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描くのは、あなたと私の未来(2)

 結婚式を終えたクラリッサは、いつも通りの夜を迎えていた。
 メイベルや他の老いた使用人達がとうに寝ついた夜更け頃、クラリッサは朝食の仕込を終え、朝にする洗濯の支度も済ませた後、屋敷中の窓がきちんと閉まっているかを確かめて回っていた。結婚をしたからといってクラリッサの仕事がなくなってしまうわけではなく、しばらくは小間使いだった頃と同じ仕事をすることになりそうだ。クラリッサとしても慣れない夫人呼ばわりよりは慣れた仕事の方がずっと楽だ。
 ただ、仕事以外の面では既に大きな変化が起きていた。そのうちの一つが服装だ。小間使いに与えられるお仕着せはもう着ることもなくなり、代わりに仕立てたばかりの普段着用のドレスを身に着けている。なるべく簡素な、自分好みの仕立てにしてもらったのだが、それでもこういう格好をして屋敷の中を歩き回るのは慣れないことで、少しだけ気分が浮ついていた。それでなくとも夜更けの屋敷はひっそりとした静寂に包まれており、自分の足音だけがこつこつと響いた。
 三階、二階と廊下を辿って窓を確かめた後、更に階下へ降りると、クラリッサのものではない足音が近づいてくるのが聞こえた。
 見ると玄関の方からランタンを手にしたバートラムが早足で歩いてくるところだった。
 彼もやはり普段着のシャツに着替えており、そしてクラリッサを見つけるとたちまち相好を崩した。
「ここにいたのか、クラリッサ」
 近づいてきた彼が安堵したように言ったので、自分を捜していたのだとすぐにわかった。クラリッサはそのことが嬉しく、思わずはにかんだ。
「窓の鎧戸が閉まっているか、確かめて回っていたのです」
「そうか。台所を覗いてもいなかったから、どこへ行ってしまったのかと思ったよ」
 バートラムは労わるような笑みを浮かべる。
「おまけに朝食の仕込みも済ませていたな。君は相変わらず働き者だ」
「朝食の支度も、今はまだわたくしの務めですから」
 メイベルは就寝前、『明日の朝くらいは軽いものでもいい』と言っていた。結婚式を終えたばかりのクラリッサを気遣ってくれたようだ。しかしクラリッサとしては結婚して早々に怠けることなどできない。小間使いだった頃以上に勤勉な嫁として、この屋敷に尽くし、メイベルに尽くそうと固く誓っていた。ひとまずは明日の朝から義母となったメイベル、そして夫となったバートラムに喜んでもらえるような朝食を作ってみせようと意気込んでいるところだ。
 クラリッサが内心気炎を上げている傍で、バートラムは気にするように尋ねてきた。
「ところで、仕事の方はもう済んだのかな」
「いいえ、まだです。あとは一階の廊下を見て回らなければなりません」
「それでは私も手伝おう。手分けをすれば早く済む」
 そこで二人は手分けをして、静まり返った廊下の窓という窓を確かめて歩いた。窓の数が均等になるよう分担をしたはずだったが、クラリッサが全て確かめるよりも早くにバートラムが戻ってきた。
「こっちは終わったよ。君は?」
「あと二つです」
 あの古びた孤児院の窓とは違い、この屋敷の鎧戸はまだ軋みが酷くなく、クラリッサでも楽に閉めることができる。まして今のクラリッサは十分に成熟した大人だ。折れそうなほど痩せ細った腕をしていた頃とは、何もかもが違う。
 無事に鎧戸を閉め終え、そして振り返ると、背後に立ったバートラムがどこか物珍しげにクラリッサを見ていた。
「……何か?」
 彼の視線が気に障ったわけではないが、クラリッサは思わず尋ねた。
 するとバートラムは軽く笑んだ。
「その新しい服もよく似合っている。君がこの家の人間になったのだと思うと、嬉しいよ」
 クラリッサも微笑んで、窓の並ぶ廊下へ視線を馳せる。
 一人で見て回るには時間が必要なくらい、この屋敷は広く、窓も多い。レスターがメイベルの為に、夫婦の余生の為に建てた終の棲家は、彼らが何不自由なく暮らせるようにとても快適な造りをしていた。夏は風通しがよく、冬は暖房の火が行き渡るように。階段は一段一段が足を高く上げなくても済むよう低めにできていて、張り巡らされた手すりもしっかりとしている。そして廊下に並んだ窓は鎧戸さえ開ければいくらでも日光を採り入れられるようにできていて、暖かい季節にはぽつぽつと陽だまりができるのが何とも心地がよかった。
 今日からはここが新しい家族の棲家になる。そのことがクラリッサにはただただ幸せだった。
 もう初めから与えられなかったものを羨むことも、悲しむことも、嘆くこともないだろう。
「わたくしに帰る家ができたなんて、未だに不思議な気持ちです」
 素直に心情を打ち明けると、バートラムも笑顔で頷く。
「私もだよ。家を持つことなど、もうないかと思っていた」
 気のせいか、彼もほんの少し驚いているように聞こえる物言いだった。
「帰るところがあるって幸せなことですね、バートラム」
「ああ。この家で君が日々私の帰りを健気に待つのだろうと思うと、胸が打ち震えるよ」
 帰る場所があるということは、帰ってくる他の誰か――家族を待つことだってできるのだ。
 それもまた不思議な感覚だった。妻として夫の帰りを待つのは、一体どんな気分がするものだろう。はたして本当に健気に待っていられるだろうか。
 考え込むクラリッサを、バートラムの穏やかな声が現実に連れ戻す。
「クラリッサ。私に幸いをありがとう」
 彼の言葉には測り知れないほど深い感謝と、想いが込められているようだった。
 短い感謝の言葉ではあったが、クラリッサの胸にもゆっくりと染み通り、目頭が熱くなる。
「ありがとうだなんて……わたくしの方こそ。全てはあなたと、旦那様そして奥様のおかげです」
 クラリッサもまた感謝を口にすると、彼に向かって提案した。
「明日の朝、墓前へ報告に参りませんか。きっと旦那様も――」
 と、そこまで言いかけてからバートラムが何か言いたげにしたのを見て、慌てて言い直す。
「いいえ、お……お義父様も、ですね」
「そうだな、いい考えだ。朝食の後にでも行こう」
「ええ。できればお義母様もご一緒に」
 旅を終えてすぐ、三人は無事の帰還を知らせる為にレスターの墓前へと足を運んでいた。その際、結婚についても報告はしていたのだが、式を挙げた今、改めて挨拶をしておきたいと思う。この家を、ここに住まう家族の幸福を守っていくことを誓いたかった。
「そういうことなら、今夜はそろそろ休んだ方がいい」
 バートラムはそう言うと、平然とした口調で続ける。
「では我々の部屋へ行こうか、クラリッサ」
 しかし平然と、ごく当たり前のような言い方をされても、クラリッサはその言葉を聞きとがめた。
「……今、『我々の部屋』と仰いましたか」
「ああ。何かおかしいことでも?」
 バートラムもまた、クラリッサが引っかかりを覚えることも想定済みだというように、大仰に肩を竦める。
「夫婦が、それも未来永劫の愛を誓い合って間もない新婚の夫婦が寝室を別にするなど、断じてあってはならないことだ」
 随分ときっぱり言い切るものだ。クラリッサは戸惑ったが、そういった状況を全く考えていなかったわけではない。そうなるかもしれない、という予感はずっとあった。
 ただ頭で考えていても、いざ状況に直面した時に諾々と受け入れられるものかといえばそうではなかった。
「今夜から、ですか?」
 気後れしたクラリッサが確かめると、バートラムは嬉々として頷く。
「もちろんだとも。既に君の私物は、私の部屋に運んである」
「あ、あなたは、またそういうことをわたくしに無断で……!」
 既に逃げ道を失っていたクラリッサは思わず声を上げかけた。
 だがそれも、彼の端正な顔に浮かんだ微笑によって封じられた。
「そうでもしないと、君は恥ずかしがってなかなか私の部屋には来てくれないだろう? 当然の措置だよ」
 鋭い指摘だった。実際クラリッサは、彼から今夜何も言われなければ、今まで使っていた自室へ戻って一人で休むつもりでいた。とてもではないが、自分から彼の部屋を訪ねていく気にはなれなかった。
 だからこうして捜しに来てもらったことが気恥ずかしくもあり、それでいてそこはかとなく嬉しいのが奇妙だった。
「あなたはわたくしのことをよくご存知ですね」
 クラリッサは悔し紛れにそう言った。
「ああ。それに、新婚夫婦が式を済ませたその晩に喧嘩をするなど寂しいことだ」
 バートラムの物言いは決して責めるようではなく、むしろクラリッサの胸中を全て理解しきっているかのように確信的だった。
「君だって最初の夜に、私と言い争いをしたいと思っているわけではあるまい?」
 笑顔でそう問われれば、クラリッサも首肯せざるを得ない。
「それは当然です。でも……」
「では行こうか。――おいで、クラリッサ」
 往生際悪く反論しかけたところへ、彼の手がクラリッサの手を優しく取った。
 そのまま導かれるようにして、廊下を彼と共に歩いた。

 これまでバートラムの居室に立ち入ったことはある。もちろん掃除をする為だ。
 彼の部屋は他の雇い人達と比較しても広く、かつてのクラリッサは掃除をしながらあの軽佻浮薄極まりない執事には分不相応ではないかと思ったものだった。暖炉がある居室の奥には別間の寝室まで誂えられており、全ての調度は華美でこそないものの洗練された品ばかりが揃っている。そういった扱いも執事という身分を考慮してのことだと、以前までは思っていた。
 バートラムはクラリッサを居室へ引き入れると、室内には見向きもせず一直線に奥の寝室へと向かう。そして寝室の中まで連れ込むと、クラリッサを寝台に座らせてからしっかり扉を閉めた。
 長身の彼に合わせた意外と大きな寝台の上で、クラリッサはすっかり縮こまっていた。寝室には寝台の他に書き物机や本棚、寝台横の傍机などが置かれていたが、そういった調度に目をやる余裕もなかった。膝を抱え込むように座ると、靴底が床から浮き上がり、爪先が不安定に揺れた。
 扉を閉めたバートラムが寝台に歩み寄り、手にしていたランタンを傍机の端に置く。そしてクラリッサのすぐ隣に腰を下ろした。肩が触れ合うほどの近さにクラリッサはびくりとして、思わず腰を浮かせて座る位置をずらし、彼から距離を取る。
 途端、バートラムは心外そうに苦笑した。
「逃げることはないだろう。私は君の夫だよ」
「そ、それは存じております。でもこんなに近いと……」
「緊張する? 何をされるか知っているからだろう」
 尋ねながらバートラムが再び距離を詰めてくる。と同時に触れた手を握られて、その手の意外な温かさに心臓が跳ねた。対照的にクラリッサの手は冷え切っていて、小刻みに震えている。
「緊張は、当然します。こんな時に緊張しないのはあなたくらいのものでしょう」
 クラリッサは俯いた。
 だがバートラムはそれすら許さず、クラリッサの顎に手をかけたかと思うとそっと上向かせた。
「そうかもしれないな。私は緊張どころか、とてもわくわくしている」
 見上げる先にある彼の表情は確かに明るい。青い瞳は期待と予感に輝き、それでいて別の感情も揺らめいている。笑みの形を作った唇からはごく小さな吐息が漏れ、ランタンの光が照らす顔には魅入られたような表情がちらついている。視線を全く逸らすことのない眼差しからは、今日こそ逃がすまいとする強い意思が読み取れた。
「何を楽しみになさっているんですか!」
「何をって……何もかもだよ。君は楽しくないのか?」
「たっ、楽しいなんて言える心境ではありません!」
「それは困るな。君にももっと楽しんでもらいたい。私もその為に心を尽くすよ」
 言いながら、彼はゆっくりと顔を近づけてきた。
 もう逃げられないのはクラリッサもわかっている。いざとなれば、逃げる気さえ失われてしまうだろうということも。
 それを証明するかのように、早鐘を打つ胸にただの緊張や恐怖とは違う、甘く痺れるような感覚が広がっていく。
「あの……本当に今夜はここで、二人で過ごすのですか」
 唇が触れるか触れないかという距離まで顔が近づいた時、クラリッサは震える声で尋ねた。
 バートラムは一瞬動きを止め、何を今更という顔をする。
「嫌かな?」
 即座に尋ね返されて、クラリッサの身体が自然と強張った。
「嫌では、ありません」
「本当に?」
「……ええ。あなたといるのに、嫌なことなんてありませんもの」
 この部屋を出て行く気はなかった。彼の傍にいたいと思っていた。彼が先程、屋敷の中を自分を探して歩いていたとわかった時、メイベルから聞かされた打ち明け話を思い出して心が温かくなった。
 これからも彼は仕事の手が空く度に、この家中でクラリッサを求めては捜し回るのかもしれない。
 これからは、そんな彼を笑顔で迎え入れる自分でありたいとクラリッサも思う。
「でも、少しだけ怖いので……」
 クラリッサは一呼吸の間迷ってから、彼の肩にぎこちなく頭を預け、もたれかかった。
 慣れないことをしたのは、彼にして欲しいことがあったからだった。
「しばらくの間、抱き締めていてもらえませんか」
 バートラムはすぐさまその求めに従い、クラリッサの肩をしっかりと抱いてくれた。今日は彼の方が体温が高いようだ。触れ合う身体は熱いくらいで、寄り添っていると熱がこちらにも移ってくるようだった。
 胸が痛い。動悸が激しいのに、一方で奇妙なくらい心が落ち着いていくのがわかる。
 帰る場所はここだ、と思う。
 彼が抱き締めてくれる腕の中へ飛び込めばいい。逃げる必要はない。怖い時、辛い時、不安で堪らない時、いつでも彼が救ってくれた。クラリッサは安息の場所を見つけたのだ。
 やがて、焦れて待ちきれなくなったらしいバートラムがクラリッサの額に口づけた。唇まで燃えるように熱い。ちらりと盗み見た彼の顔は少し赤らんでいた。
「お顔が赤いです、バートラム」
「前に言っただろう。こんな状況下で、感情を面に出さないようにするのは難しい」
「そう、でしょうね。きっとわたくしだって、同じようになっているでしょうから」
「ああ。君の顔も赤くなっている。それにとても満たされていて、幸せそうだ」
 熱っぽい頬を寄せ合い、焼けつくような唇を重ねると、ためらいはもうなくなった。
 口づけを繰り返しながら寝台に倒れ込むと、クラリッサの耳元で彼が低く囁いた。
「今夜は、酒の力を借りるまでもないみたいだ……」

 翌朝、クラリッサは寝坊をした。
 せっかく仕込みを済ませていた朝食は、バートラムが仕上げてくれたようだ。彼は眠るクラリッサを起こさぬように寝室を抜け出し、そしてクラリッサが朝にするはずの全ての仕事を片づけてくれた。メイベルもクラリッサの寝坊を咎めなかったそうだが、後で目覚めたクラリッサは当然の如く頭が沸き立つほど狼狽し、そしてバートラムに向かって訴えた。
「お、起こしてくださったってよかったでしょう! あなたの目の届かぬところで眠っていたわけでもありませんのに!」
「あんなに気持ちよさそうに寝入っている君を起こすなんて、まるで悪魔の所業じゃないか」
 バートラムはクラリッサを宥めるように片目をつむったが、もちろん逆効果だった。
「起こしてくださらない方が悪魔です!」
「そうかな。君のあの可愛らしい寝顔をそっとしておきたいと思う私の愛情が悪いことだと?」
 その言葉にクラリッサはひとしきりうろたえ、やがてがくりと萎れた。
「だ、だって、夫婦として迎える最初の朝に寝坊をするだなんて……!」
 彼の為に、義母となった人の為に、最高の朝食を用意しようと思っていたのに。クラリッサは愕然としながら遅い朝食を取った。バートラムが仕上げた食事は素晴らしい出来栄えで、クラリッサが作るものに勝るとも劣らないのが悔しい。
「あまり気に病むものではないよ。君が仕込みをして私が料理を作るというのも、夫婦の共同作業というやつだ。悪くない」
 バートラムは悪びれるどころか、この上なく満ち足りた表情でたった一人食事を取るクラリッサを眺めている。
「共同作業と仰るなら尚のこと、わたくしを起こしてくださっても……」
 クラリッサは唇を尖らせたが、彼を責めてもどうしようもないことはわかっていた。彼の隣で眠るのはとても気持ちがよかったし、夜中に一度目覚めた時、彼の腕がそっと自分を抱き寄せてくれたことにも感動していた。その幸福感と安らぎを噛み締めているうちに再び眠りに落ち、次に気がついた時にはとっくに夜も明け、着替えを済ませたバートラムが寝台の中ではなく、傍らに立って自分を笑顔で見下ろしていた――朝の挨拶の代わりに『朝食ができたよ』と告げられて、それはもう一撃で目が覚めた。
「明日はきちんと起きますから。あなたが先に目覚めたら、一声かけていただけますか」
「了解した。しかしどうせなら声ではなく、キスで起こしてと言って欲しいな」
「わたくしが言わなくたって、黙っていてもあなたはそうするでしょう?」
 クラリッサの問いに、彼は黙って口角を上げた。
 遅い朝食を終えると、クラリッサは恐ろしい速さで身支度を整え、バートラムと共に家を出た。早足で向かう先はすぐ近くにある小高い丘、その上に立つレスターの墓碑だ。メイベルは一足先にそこへ向かったようで、慌てて追いかける格好となった。
「急ぎませんと、お義母様をお待たせすることになってしまいます」
「そう焦ることはない。ちゃんと待っていてくれるよ」
 バートラムは暢気なものだったが、クラリッサとしては寝坊の負い目がある為、のんびりとはしていられない。彼に言い返そうと思わず眉を顰めると、それをいち早く認めた彼が口を開く。
「そんな顔もしない。新婚夫婦が式の翌日に早速いがみ合うのだって寂しいじゃないか」
「わたくしも怒ってはおりません!」
「おや、ではどうしてそんなに険しい顔をしているのかな」
「こういう顔でもしていないと、昨夜のことを思い出して、面映いからです!」
 寝坊をして慌てることができたのも、ある意味では幸いだった。夜明けと共に目覚めて、寝台の中にいる彼と顔を合わせていたなら、別の意味で激しくうろたえる朝を迎えていたはずだった。
「存分に思い出せばいいのに」
 バートラムは口笛を吹き出しそうな軽い口調で言い、クラリッサはもはやその顔を直視できずに猛然と歩いた。
 そして丘の上まで登り、墓前に佇むメイベルを見つけた。
 天気のいい日だった。丘の上には今日も眩しい日差しが降り注ぎ、優しい風が吹きつけていた。真っ白な髪を風に揺らしたメイベルが振り返り、息子夫婦を見つけてほっとしたように頬を緩めた。
「あら、おはよう。お二人で仲良く来てくれたのね」
 クラリッサは寝坊の件を詫びようとしたが、メイベルにもバートラムにもやんわり押し留められた。それから三人で、墓前にひざまずき祈りを捧げた。
 祈り終えてから、三人は丘から眼下の景色を眺めた。
 ここからはあの家がよく見えた。落ち着いた佇まいの、赤煉瓦造りの三階建て。街中の聖堂を思わせるような尖った屋根の塔棟と、玄関からテラスにかけてぐるりと巡らされた深いひさし。屋根は黒に近いくすんだ灰色の瓦で、対照的に窓枠や飾り破風は白く塗られている。この地方の伝統に則った建築様式の、しかし建てられてからまだ八年ほどしか経っていない新しい終の棲家だ。
「ねえ、クラリッサ。覚えてる?」
 不意にメイベルが問いかけてきた。
「レスターが倒れた日の朝、わたくしとあなたとで、あの家の煉瓦の話をしたでしょう?」
 それは悲しい別れに連なる忘れがたい記憶だ。クラリッサは頷いた。
「煉瓦に味が出るまで、あと何年かかるかはわからないけれど……」
 メイベルは夢見るような眼差しを、見下ろす我が家へと向ける。
「その時をわたくしが、たった一人で迎えずに済むのは幸いなことだわ」
 クラリッサも積み上げられた煉瓦を見つめ、その時に思いを馳せた。その時自分が、バートラムが、そしてメイベルがいくつになっているかはわからないが、味が出てきた煉瓦の以前との違いに気づける日が来たら、改めて家族で、こうして眺めたいと思う。それまで三人が健やかで、幸福であるようにと願ってやまなかった。
「どんなふうに変わっていくのか、わたくしもとても楽しみです」
 声に出してそう答えた後、クラリッサはすぐ隣に顔を向けた。
 傍らに立つバートラムがこちらを見て、とびきり柔らかく微笑む。日差しの下で彼の青い瞳は透き通っていて、水鏡のように前髪の影を映している。その美しさに見入りながら、クラリッサは胸中でこれから訪れる未来を思い描いていた。
 彼とこんなふうに見つめ合える日々も、できるだけ長い間、幸せに続いていきますように。
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