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まだ、愛しています(1)

 怪我をしたシェリルを家まで送り届けると、ホリスとその妻は酷く驚いてみせた。
 だが洞穴で見つけた遺体の話は、それ以上の驚きをもって受け止められた。
「どんな可能性も考えられると思っていたのです」
 ホリスは娘の足に湿布を貼りながら、クラリッサたちにぽつぽつと語った。
「どこか遠くへ行方をくらませたのか、それとも森のどこかで行き倒れているのか。我々が手を尽くしても見つけられなかった以上、知ることもないだろうと思っていたのですが……」
 そこまで言うと、ホリスは難しい表情で子供たちを見る。
 椅子に腰掛けて手当てを受けるシェリルが、泣いた後の顔で俯く。右の足首を挫いたらしく赤く腫れ上がっていたが、おとなしく手当てを受けていた。
 その傍を片時も離れないサイラスは、何か言いたそうな顔をして父を見つめる。
 やがてホリスは嘆息し、困り果てた口調で続けた。
「我々大人には諦めがついても、子供たちにはそうではなかったのでしょうね。まさかこんな危ない真似をしていたとは」
「ごめんなさい……」
 シェリルがまた泣きそうな声で謝り、サイラスがすかさず口を挟む。
「でも、見つけてあげないとかわいそうだったから。俺たちが捜さなかったら、おじいちゃんは暗い穴の底でずっと一人ぼっちだったんだ」
「だからと言って危ないことをしちゃ駄目だ。この方たちがいなかったらどうなっていたことか」
 父はそんな子供たちをたしなめ、それからクラリッサたちに向き直って頭を下げてきた。
「娘を助けてくださり、ありがとうございます」
 その言葉にメイベルもバートラムも微かに笑んで頷き、それから二人揃ってクラリッサの方を振り返る。
 クラリッサは二人の視線と、更にこちらを向くホリス夫妻と子供たちの感謝に満ちた眼差しに慌てた。
「い、いえ、わたくしは何もしておりません」
 謙遜ではなく、本心からそう思っていた。自分はとても安全なやり方であの洞穴に潜っただけだ。さながら古い井戸に落とした釣瓶のように、洞穴に下りてシェリルを抱えただけだ。信頼できる命綱はあったし、下りた後は自力で登る必要など何もなかったし、何よりバートラムがいてくれた。彼がいなければ、クラリッサ一人きりではシェリルを助けることなどできなかった。
「むしろ働いてくださったのはバートラムさんでしょう。あなたが引き上げてくださったから、わたくしもお嬢さんもこうして戻ってこられたのです」
 思った通りのことを口にしたものの、バートラムにはすぐさま笑って言い返された。
「しかし私にはあの洞穴に下りることはできなかった。やはり君の功労だよ、クラリッサ。君の勇気ある行動がこのよい結果をもたらしたのだ」
「そんな……」
 分不相応な称賛を受け、クラリッサは思わず睫毛を伏せた。
 純粋な嬉しさよりもくすぐったさが先立つのは、大切に思う人からの誉め言葉だったからだろう。

 ホリスは娘の手当てを終えると、近隣の農場に人手を募りに出かけた。
 件の洞穴から遺体を引き上げる為には、より多くの力が必要だった。男手が要るということでバートラムも助力を申し出、その日のうちに彼らは洞穴へと出かけていった。
 クラリッサとメイベルは一足先に借りた邸宅へと戻り、夕食と湯浴みの用意をして執事の帰りを待った。日がすっかり暮れてしまってから戻ってきたバートラムは、顔も着衣も土埃に塗れていたが、くたびれた様子も見せず湯浴みと着替えを済ませた。そして用意されていた夕食を旺盛な食欲でもって平らげてから、主に事の次第を報告した。
「無事にご遺体を運び出すことができました。そしてあの洞穴は、もう跡形もありません」
 洞穴は男たちが下りるには狭すぎた上、死後から時間の経った遺体を狭い穴を下って、壊さぬよう運び出すのも容易なことではない。そこで一度洞穴を掘り広げ、畚を運び入れられるようにしてから遺体を運び出したそうだ。その後忌まわしい洞穴はきれいに埋められてしまったらしい。不幸な事故が二度と起きないように。
「結局、どういうご事情で落ちてしまわれたかはわかったの?」
 メイベルが尋ねると、そこでバートラムは表情を暗くした。
「熊に追われたのではないかという話でした。着衣の背中部分を鋭い爪に引き裂かれていたのです」
「まあ……!」
 思わず声を上げるメイベルの傍らで、クラリッサも洞穴で見た光景を顧みる。確かにあの服は背中のところが破けていた。鋭利な何かで、切りつけられたというよりは引き裂かれたような破れ方だった。
 ホリスは以前、この辺りにはまず熊は出ないと言っていた。それも、少なくとも彼らの認識としては嘘ではなかったらしい。
「十年ほど前までは熊もいたそうですが、近年はほとんど見かけなくなったと聞きました」
 バートラムは淡々と続ける。
「それでかの老人は、銃どころか、熊避けの鈴さえ持ち歩いていなかった、とのことです。きっと必死の思いであの洞穴へ逃げ込まれたのでしょう」
 もし熊と出会わなければ、何がしかの対抗手段を持ちえていれば、逃げ場としてあの洞穴を選ばなければ――言っても仕方のないことではあるが、不幸な運命が重なった結果の死に、クラリッサも少し打ちのめされていた。せめてこうして外へ出され、これから手厚く葬られることで、その魂に安らぎが訪れればいいと願う。
 クラリッサの表情を見て、バートラムも何かを思ったのだろう。少ししてから厳かに語った。
「ご遺体の下には、遺言と思しきお言葉が残されておりました。明かりのないところで、爪を使って地面に刻んだものですから、読み取れたものはごくわずかでした」
 明かりはもちろん、ペンも紙もないところで彼が遺した言葉とは何だったのだろうか。クラリッサとメイベルが見守る中、バートラムは言った。
「名前だけです。ご家族の」
「名前……? ホリスさんたちと、お子さん方の?」
「はい。ホリスご夫妻と、シェリルと、サイラス。彼らの名前はきっと書き慣れていたのでしょう。はっきりと読み取れたのはそれだけでした」
 少しの間、三人は揃って沈黙していた。
 家族のないクラリッサにも、故人が死の間際に何を思っていたかは容易に察しがついた。わかるようになった、という方が、もしかすると正しいのかもしれないが。
 恐らくは最期まで、大切な人達のことを思い続けていたのだろう。
「……そう。そうだったの」
 しばらくしてからメイベルは息をつき、祈るような面持ちで言った。
「だからなのね。あの子達が危ない真似をしてまでおじい様を見つけてあげようとした理由。きっととても愛情深い、温かなご家族だったのでしょう」
「ええ。見つけて差し上げられたことが、今は唯一の救いです」
 バートラムは頷くと、少しだけ気遣うような眼差しを女主人へと向けた。
「奥様。彼らは明日にでも司祭を呼びに街へ向かい、都合がつき次第葬儀を執り行うそうです。よろしければ我々にも参列して欲しいと」
 その言葉にクラリッサはどきりとした。
 葬儀という単語はクラリッサにとって、まだ古い記憶ではない。むしろ真っ先に失くしたばかりの主のことを思い出してしまう。唐突に訪れたレスターの死、まるで現実味のなかった葬儀への参列、そしてその後に訪れた嵐のように目まぐるしい日々を、クラリッサは克明に覚えている。
 そしてそれはメイベルにとっても、バートラムにとっても同じことだったのだろう。メイベルは伏し目がちになって再び押し黙り、バートラムも思案するそぶりを見せてから、自ら言葉を継いだ。
「奥様のご気分が優れないのなら、私がそのように伝えて参ります。奥様も今日のことではお疲れでしょうし、無理をなさいませんよう」
 葬儀の記憶を誰より克明に持ち続け、そして誰より深く悲しんでいたのはメイベルのはずだ。だからこそバートラムは遠回しに、断ってもいいのだと言うのだろう。
 だがメイベルはゆっくりと顔を上げてから、かぶりを振った。
「いいえ。お声をかけていただいたのですから、参列いたしましょう」
「よろしいのですか?」
 バートラムが確かめる。むしろ彼の方が参列に気乗りしていないという態度に見えた。
「わたくしは平気よ。レスターのことを思い出さないと言えば嘘になるけれど……」
 メイベルは気丈に微笑み、
「でもレスターなら、人の縁は大切にしなさいと言ったはずだわ。これも何かのご縁。わたくしたちも最後までお付き合いして、あの方の魂の平穏を祈りましょう」
 と言ってから、二人の従者の顔を見比べてきた。
「……二人は、平気? 決して無理はしないでね」
 どうやら夫人には従者を気遣う心の余裕さえあるらしい。自分が感傷的になっていてはいけないと、クラリッサは表情を引き締める。そしてバートラムに視線を向けると、彼もこちらを見ていて、目で頷いてきた。
 それでクラリッサの心も決まった。
「わたくしは奥様のご決定に従います」
「私もクラリッサと同じ考えです。奥様さえよろしいのであれば、お供いたします」
 バートラムが後に続くと、メイベルは胸を撫で下ろす。
「そう。ありがとう、二人とも」
 それから苦笑いのような微かな影を唇に閃かせたかと思うと、小さな声で呟いた。
「ごめんなさいね。わがままを言うようで」
 クラリッサは思わず目を瞬かせた。
 葬儀への参列はホリスからの要請であり、メイベルがねだったものではないはずだ。なぜ詫びる必要があるのだろう。疑問が浮かんだが、それを直接尋ねることはできなかった。

 その夜、やはりメイベルは早めに床に就いてしまった。
 もっとも今夜ばかりは、昨日までとは別の理由によるものだろう。クラリッサも昨日までとは違う疲労感を覚えていたが、それでももう少しの間だけ、起きていようと思っていた。
 主のいなくなった居間にはクラリッサの他にバートラムもいた。彼は相変わらず疲れたそぶりも見せずにいたが、横顔は心なしか複雑そうだった。恐らく葬儀への参列について、彼としても思うところがあるのだろう。
「奥様は、本当によろしいのでしょうか」
 二人きりになってから、クラリッサは彼にそう切り出した。
 バートラムは途端に軽く笑み、優しく諭すように応じる。
「奥様はもうお決めになっている。我々が心配しすぎるのもいいことではない」
「それは、仰る通りです」
 クラリッサは渋々頷いた。
「でも旦那様のことを思い出されるのではないかと……わたくしはそのことが気がかりなのです」
 この旅の間中、メイベルはレスターとの幸せな記憶ばかりを蘇らせていた。少なくともクラリッサの前ではそうだった。
 そこに悲しい、そしてまだ真新しい思い出まで想起させるのは、メイベルにとって幸いなことではないだろう。クラリッサはそんな懸念を抱いている。
 だがバートラムは首を竦め、
「思い出すのが辛い記憶ばかりとは限らない」
 と明るい口調で言って、クラリッサを若干戸惑わせた。
「もしかすると奥様は、思い出したいとすら考えておいでなのかもしれない」
「まさか……お葬式のことをですか?」
「ああ。奥様にとってはそれも、旦那様にまつわる大切な記憶だ」
 バートラムは随分と確信的な物言いをする。
「それほどに深く、奥様は旦那様を愛していらっしゃるからな」
「そういう、ものでしょうか」
 当然ながらクラリッサは釈然としなかった。自分なら辛く悲しい記憶は思い出したくもないし、ましてそれが大切な人の死にまつわる記憶なら尚更だ。レスターのことも、クラリッサはなかなか受け入れがたく思っていたし、それに――。
 また自分が、大切な人を失うようなことがあったら、恐らく立ち直れないだろうという気がするのだ。
 微笑むバートラムを見つめながら、クラリッサはそう思う。
 一方で、バートラムもまたクラリッサを見つめていた。青い瞳を柔らかく細めながら言った。
「私も君にまつわる記憶は何もかも大切にしているよ。初めて君の笑顔を見た時のことも、初めて君が入れてくれたお茶を飲んだ時のその味も、君があのお屋敷にやってきた日のことだって、少しも色褪せずに覚えている」
 どうやら彼は類稀なる記憶力の持ち主らしい。クラリッサはそういった記憶をほとんど持ち合わせておらず、それが今となっては酷く悔しい。
「あの時、わたくしが入れたお茶、いかがでしたか?」
 孤児院で使用されていた茶葉は色の出が悪く、味も色つきの湯と呼んでもいいほどの代物で、その辺りで拾った葉を干したものが混ざっていると孤児たちの間ですら実しやかに囁かれていた。そのことを思い出してクラリッサが尋ねると、バートラムは一瞬だけ躊躇してから、悪戯をしかけるような顔つきになる。
「今だから言うが、とても飲めたものではなかった」
「そうでしょうね」
 クラリッサは少し笑った。
 茶が不味いと言った客人の不満も、今考えれば真っ当な苦情だったようだ。まして当時のクラリッサは茶の入れ方をようやく覚えたばかりで、今のようにいつでも美味しく、香り高いものを入れられる技術を身につけてはいなかった。
「今なら、もっと美味しいお茶を入れることができます」
 クラリッサがそう言うと、バートラムは深く顎を引く。
「もちろん知っているとも。今の君が入れてくれるお茶は、いつも格別の味がする」
「では、お茶を用意して参りましょうか」
 持ちかけた誘いを、彼は驚き混じりの笑みで受け止めた。
「君の方からそう言ってくれるとは思わなかったな」
「今日はあなたもお疲れでしょうから、労いの意味も込めて、です」
「意味も、か。では、更なる意味も込められていると考えていいのかな」
 その問いには答えず、クラリッサは目を逸らした。別に嫌な気分がしたわけではないが、自分の内心、あるいはささやかな企てを、彼にまだ悟られたくなかった。
 もっともバートラムなら全てを見抜いていてもおかしくはない。クラリッサのことを余さず記憶している彼なら、過去の例と照らし合わせてわずかな態度や表情の違いにさえ気づいてしまうことだろう。

 ともあれクラリッサは台所に立ち、腕によりをかけて二人分の茶を入れた。
 そして居間へ取って返すと、食卓に着いた彼の前にカップを置き、そのすぐ隣の席にもう一つのカップを並べた。
 バートラムが隣の椅子を引いてくれたので、並んで腰を下ろす。
 二人きりの静かな居間に、芳しくも穏やかな茶の香りが広がった。
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