは死に行くばかりの年寄りの為だけに使い潰すにはあまりにも惜しい」
 それから鋭い眼差しで、検分するようにバートラムを見た。
「あるいは、前にも言った通り商売でも学んでみるか? 今ならまだ俺も教えてやれる」
 レスターが自分を案じてくれている事実はバートラムもよくわかっていた。バートラムもまた、自分を拾い上げてくれたレスターに深い恩義を感じていた。しかし恩を感じる一方で、彼に対してはやや引け目を感じてもいる。それはかつてバートラムが、レスターとメイベルから養子として迎え入れたいという申し出を拒んだことに起因していた。
 バートラムは執事として働くことに不満こそなかったが、食うにも困る生活を抜け出し、平和な田舎暮らしに馴染むうち、自らの先行きを見失いつつあった。自分が何をしたいのか、これからどう生きたいのか、どうしても上手く考えることができない。レスターが案じるのもそのせいで、今は安定した暮らしをしていても、主人夫妻がこの地に骨を埋めた後のことはまるで頭になかった。
「お言葉ですが旦那様、私は今の暮らしに十分満足しております」
 だからそう答えると、レスターは残念そうに肩を竦めた。
「そうか、ならば仕方ないな。縁談も俺から断っておこう」
「何卒よろしくお願いいたします。旦那様にはお手数をおかけします」
「気にするな。今回も断るだろうとは思っていたのだ」
 ゴブレットを呷って一息に飲み干すと、レスターは卓上の酒瓶に手を伸ばし、酔いを感じさせない手つきでもう一杯注いだ。
 注ぎながら急に、思い出したように低く笑う。
「しかし、それで選ぶのがあの小さなお嬢さんか? お前の相手にしては若すぎるのではないか?」
 バートラムもゴブレットを空にしてから、そ知らぬ顔で応じた。
「ときに旦那様。奥様とのお歳の差はいかほどでしたでしょうか?」
 レスターは一瞬目を瞠り、すぐににやりとする。彼の妻メイベルはこの時、まだ五十にもなっていなかった。
「これはしてやられたな。俺も遂に耄碌したか」
「いえ。まだ十分お若いですよ、旦那様は」
 澄まして答えるバートラムを、レスターはしばらく楽しげに、しかし悔しげに見つめていた。
 その後で何か仕返しの言葉でも思いついたのだろう。意味ありげに声を落として、言った。
「それにしても、なぜあの娘を選んだ?」
 誰のことを言われたかは聞き返すまでもない。
 バートラムは慎重に、違うことを問い返した。
「旦那様のお気に召しませんでしたか、彼女は」
「まさか。よく働くし、生真面目ないい娘だ。メイベルがいたく気に入っている」
 レスターは答えた後で、わずかにだけ気遣わしげな顔をした。
「だが初めて見た時は、長くは持つまいと思ったよ。あんなに痩せて、やつれて、顔色も酷く悪かったからな。ここの空気がいいのか、最近では嘘のようにいきいきし始めているが」
 その言葉にバートラムは頷き、
「だからです」
 と続けた。
「彼女がいた孤児院は酷いところでした。彼女を救いたかった。だから選んだのです」
 レスターが無言でバートラムを注視する。バートラムの答え、その額面以上の何かを表情から読み取ろうとしているかのようだった。
 バートラムは淡々と答えを告げた。
「彼女には明るい光の下がよく似合う。あんな暗く、じめじめとしたところには置いておけません」
 かくしてクラリッサは光の下へと連れ出され、少女らしい瑞々しさと活力を取り戻しつつある。彼女からすれば、孤児院を出たと思ったら今度は軽薄な執事につきまとわれて堪ったものではないのだろうが、今はまだ潔癖な少女でも、歳を重ねて美しく成長する頃には、いつかは――こちらの求愛に、そして真意に気づき、受け入れてくれるようになるかもしれない。
 その頃には彼女にも、今はまだ伏せてある真実が告げられることだろう。
「……頑張れと言ってやるべきなのかな。こういう場合は」
 苦笑するレスターはどこか戸惑っている様子だった。真っ白な髪に片手を差し込むようにしてかき上げ、照れた面持ちでバートラムを見やる。
 バートラムは複雑な思いでその顔を見つめ返した。もし自分の父親が生きていたなら、こういう時、こんな顔をしたのだろうとふと思った。
 浮かんだ遠い記憶はすぐに吹き消し、やがて笑って主に答えた。
「旦那様がどう考えておいでかはあえて伺いません。ですから旦那様も、そ知らぬふりをしていただけると幸いです」
「なるほど。確かにその方が動きやすいだろうな」
 腑に落ちた様子でレスターが言った。
「しかしお前も、少しはやり方を考えた方がいい。せっかくあの娘を羊から救ってやったというのに、かえって怒らせたそうではないか。気の強いご婦人に強引なやり方は通じるものではないぞ」
 更に助言の口調で言われて、バートラムは思わず目を瞠る。
 迷い込んできた羊とのひと悶着については主に報告済みだったが、その後のことまで知っているとは。屋敷の中で起きたことは何もかも把握しているようだ。
「さすがのご慧眼には敵いませんね」
 バートラムが肩を落とすと、レスターはようやく一矢報いたというように思いきり笑んだ。
「そうだとも。だからお前に恋人ができたとして、俺に報告をする必要はないぞ。すぐにわかる」
「私が隠していたとしても、ですか?」
「無論だ。隠しおおせると思うならやってみるがいい」
 レスターは自信たっぷりに言い放ち、二杯目の酒を飲み干した。
 その時、彼の両目には商売を続けていた頃と何ら変わらぬ鋭い眼光が宿り、さしものバートラムもこの人の目は誤魔化せぬと苦笑する羽目になったのだった。

 時は流れ、バートラムは八年越しにかつての出来事を思い出した。
 きっかけは妻となったクラリッサが持ってきた、羊毛仕立ての外套だった。
「奥様――いえ、お義母様が、これをあなたに持っていくようにと」
 暗めの灰色をしたその外套には覚えがあった。例の羊があえなく農園へ連れ戻された後、ようやく刈られたたっぷりとした毛で仕立てた外套だった。レスターは例の捕り物とその後バートラムがクラリッサを怒らせた一連の出来事とを大層面白がっていたようで、記念にしたいからと農園の主から羊毛を買い取り、外套を仕立てさせたのだ。その話を聞いた時はバートラムの方こそしてやられたという気分だったが、今となってはただただ懐かしい。
「今のあなたなら遜色なく着こなせると仰っていました」
 クラリッサは外套を掲げながら言い、それから少し頬を染めて、ぽつりと付け加えた。
「わたくしもそう思います。近頃のあなたはとても落ち着いていて、威厳があるように見えますもの」
「私もいよいよ落ち着く年頃か。君と共にいつまでも若くありたいと思っていたのだが」
 バートラムは肩を竦め、恥らう新妻の顔を覗き込もうと屈み込む。
 彼女がおずおずと、上目遣いで夫を見る。
「な……なんです?」
 八年も経てば出会った頃のみすぼらしさはもうどこにも見当たらなかった。今のクラリッサは手足もすらりと伸び、頬はふっくらとして血色がよかった。赤褐色の髪はつややかで美しく、まさしく薔薇の花びらのようだった。そして瞳はいとおしげに、いつもバートラムへと向けられている。そのことがバートラムにはこの上なく幸福だった。
「いや。君の美しさ愛らしさは歳を重ねたからこそだと実感していたのだよ」
 バートラムが囁くと、クラリッサはなぜそんなことを言うのかと困ったように唇を尖らせる。
「あなたは私を誉めすぎです。そういうところは昔と同じ」
「しかし今ではその誉め言葉も嘘ではないと知っている。そうだろう?」
 クラリッサは困り顔のまま黙っている。反論のしようがないと思い、しかし認めるのは少し悔しい。胸中はそんなところだろうか。尖ったままのその唇を指で撫でてから、バートラムは外套を受け取り、袖を通した。
 かつてレスターはこの外套を、大きめに仕立てたと言っていた。彼よりも長身のバートラムに、外套の袖の長さも丈もちょうどよかった。初めから自分の為に仕立てたかのようだった。
 外套を身にまとい、姿身の前に立つ。色味はやや渋いが、三十を過ぎているはずの自分には不似合いというほどでもなかった。顔つきにはまだ若さが残っており、今はそこに幸福から来る穏やかさが滲んでいる。レスターのような眼光の凄みを手に入れられるのはまだ先の話だろうか。
「どうかな」
 バートラムは隣で共に姿見を覗く妻に尋ねた。
 クラリッサは鏡面越しにバートラムと視線を合わせ、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「とても素敵です。品がよくて、仕立てもいいから見栄えもしますし、それにあなたですから……どんな服も素敵に見えます」
「ありがとう。君も私を随分誉めてくれるな」
 その言葉にクラリッサはどきりとしたのか、鏡の中で目を瞬かせた。
 すかさずバートラムは微笑み、
「君は知っているのかな。この外套を仕立てた経緯を」
「え……いいえ。何かあったのですか、この外套に」
 どうやらクラリッサは何も知らないようだ。覚えていないということでなければいいのだが、とバートラムは彼女に語り聞かせる。
「昔、羊がこの屋敷の庭に紛れ込んできたことがあっただろう? 私が君を助けた時のことだよ」
「……そう、そうでしたね、あの時もわたくしはあなたに助けてもらって」
 すぐに彼女も思い出したようだ。思い出した瞬間ははにかんでいたが、直後その表情が気まずげに変わったので、バートラムに平手打ちを食らわせたことまで覚えていたのかもしれない。
「あの時の羊の毛で仕立てた外套だ。旦那様――お父様がそうしたのだ」
「旦那様が? あの時の羊の毛を、そんなにも気に入られたのでしょうか」
 クラリッサが怪訝そうにしている。
「気に入ったのは間違いないだろう。お父様はあの一件をやけに気に入っていらした」
 頷いたバートラムは、暖かな外套の前を開き、その中にそっと妻を招き入れた。彼女をそっと抱き締めながら、当時のレスターとのやり取りをどこまで打ち明けようと考えている。

 恋人ができても報告は要らぬとレスターは言った。
 彼の慧眼はこの先行き、結末まで見通していたのだろうか。バートラムにちょうどよく仕立てられていた外套も、こうしてクラリッサを抱き締めているバートラムの未来を見据えて、思い出の品として作らせたものなのだろうか。
 今となっては聞くことも叶わないが、しかし彼ならばそこまですることもできただろうという気がするのだ。
 そして今のバートラムもまた未来を見据えている。かつては何も見えなかったが、共に生きたいと願う相手ができた。彼女もまた同じ想いを抱き、それをはっきりと伝えてくれる――それがバートラムに幸福と、活力をもたらす。
「君を捕まえるのは羊よりも大変だったよ」
 バートラムが囁くと、クラリッサは面を上げてくすっと笑う。
「あなたはあの羊を大変なんてこともなく、たやすく捕まえていたでしょう?」
「そうでもなかっただろう。私自身は難儀していたように記憶している」
「いいえ、私が人を連れて戻った時にはあっさりと捻じ伏せておいででしたよ」
 クラリッサはそう語ると、瞳を少女のように輝かせ、どこか誇らしげな顔で言い添えた。
「今だから申し上げますと、あの時のあなたは、とても格好よい方に見えました。本当ですよ」
 八年越しの面映そうな告白に、バートラムは驚いてから照れ笑いを浮かべた。
「――やれやれ。我々は案外と、回り道をしたのかもしれないな」

 やり方を考えたほうがいい――レスターはそうとも言った。
 さすがの慧眼であると、バートラムは思わざるを得ない。
<
top