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嘘でもいいから(1)

 湖に釣り糸を垂らすと、程なくして魚が寄ってくる。
 三人が立つ湖岸からも、わらわらと水面に集まる銀色の鱗が見えるほどだ。
「わあっ、また引いたわ!」
 声を上げたメイベルがしなる釣り竿を引く。ホリスから借りた釣り針は性能が良く、一度魚を捕らえるとそうたやすくは逃さない。それでも針を外そうともがき暴れる魚は力が強く、メイベルの腕力だけでは引き上げられない。静かだった湖面にはいくつも波紋ができ、撥ね上がる飛沫が陽光の下で宝石のようにきらめいた。
 そこで魚がかかるとメイベルは竿をバートラムに渡し、彼が手際よく魚を引き上げ、その口から釣り針を外して水を張った桶に入れる。狭い桶の中で魚はしばらく水飛沫を上げていたが、そのうち諦めたのか先に釣られていた魚たちと共におとなしくなる。
「随分手慣れているのね。釣りがお好きだったの?」
 メイベルがバートラムの作業の早さに目を瞠る。
 バートラムは謙遜するように微笑んで答えた。
「いえ、昔いくらかやっていたというだけです。意外と手が覚えているものですね」
「そう……」
 答えを聞いたメイベルは怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに明るく笑んだ。
「でもおかげで釣りが楽しめるわ。わたくし一人だったら釣り竿ごと取られていたかもしれないもの」
 クラリッサはその傍らで黙って桶を覗き込んでいる。あの執事の器用さにはもういちいち驚かなくなっていた。彼がどういう人生を歩んで乗馬や釣りの技術を学んだのかは気になるところだが、それはクラリッサの想像の及ばない世界なのだということもおぼろげに察している。
 桶の中には丸々と太った鱒が、鱗を光らせたゆたっている。湖の水を汲んだ桶はうっすら血も浮かんでいて、クラリッサは時々水を汲み直しては鱒たちの鮮度を保つ役目を仰せつかっていた。
 本当は釣り竿も針も人数分借り受けて、三人で釣りを楽しもうとしていたのだ。しかしこの湖の魚たちは随分と平和慣れしていたらしく、次々と針に引っかかっては釣れてしまう。あまりにもよく釣れるのでは早々に桶もいっぱいになってしまうから、クラリッサもバートラムも釣りを諦め、メイベルだけに楽しんでもらうことにしたのだ。
 もっともそんな気遣いも焼け石に水かもしれなかった。桶の中には既に三匹の鱒がいる。小さなものや痩せたものはなるべく湖へ返すようにしていたが、朝から始めた釣りは正午を迎えるより早くに終わってしまいそうだった。
「もう一匹だけ、釣ってもいいかしら」
 メイベルは懇願の眼差しをバートラムへ向ける。
 バートラムは桶とメイベルを見比べた後、
「あと一匹くらいは平気でしょう。クラリッサなら美味しく料理してくれるはずです」
 桶から視線を上げて、傍らのクラリッサを見た。目が合うと頼もしげに微笑んでくる。
「そういうことだから、クラリッサ。夕食では是非腕を揮ってくれ」
「かしこまりました」
 クラリッサはわずかに目を逸らして応じた。
 昨夜も彼と遅くまで話し込んでしまって、つい余計なことまで口走ってしまった。夜のうちは素直な気持ちを打ち明けたつもりでも、朝を迎えると途端に昨夜の自分が気恥ずかしく思えて仕方がなくなる。なぜあんなことを言ってしまったのだろうと悔やんでも取り返せるものではなく、今朝はバートラムの顔をまともに見られないという有様だった。
 彼の方はクラリッサの内心を知ってか知らずでか、普段通りに話しかけてくる。
「鱒なら何がいいかな。ステーキか、それとも塩焼きか……君はどう考えている?」
「奥様のご所望の品にいたします」
 愛想なく答えたクラリッサに、メイベルは少し考えてからこう言った。
「わたくしは何でもいいわ。美味しくしてくれればそれでいいの」
「承知いたしました。何か考えておきます」
「ええ、お願いね」
 小間使いの機械的な返答にもメイベルは気づくことなく、再び釣り竿を握り直す。この辺りの針葉樹を削り出して作ったという竿は丈夫なつくりで、その上よくしなる質のいいものだった。
 メイベルの投げた針が湖に落ちる微かな音を聞きながら、クラリッサはひたすら桶の中の魚を覗き込んでいる。顔を上げればいやでも、メイベルの傍で釣りを見守るバートラムの姿が目に入る。それで心をかき乱されるくらいなら魚でも見ている方がずっとましだった。
 しかしクラリッサが桶の前で身を屈めた時、
「ああ、近づきすぎると危ない。いつ魚が跳ねるか――」
 バートラムが振り向き、警告の言葉を放った。
 だが遅かった。桶の中の鱒はまだひと暴れする余力を残していたようで、次の瞬間大きく身を捩じらせたかと思うとクラリッサの顔目がけて水飛沫を撥ね上げた。
「きゃっ!」
 まともに直撃を食らったクラリッサは悲鳴を上げて目をつむった。湖の水は目に入っても痛くはなかったが、それでも気分のいいものではない。
 バートラムが慌てて駆け寄ってくる足音が聞こえ、やがてすぐ近くで彼の声がした。
「言うのが少し遅かったな。済まない」
「いえ、あなたのせいでは……」
 クラリッサは気落ちしながらもハンカチで自らの顔を拭く。彼も拭いてくれようとしたが、それは丁重にお断りした。
 それでもバートラムはクラリッサが目を開けられるようになるまで付き添ってくれた。そして視力を取り戻したクラリッサには含んだように笑いかけた。
「魚ではなく、私を見ていてくれ。その方がよほど安全だ」
 とっさにクラリッサは昨夜の会話を思い出し、赤くなった顔を背けた。
 それは本当にただの偶然だったのだが、背けた拍子に転じた視線が、湖を囲む針葉樹の森の奥へ留まった。木々の隙間を縫うように歩いていく二人の子供達の姿を捉えていた。クラリッサはなぜ顔を背けたのかも一瞬忘れて、その姿を目で追った。
 シェリルと、サイラスだ。
 二人は周囲を警戒するように見回しながら、道を外れて森の更に奥へと踏み込んでいく。こちらに視線をくれることはなかった。何か熱心に探しているようにも見えた。
「……あの二人。今日も探検かな」
 クラリッサの視線を追ったのだろう。バートラムがそう言った。
 結局、昨夜見た光が彼らだったのかはわからずじまいだ。だが彼らが彼らなりに充実した日々を過ごしているのは間違いないだろう。
「毎日、ああして二人で森を歩いているのでしょうか」
「そうだろう。それが楽しいというのなら問題はないが――」
 彼は見定めるように青い目を眇めて、森に溶け込んでいく二人を見送る。
「やけに真剣に歩き回っている。やはり宝探しでもしているのかもしれないな」
 顔つきの割に口調は冗談めいていた。自分でもその説を信じきれていない、というところなのかもしれない。
 クラリッサは何とも言えず、濡れた前髪を乾かそうと息を吹きかけていた。
 昨夜のことを忘れる為にも、今はあの二人の謎すら追う気になれなかった。

 メイベルが四匹目の鱒を釣り上げたところで、三人は休憩も兼ねて昼食を取った。
 かつての新婚旅行とは違い、クラリッサは弁当を作ることも、持ってくることも決して忘れなかった。おかげで三人は新鮮な空気の中での美味しい昼食にありつけた。湖のほとりのなるべく乾いた地面に敷物を敷き、パンやローストチキンやサラダ、干し果物のケーキ、リンゴの包み焼きなどの弁当を広げた。
「あの時もあなたたち二人がいてくれたらよかったのにね」
 ケーキを食べながらメイベルが肩を竦めた。
「そうしたらわたくしたちはお弁当を忘れずに済んで、レスターがブーツで魚を掬い始めることもなかったかもしれないわ」
「旦那様はなぜ、ブーツで魚を?」
 茶を入れるクラリッサが好奇心に駆られて尋ねると、夫人は顎に手を当てて考え込むような仕種を見せた。
「どうしてなのかしらね。殿方って、時にわたくしたちが信じられないような酔狂な行動に出るものなのよ」
 それからちらりとバートラムに視線を投げ、
「こういうことはあなたの方がよくご存知なんじゃないかしら。あなたもブーツで魚を掬いたくなったことがおあり?」
 と尋ねた。
 バートラムはパンにバターを塗りながら声を立てて笑った。
「お言葉ですが奥様、私もさすがにブーツで魚を獲ろうと思ったことはございません」
「そうよね。あんなことをするのはレスターくらいのものよ」
 メイベルが拗ねたように頬を膨らませる。
 当時、新婚の夫妻の間にどんなやり取りがあったのか、その態度から何となく想像がついた。クラリッサは内心で夫人に同情した。
 しかしバートラムの考えは違ったようだ。
「きっと旦那様は奥様を驚かせたかったのでしょう」
 そう言って、メイベルをきょとんとさせていた。
「男というのは得てして、意中の婦人を驚かせるのが好きなものでございます」
「まあ、なぜ? わたくしは驚くのは苦手よ。胸がきゅっとなって背筋がぞくぞくするんですもの」
「婦人のそういう姿を見るのが楽しいのですよ。不謹慎と言われても、こればかりは」
 バートラムは悪戯っ子のような顔つきで笑み、メイベルは不服そうにクラリッサに水を向ける。
「男の方って酷いわね。クラリッサ、あなたもいつもそういう目に?」
 確かに彼にはいつも驚かされてばかりだ。クラリッサは黙って顎を引く。
 もっともバートラムは例によって意に介したふうもなく、婦人二人の反応を楽しんでいるようだった。
「そうやって怒られるのもまた一興。ご婦人には理解しがたいことでしょうが」
「全くだわ。レスターもきっとそうだったのね」
 メイベルはむっとした顔を作ろうとしていたが、数秒も持たずに笑い出した。やはりレスターの話をする時、彼女は楽しげで、そして幸せそうだった。
 昼食の間、三人は他愛ない話に花を咲かせていた。バートラムが今日もホリスの子供たちを見かけたことについて触れると、メイベルは目を瞬かせた。
「そうなの? ちっとも気がつかなかったわ。今日は何を?」
「今日も昨日と同じく、何か探し歩いているようでした」
 バートラムは答えながら同意を求めるようにクラリッサを見やる。
 クラリッサも頷き、語を継いだ。
「お二人の方は、こちらには見向きもしませんでした。きっと探検に熱が入っているのでしょう」
「何だか楽しそうで素敵ね」
 鳶色の瞳を輝かせて、メイベルが息をつく。
 その後で首を傾げて、
「でも、何を探しているのかしらね。まさか言っていた通り、杜松の実を集めているだけということはないでしょうけど」
 と言った。
 それはクラリッサとバートラムにもわからないことであり、たとえ三人で頭を絞り合っても正答を導き出せるものではないだろう。クラリッサは早々に考えるのを諦めていたし、バートラムも昨夜の推理に絶対の自信があるわけではないのか、夫人の前でそれを披露することはなかった。
 メイベルもしばらく考え込んでいたが、答えは出なかったようだ。
「一度あの子達に聞いてみたいところだけれど、大人が聞いても教えてはくれないでしょうね」
 ふうと息をついてから、食べかけのケーキをみんな食べてしまった後で言った。
「さて。魚釣りはもう終わってしまったようだけど、午後はどうやって過ごしましょうか」
「散歩でもいたしましょうか、奥様」
 すかさずバートラムが声をかけると、メイベルはあまり気乗りしない様子で眉根を寄せる。
「そうねえ……でも歩き回る気分ではないのよ。少しだけここでのんびりしていってもいいかしら」
「かしこまりました。ではそのように」
 バートラムが頭を下げる横で、クラリッサは早くも夕食の献立について考え始めている。視線の先にあるのは鱒が泳いでいる桶だ。あれをどう料理するか、思案のしどころだった。
 その途中でふと思い出したことがあり、
「奥様」
 クラリッサはメイベルに向かって口を開いた。
「もし奥様がこちらでしばらくお休みになるのでしたら、わたくしは杜松の実を探してきてもよろしいでしょうか?」
「杜松の実を?」
 メイベルが目を瞠り、すぐに軽く吹き出した。
「まあ、クラリッサ。あなたまであのお子さん達と一緒に何か探検でもするつもり?」
「いえ、わたくしは本当に杜松の実を集めたいのです」
 数日前、港町の食堂で食べた魚料理には杜松の実のソースが使われていて、それはとても美味しかった。そのことをクラリッサは思い出したのだ。
 昨日森で出会った際に聞いた、シェリルとサイラスの言葉は嘘なのだろう。だがとっさの口実として名前を出したからには、この森には実をつけた杜松があるのだろう。もしあるのなら、あれを使って鱒を料理しようとクラリッサは考えていた。
「夕食の鱒料理に使おうと思っております。よろしいでしょうか」
 そこまで語るとメイベルも腑に落ちたようで、すぐに頷いてくれた。
「それは楽しみだわ。ではお願いしていいかしら、クラリッサ」
「はい、奥様」
「それとバートラムさんもね。クラリッサを手伝ってあげて」
 メイベルがさも当然という口ぶりで執事に水を向けたので、クラリッサは危うくその言葉を聞き落とすところだった。
 ぎょっとするクラリッサをよそに、やはりバートラムも平然と応じる。
「奥様がそう仰るなら。彼女と二人で務めを果たして参ります」
「い……いえいえ、わたくし一人で十分ですから。あなたは奥様のお傍に」
 慌ててクラリッサが口を挟んでも彼はどこ吹く風だ。声を落として宥めてくる始末だった。
「まあまあ、奥様がせっかくいいと言ってくださったのだから」
「だからと言って、奥様をお一人にしておくつもりですか?」
「そうとも。お互いにそちらの方が都合がいいということだよ、クラリッサ」
 しかしクラリッサにしてみればちっとも都合のよくない話だった。執事が主の傍を離れてうろつき回るのはどうかと思うし、杜松の実は二人がかりで集めなければならないようなものでもない。夕食用に少しあるだけで十分なのだ。まして近頃とみに顔を合わせづらい相手と、二人だけで行動しなければならないのは気が重い。
 そもそも、こういうことでメイベルに気を遣われるのは本意ではなかった。
「奥様。わたくしは一人で行って参ります。人里離れたところでお一人になるのは危険です」
 クラリッサは毅然として言ったつもりだった。
 だがメイベルに、
「そう……どうしても、わたくしが一人になっては駄目?」
 縋るような物言いをされればたちまち弱腰になってしまう。
「だ、駄目というわけでは……。ただ、危険ではないかと申し上げているのです」
「危なくないわよ。あなたたちだってそう遠くへ行くつもりはないのでしょう?」
「そうですが、もし熊でも出たら――」
「ホリスさんは熊なんて滅多に出ないと言っていたわ。でも現われたら大声を出すから、聞こえるところにいてちょうだい」
 メイベルは全く怖気づくこともなく言い放った。
 それでもクラリッサが渋っていると、温かく微笑みながら続ける。 
「お願い、ちょっとの間でいいから一人でいたいのよ。ここで湖に足を浸しながら、思い出にも浸ってみたいの」
 彼女の頼み方にはどこか切実な響きがあった。一人でいたいという言葉自体に嘘はないのだろう。
 ならば主の頼みを拒むこともできず、クラリッサはやむなくバートラムに向かって告げた。
「奥様がそう仰いましたから、あなたは余分なお喋りをせず、常に耳を澄ませていてくださいね」
「もちろんだとも。君の傍らで、私が君の耳の代わりになろう」
 バートラムは気障な言い回しでその言葉を受け止めた。
 それから楽しげにこちらへ向かって片目をつむってきたので、クラリッサは急いで目を逸らす。
 彼と二人で過ごす時間に、妙にどぎまぎしている自分がいた。
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