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描くのは、あなたと私の未来(1)

 旅を終えた三人を待っていたのは、懐かしい佇まいの屋敷と静かな農村の風景、そしてその静けさに似つかわしくない慌しい日々だった。
 屋敷には数人の使用人が残っていたが、さすがに若い者のいない環境下では手入れも行き届かなかったようだ。クラリッサはまず広い屋敷中の掃除に追われ、庭の手入れに勤しみ、そして小間使いとして洗濯や炊事に精を出した。その間に近くの街からお針子が呼ばれてきて、結婚式用の白いドレスと、これからの生活の為の数着のドレスを仕立てる為の採寸なども行われた。
 一方、バートラムはメイベルの正式な養子となり、そして家督を継ぐこととなった。メイベルが一層の穏やかな暮らしを望んだ為だ。メイベルの帰還はいつぞやの悪辣な守銭奴達の耳にも入ったようで、その後も招かれざる客の来訪が何度かあったのだが、バートラムが跡を継いだことが知れ渡るとぱたりと途絶えて静かになった。迂闊に彼を相手取ると煩わしくて敵わないのはクラリッサも十分知っている。金に目が眩んだ者達を追い払うのにも適切なやり方だったのだろう。
 旅の間に宣言していた通り、バートラムはレスターが遺した店で働き始めていた。経営に慣れたらその店を譲り受けることになっているそうだが、彼本人が言うにはかなり筋がいいと言われているそうで、店を継ぐようになるのもそう遠い日の話ではないのかもしれない。しかし問題が一つだけあり、彼が執事を辞めてしまった今、屋敷には執事が不在のままだ。当面はバートラムが仕事の傍らでできるだけのことをするという取り決めをしているが、近いうちに新しい人を雇う必要があるかもしれないという話だった。
 もう一つ、クラリッサも小間使いの職を辞する予定だったが、新しい小間使いを雇うかはまだ決めかねていた。バートラムは新しく人を雇い、少しは楽をすべきだと言うのだが、家事全般に関わるのは奥方も小間使いも同じだろうとクラリッサは思っている。レスターが逝去してから人手が足りなくなった屋敷では家事全般をクラリッサが取り仕切っていたようなものだから、今更誰かの手を借りようとは思わない。金の無駄遣いではないかと言い張り、近々夫になるバートラムを早速苦笑させていた。
 二人の話し合いが平行線のまま一時間ほど続いたところで、見かねたのかメイベルがにこやかに口を挟んだ。
「今はいいけど、子供ができたら誰かの手を借りないわけにはいかないでしょう? 今のうちから信頼できる小間使いを探しておくのもいいんじゃないかしら」
 もっともですと笑うバートラムとは対照的に、クラリッサは頬を染めただけで反論一つできなかった。
 そう遠くないうちに、屋敷には新しい執事と小間使いがやってくることになるようだ。

 そして三人が屋敷へ帰ってから丸一月が経過したある日のこと――。
 クラリッサはできあがったばかりの白いドレスを身に着けて、姿見の前に立っていた。
 お針子を呼び、きちんと採寸した上で仕立てたとあって、ドレスはクラリッサの身体にすんなりと馴染んだ。本繻子の光沢ある生地はほとんど肌を見せない詰襟で、美しい透かし織りの胸飾りがあしらわれている。袖口も透かし織りの生地を幾重にも重ねた華やかな作りとなっていて、その精緻な美しさには思わず溜息が出る。ふわりとしたドレスの裾には銀糸の刺繍があしらわれており、無垢な花嫁をより清廉に見せていた。
 クラリッサは姿見の前でくるくると回ったり、後ろを向いて振り返ったりしながらその美しさを堪能した。いつもなら姿身に映るのはよく見慣れた顔のはずなのだが、今日はまるで知らない相手のように見えた。薔薇色の頬をして、唇に絶えず微笑が浮かんでいる幸せそうな婦人が、華奢な身体に花嫁衣裳をまとい、こちらをじっと見つめている。赤褐色の髪はまだ結われる前で、クラリッサの動きに合わせて夕雲のようにたなびいた。
「とても素敵よ、クラリッサ。こんなに美しい花嫁をわたくしは見たことがないわ」
 メイベルの絶賛の声に、クラリッサは思わずはにかむ。
「ありがとうございます。きっとドレスの仕立てがよいからです」
「そうかしら。どんなドレスだって、着る人次第で美しくも、つまらなくもなるものよ」
 微笑むメイベルはそう言うと、姿見の前に椅子を持ってきて、クラリッサに勧めた。裾の始末に気をつけながらクラリッサが腰を下ろすと、メイベルはクラリッサの赤褐色の髪を櫛で梳き始めた。今までメイベルの髪を結ったことはあったが、メイベルに結ってもらうのは初めてのことでクラリッサは緊張した。
 姿身に映る顔が強張ったのをメイベルも見逃さなかったようだ。
「あら。花嫁がそんなに硬い顔をしていては駄目でしょう。そっと微笑んでいなくちゃ」
「は、はい。なるべく心がけます」
「そうしてちょうだい。さて、花冠を載せるのだから、あまり高く結い上げない方がいいわね」
 メイベルの手がクラリッサの髪を丁寧に編み込んでいく。クラリッサがそわそわしている間に編み上がり、それを首のすぐ上で留めると、頭の上に白薔薇の花冠を載せてくれた。
 赤褐色の髪に咲き誇る薔薇の白さはよく映えた。冠自体は小ぶりにまとめた控えめなつくりだったが、それがクラリッサのほっそりした姿にとてもよく似合っていた。
「確かにね。あなたには、白薔薇の方が似合うみたい」
 姿見に映るクラリッサに見入って、メイベルが納得の呟きを漏らす。
 それからきょとんとするクラリッサに向かって告げた。
「この冠は花婿が選んだのよ。あなたには絶対に白薔薇の方が似合うからって、力を込めて言っていたわ」
 クラリッサ自身、この髪の色には赤い薔薇よりも白の方が色の対比がはっきりと見えていいと思う。花婿の見立てに感心していると、やがて部屋の扉が叩かれて、当の花婿が声をかけてきた。
「支度はできたかな、クラリッサ」
 呼びかけられたクラリッサは返事に迷った。この期に及んで彼と顔を合わせるのが気恥ずかしくなってしまったからだ。それを見抜いたらしいメイベルがくすっと笑ったので、クラリッサも照れ笑いを浮かべながらようやく口を開いた。
「……ええ。おおよそは済みました」
「では中に立ち入っても?」
「構いません。どうぞ」
 クラリッサが答えると、待ち構えていたような迅速さで扉が開いた。慌ててクラリッサが椅子から立ち上がると、花婿の衣裳に身を包んだバートラムが現われ、そして花嫁の姿を目にするや否や深い感嘆の息をついた。
 しかしクラリッサもまた、花婿の装った姿に目を奪われていた。黒い髪を後ろに流したバートラムは形のいい額を晒していて、そこに花婿の証たる金のサークレットが鈍い光を放っていた。端正な顔立ちは前髪を上げていると一際美しく、そして凛々しく見える。花婿の衣裳はやや落ち着いた仕立てで、正装用の黒い礼服を身に着けている。執事として礼服を着る機会は多かった彼だが、花婿らしい丈の長い上着の礼服が彼の長身さ、そして漂う気品をより際立たせ、思わず見とれてしまうほどだった。
 花婿と花嫁は戸口と部屋の中から一歩も動かず見つめ合い、メイベルが笑いを誤魔化すように咳払いをしたのを合図に、ほぼ同時に我に返った。
「よく、お似合いです」
 先に口を開いたのはクラリッサの方だった。
 バートラムは悔しそうに苦笑し、
「君に先を越されてしまうとはな。……ありがとう、君の方こそ今日は、比類なく美しい」
「ありがとうございます」
 クラリッサはすぐに礼を言ったが、照れのせいで彼の顔を直視できなくなっていた。
 見かねたメイベルが、
「わたくしは少し席を外しているわね。司祭様の支度が整うまで、二人きりでいるといいわ」
 と言い残し、バートラムの脇をすり抜けて部屋を出て行く。
 入れ違いで部屋に入った花婿は抜かりなく扉を閉め、それから上着の裾を翻して花嫁の前まで進み出た。
「君は白が似合うな。特にその髪には、白い花が一番よく合う」
 バートラムはクラリッサと正対すると、頬にそっと手を添えて、蕩けるような笑みを向けてくる。
「あなたが選んでくださったのだと伺いました」
 クラリッサも顔を上げ、彼に対し感情込めて微笑んだ。
 それを見て眩しげに目を細めたバートラムが、やがて頷く。
「以前、君の髪に花びらが留まっていただろう。あの時からずっと思っていたのだ、君には赤い薔薇よりも白薔薇の方が似合うと」
「わたくしもそう思います」
 クラリッサも素直に答えた。もっとも実際に似合うかどうかという以上に、彼が自分の為に選んでくれたということの方が肝要なのかもしれなかった。
 この人がずっと自分を、クラリッサだけを見つめ続けていてくれたこと。
 それが今はとても幸福だった。
「私は君の、この姿がずっと見たかった。花嫁として私の前に立つ君の姿をね」
 バートラムは改めて白いドレスのクラリッサを眺め、そう言った。彼は非常に満足げだったが、同時にいくら眺めても飽き足らないというように熱心な視線を向けてくるので、ただ見られているだけでもくすぐったい。クラリッサは首を竦めながら聞き返す。
「花嫁衣裳をですか?」
「ああ。初めて会った時から、君にはドレスが似合うと思っていた」
「まさか。本気で仰っているんですか?」
 初めて出会った頃のみすぼらしかった自分を思い出すと、今でも惨めな気分になるほどだ。クラリッサは眉根を寄せたが、バートラムは揺らぐことなく答える。
「本気だとも。日の光を浴びた君は、まるで薄絹をまとったように美しかったよ」
 そう言ってからクラリッサを優しく見つめ、続ける。
「しかし、もっと美しくなるはずだ、とも思った。あんな陰鬱な場所にいるよりも、もっと明るく温かいところにいれば、君は更に美しい婦人になるだろうと――」
 彼のその言葉は真実になったようだ。
 姿身の中のクラリッサは、今までになく美しい花嫁へと変貌を遂げていた。その変化はクラリッサ自身が実感していたし、満足もしている。そして全ては彼がもたらしてくれた幸福だということも、今まさに噛み締めている。
「あなたのしてくださったことに報いられるだけ、わたくしは、美しくなれましたか?」
 クラリッサが尋ねると、バートラムは満足げに溜息をつく。
「ああ。このまま二人きりで、誰の邪魔も入らぬようにして、黙って見つめ合っていたいほどだ」
「お言葉ですが、それではお式ができません」
「生真面目なところは相変わらずだな、君は」
 バートラムは破顔して、クラリッサの手を取る。
「しかし君の言う通りでもある。式を済ませなければ、君とは夫婦になれないからな」
「ええ」
「私と共に来て、司祭様の前で夫婦の契りを結んでくれるかな、クラリッサ」
「もちろんです」
 間髪入れずクラリッサは頷いたが、ふと気がかりになって語を継いだ。
「でも、何分初めてのことですから。勝手がわからないのがいささか不安です」
「私も初めてだ。しかし大抵の人間はそうだろう。結婚というのはそういうものだ」
 クラリッサの手を握り締めたバートラムが、堪らずといったふうにその手の甲へ口づけた。
 それをいくらかうろたえながらも黙って受け入れると、彼は幸せに満ち足りた顔で目を細める。
「そして人生のあらゆることもまた然りだ。初めてのことを恐れるよりも、楽しむべきだよ、クラリッサ」

 かくしてクラリッサはバートラムと共に、人生初の結婚式へと臨んだ。
 これまでに花嫁と花婿が練り歩く際に花びらを振り撒いて祝福する機会はあった。だが聖堂内で式典に参列する機会はなかった。だから聖堂内で何が行われるのか、花嫁と花婿が何をしなければならないのか、クラリッサはまるで知らない状態だった。いつか立ち寄った港町の大きな聖堂とは違い、農村に建てられたごく小さな聖堂の薄暗い祭壇前で、クラリッサはバートラムと肩を並べて立っている。聖堂の中は深呼吸さえためらわれるほど静まり返っているが、参列者も数人いた。メイベルと屋敷に残っていた数少ない雇い人達、そしてバートラムの仕事に関わる人々が幾人か。クラリッサには参列してもらう相手もいなかったが、メイベルがいてくれればそれでよかったから気にもならない。司祭が手から提げている振り香炉から香の匂いが漂ってくる。葬儀の時とはまた違う、甘さの強い香りがした。
 聖堂での結婚式ではまず司祭が花婿と花嫁にそれぞれ夫婦としてのあり方、手に手を取り合って共に人生を歩むことへの貴さを説く。この説教の長さは事前に積んだ寄付金の多寡に左右される、などと口さがない者達は噂しているが、今回は参列したメイベルが旅行帰りであることを事前に話しておいた為、潔いほど短い説教で済んだ。クラリッサとしてもありがたいことだった。
 それから司祭は花婿と花嫁、それぞれに結婚の意思を、それを生涯貫くことを神の下に誓うかと尋ねてきた。
「生涯貫き通すと誓います」
 張りのある声でバートラムが答えたので、クラリッサも同じように胸を張り、後に続いた。
「誓います」
 この場に居合わせた全ての人に。今日まで自分を傍に、あの屋敷に置いてくれたレスターとメイベルに。
 そして他でもない最愛の人、バートラムに。
 夫婦の誓いを裏切らず、翻さず、生真面目に貫き通すことを約束しよう。
「本日ここに、新たな夫婦が誕生した。二人が互いを想い合い、慈しみ合う限り、神は限りない祝福と慈愛を二人に与えるであろう」
 司祭は二人に小瓶に入った聖水を振りかけ、それから聖堂の外へ出るようにと促した。
「さあ、新しき夫婦を人々もまた待っている。彼らの祝福をその身に浴びながら、人生を共に歩み出すといい」
 聖堂の扉が重い音を立てて開かれると、薄暗い堂内に真っ白な日の光が差し込んできた。目映い光の向こうはまだ見えない。眇めた目では捉えられない。
「行こう、クラリッサ」
 バートラムがそう言って、クラリッサに掴むよう自らの腕を差し出した。
 クラリッサは慣れない手つきでその腕に掴まり、ぎこちないながらも躊躇せずに彼の隣に並んだ。
 差し込む光に向かって顔を上げ、胸を張る。
 この光がかつてと同じように、自分を照らしてくれていることを幸せに思いながら――明るい世界へと、彼と二人で踏み出した。
 小さな聖堂の外には、それでも付近の農園の人々などが新しい夫婦を祝福しようと集まっていた。彼らの前を通り過ぎる度に花びらを振り撒かれたり投げつけられたりするので、クラリッサは物珍しい気分で頭上を舞い、自分に降りかかってくる花びらを眺めた。見上げた広い青空も見下ろすところにある長い道も、未だに懐かしさを覚える農村の風景も、自分が着ている素晴らしい花嫁のドレスも、隣に立つ素敵な花婿も全て、舞い落ちる美しい花びらで彩られている。
 そして二人が帰っていく家も。
「二人とも、おめでとう!」
 一足先に屋敷へ戻り、門の前で待ち構えていたメイベルが、帰ってきた二人に向かってありったけの花びらを振りかけてきた。
 おかげで二人の視界は降りしきる色とりどりの花びらで覆われ、目の前に立つメイベルが一瞬見えなくなるほどだった。クラリッサは思わずバートラムの顔を見上げ、彼がこちらを見て笑うので、一緒になって笑った。
 それから互いに頷き合い、足元に花びらを積もらせたメイベルに向かって、まずはバートラムが告げた。
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします――、お母様」
 たちまちメイベルが鳶色の瞳を瞠る。
 クラリッサも急いで告げた。
「今までありがとうございました。そしてこれから、どうぞよろしくお願いいたします、お義母様」
「……ええ」
 メイベルが、ゆっくりと頷く。
 少し潤んだ瞳で新しい夫婦を見つめてから、言った。
「これからもよろしくね。わたくしの……可愛い子供達」
 その後でやや照れながら、二人の手を取り、呟いた。
「今になって子供ができるなんて、少し前までは思ってもみなかったわ……」
 本日ここに新たな夫婦と、新たな家族が誕生した。
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