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積み重ねた思い出(2)

 農場主の名はホリスといった。
 この湖畔で農場を営む傍ら、広大な土地に建てたいくつかの邸宅を旅行者などに貸して生計を立てているそうだ。湖の外周の半分近くが彼の土地だというのでクラリッサは驚いた。
 更に驚いたのは、交渉を終えたバートラムと共に現われたホリスが、大地主というにはいささか若い男だったことだ。
「ようこそいらっしゃいませ。この辺りは静かでいいところです。のんびりなさっていってくださいね」
 慣れた調子で語るホリスはどう見積もっても四十を過ぎたばかりといった年頃だった。繭を軽く解いたような癖のある髪はきれいな焦げ茶色で、顔の皺もそれほど多くない。挨拶の為に共に現われた彼の妻も同年代らしく、更に後から現われた二人の子供たち――父親と同じ髪色をした少年と少女も非常にあどけない顔つきをしている。
 少年は父親の傍に立ち、少女の方は家のドアに寄りかかるようにしてこちらを見ている。来客は珍しくないのだろうが、二人ともにこりともしない。こういった挨拶の場に付き合わされることに飽き飽きしているのかもしれない。
「野菜や鶏、それに牛乳などはお分けすることもできますから、必要があればお声かけを」
 ホリスは子供たちの分まで愛想よく言い、バートラムに空き家の鍵を手渡した。
「ありがとうございます。しばらくの間、お世話になります」
 メイベルが礼を述べるとホリスとその妻は穏和な笑みを浮かべたが、子供たちはやはりむっつりとしたままだった。 

 件の邸宅は、ホリスの家から馬車で三十分ほど、湖沿いにぐるりと南下した先にあった。
 針葉樹林を切り拓いた中にぽつんと建つその家は、思ったよりもしっかりした造りになっていた。木造の家は壁に土を塗り込んであり、窓という窓にはガラスが填まっている。玄関の扉も頑丈そうな両開きで、隙間風に悩まされる不安はなさそうだ。建物自体はごく小さな二階建てで、居間と台所の他はいくつかの小部屋がある程度ということだったが、半月滞在するかどうかという三人にはそれで十分だろう。二階部分からは木で作られた簡素なテラスが張り出していて、そこから湖のほとりの景色を眺められそうだった。
 玄関の脇には柵で囲まれた小さな菜園もあった。長期滞在の客はここで何かを育てては食卓に並べるのだろう。現在は数種類の野草が小さく可憐な花を咲かせているだけだった。
「きれいな家ですね」
 クラリッサは控えめに感想を述べたつもりだったが、安堵が顔に出ていたのだろう。メイベルにくすりと笑われた。
「あら、どんなところに泊まると思っていたの? 随分ほっとしているわね」
「し、失礼いたしました」
 慌てて表情を引き締める。
 実はここへ来る道中、馬車がどんどんと人里離れたところへ入っていくのに内心不安を覚えていたのだ。自分たちを待ちうけているのが雨露も凌げぬ掘っ立て小屋だったらどうしようと――こんな土地に住みよい家があるはずもないという思い込みが、湖畔での生活に希望を持たせてくれなかった。だがそんな不安は全く必要なかったようだ。
 バートラムが玄関の鍵を開けた後、三人は邸宅の中にも立ち入った。二人が肩を並べて歩ける程度の玄関ホールを抜けると、空の暖炉を設えた居間に出る。居間は食堂も兼ねているのか、木で作られた長テーブルと椅子が八脚ほど並べられていた。調度の類は最低限用意されており、台所にはパンやお菓子を焼ける窯があり、寝室には木枠の寝台やたんすが備えつけられている。ただいくらか手入れはされている様子だったが、床や調度にはうっすら埃が積もっていたし、窓ガラスもやや汚れていた。
 暖炉の火もなく照明も点されていない家の中は、日中にもかかわらずほんのり薄暗く、光溢れる窓の外の世界とは対照的だった。人が住んでいない家は、人里離れた草原や森よりもかえって物寂しく思える。クラリッサは屋内を一通り見て回った後、先程とは違う不安を密かに覚えた。
「まずはお掃除をしないとね」
 一度来たことがあるからだろう。メイベルは慣れた様子で袖をまくり、そう宣言した。
 残念ながら馬車は借りたものであった為、積荷を下ろしたら街へ帰さなくてはならない。荷物を全て屋内へ運び込んだ後、御者は金を受け取り来た道を戻っていった。
「街からここまでは馬車でも相当かかりましたし、気軽に戻って買い物をというわけには参りませんね」
 馬車が見えなくなるまで見送った後で、クラリッサはふとバートラムに言った。
 すると彼はどうということもないように明るく笑う。
「心配は要らない。あの農場主のところには馬もいた。いざとなればあれを借りればいい」
 クラリッサは見落としていたが、ホリスの家には馬小屋があり、ざっと見て四頭が繋がれていたという。
 これだけ広大な土地を持ち、別邸を建て、更には馬も牛も鶏まで飼っている――ホリスはつくづく裕福な農場主であるらしい。
「君は、乗馬の経験は?」
 ふと彼が尋ねてきたので、クラリッサは嫌な予感を覚えながらかぶりを振った。
 するとバートラムは大仰に驚いてみせる。
「それは問題だな。奥様は今回、馬に乗って湖の周りを散歩したいとご所望のようだ」
「お、奥様が? 危険ではございませんか」
「かつて旦那様と、そういうふうにお過ごしになったのだそうだ」
 バートラムはその一言でクラリッサを納得させた。そして宥めるように肩を叩く。
「君も練習をするなら私が教師を務めよう。いつでも声をかけてくれ」
「練習を、必ずしなくてはなりませんか」
「乗る機会がないとも限らないだろう。まして街からこんなに離れてしまったのだから」
「それはそうですが……」
 馬車ならともかく、馬に直に乗るというのはクラリッサにとって未知の世界だった。生き物の上に乗ったりして急に暴れ出したりはしないだろうか、乗る前から既に恐怖を感じている。
「私がついていれば安全だ。怖がらずに身を任せてくれればいい」
 なぜか嬉しそうに彼が言うので、クラリッサは頷きの代わりに溜息で応じた。
「ただ、彼らの家まで歩くのもまた相当な距離がある」
 バートラムは笑いながら、木々の間をうねるように通り抜ける道を指差す。その道がどこへどう続いているのかは、鬱蒼と茂る森のせいで見えなくなっていた。ホリスの家も見当たらず、今となってはどちらの方角にあるのかさえクラリッサにはわからない。
「ここにいる間は存分に散歩が楽しめそうだな、クラリッサ」
 はたして散歩という距離で済むのだろうか。見えない道の果てに、クラリッサはしばらく目を凝らしてしまった。

 三人はその後、邸宅の窓という窓を開け放ち、掃除を始めた。
 ほうきで塵や埃を丹念に掃き出し、雑巾で床や窓ガラスや調度を拭いた。寝台は麦藁を敷き詰めた上から毛布を敷いて整え、どうにか寝心地のよさそうなものを三人分用意した。それから居間の長テーブルに白いクロスを敷き、暖炉に火を熾すと、家の中は息を吹き返したように明るく、温かくなった。
 掃除を終えるとクラリッサは早速台所に立ち、遅い昼食の支度を始めた。慣れない台所ですぐには勝手が掴めず、湯を沸かすのも一苦労だった。手間取りつつも茶を入れ、街で買ってきた硬いパンをナイフで薄く切り分ける。更にハムやチーズや野菜なども切り分けて、パンに挟んで食べられるようにした。掃除に追われた三人は揃って空腹に苛まれていた為、とにかく急いで支度をする必要があった。
「クラリッサ。用意のできたものがあれば私が運ぼう」
 家の中に漂う茶の匂いに待ちきれなくなったのか、バートラムが台所に現われた。
 クラリッサはこれ幸いと彼にパンを並べた大皿を手渡す。
「ではこちらを持っていっていただけますか」
「承知した」
 抱えるほど大きな皿もバートラムは造作もなく持ち上げてしまう。
 密かに感心するクラリッサを、バートラムは訳知り顔で見下ろしてきた。
「こうしているとまるで、我々が新婚夫婦のようだな、クラリッサ」
「……どこがです?」
 嫌味のつもりもなく、クラリッサは聞き返す。
 すると彼はわざとらしく残念そうに眉尻を下げた。
「わからないかね。こうして家の中のことを二人でする、というのがだよ」
「あいにくですが、わかりかねます」
 なぜ家の中のことを二人ですると新婚のようだと言えるのか。全くぴんと来なかった。
 しかしバートラムは相変わらず堪えたふうもなく、大皿片手に笑いかけてくる。
「新しい家で君と始める新生活、それも人里離れた土地と来ている。邪魔が入る心配もないし、君と愛を育むにはぴったりだ」
 何を言い出すのだろうとクラリッサは困惑した。以前なら聞き流せていた彼の言葉も、ただの軽口ではないとわかっている今では妙に耳に残る。
「旦那様と奥様はここで蜜月期間をお過ごしになったとのことだ」
 バートラムは好機と見てか、囁き声で畳みかけてきた。
「我々もお二人に倣い、ここで蜜のように甘い日々を送るというのはどうかな」
 囁かれてクラリッサはうろたえた。彼の言ったことが、実際に蜜のような甘さを伴って聞こえたように感じた。
「か、からかわないでください」
 とっさにそう告げると、彼は青い目を微笑ませて応じる。
「からかってなどいない。冗談でこんなことは言わない」
 だからこそ質が悪いのだ。クラリッサは彼から目を逸らし、先程磨いたばかりの床を見つめながら語を継いだ。
「わたくしたちは奥様に随伴して、務めとしてここを訪れたのですよ」
 言っても無駄だろうとわかっていたが、言わずにはいられなかった。
「もちろんだとも。しかし我々が務めの間に、多少おこぼれにあずかろうとも罪ではあるまい」
 そして、やはり無駄だった。おまけにバートラムの口ぶりはおこぼれどころか美味しいところを丸々いただいていくつもりでいるようだ。本来なら不届きな発言と非難すべきなのだろうが、それすら言葉にならないほどクラリッサはまごついていた。
 火を使っていたからだろうか、この台所は妙に暑い。気がつけば少し汗を掻き始めていた。頬が燃えるように熱いのも自覚済みで、そうなるとクラリッサはもう顔を上げる気にもなれなかった。
 だから俯いたまま両腕を突き出し、目の前に立っていた彼の背中をぐいと押しやった。
「奥様がお腹を空かしておられます。無駄話はよして、そのお皿を運んでください!」
「そうだったな。君の言う通りにしよう」
 背を押された程度ではバートラムもよろけることはなく、軽快な足取りで台所を出て行く。
 ほっとして顔を上げかけたところへ、立ち止まっていたらしい彼がふと振り向いた。
「我々も食事にしなければ。君を口説くにも体力が必要だ」
 そう言い残してようやく、彼は大皿を手に居間へ向かったようだ。
 一人残ったクラリッサは、疲れのあまり嘆息した。彼の言葉に困っているという状況は以前と変わりがない。だが彼の言葉を蔑ろにできないという点はクラリッサに重くのしかかってくる。
 バートラムの言動にいちいち困惑したりうろたえる今の自分が、まるで自分ではないようにすら思えていた。
 しかし狼狽している暇はない。メイベルを空腹に苛ませるわけにもいかず、クラリッサは黙々と食事の支度を続けた。
 そこで不意に、背後で扉の軋む音がした。
 あの執事が戻ってきたのだろうか。クラリッサはあえて振り向かず、彼が何か言い出すまでは黙っていようと思いながら皿にチーズを盛りつけていた。
 だが彼は何も言わず、それどころか扉を開けただけで中に立ち入ってくる気配もない。妙だ、と思っていれば、彼ではない声がした。
「あ、あのう……」
 聞き慣れない声は子供のものだった。
 慌てて振り返ると、台所にある勝手口の扉を、誰かが薄く開けていた。癖のある焦げ茶色の髪を肩まで下ろした少女だった。
 それがホリスの娘であることに気づいたクラリッサは、驚きつつも彼女に歩み寄る。
「あ……こんなところまで、何かご用ですか?」
 ホリスの家からこの邸宅までは馬車で三十分ほどの距離にあるはずだった。まさか歩いてきたわけではないだろうと思ったが、少女が履いていたブーツは泥や枯葉に塗れ、汚れていた。
 彼女――名は確かシェリルだと、ホリスが紹介していた。クラリッサが近づくと、彼女は提げていたかごを黙って差し出してくる。
 中を覗けば、赤く熟れたリンゴや葡萄酒の瓶、それに布に包まれた鶏の卵などが入っていた。
 クラリッサはかごから顔を上げ、あどけなさが残るシェリルの顔を見つめる。シェリルもちらりとクラリッサを見た。柔らかそうな頬をしたその少女は笑いさえすれば愛らしい顔立ちだろうと想像がつくのだが、今のところ全く微笑む気配はない。怯えているようでも、こちらを嫌っているようでもないのに、クラリッサが笑いかけたところでにこりともしない。
「……いただいてもよろしいのですか?」
 シェリルが何も言わないので、図々しいかと思いつつもクラリッサは尋ねた。
 するとシェリルはこくんと頷き、クラリッサの手に押しつけるようにしてかごを持たせた。かと思うと即座に踵を返す。
「あ、待って! ちゃんとお礼を――」
 クラリッサは呼び止めようとしたが、ちょうどそこへ皿を置いてきたらしいバートラムが戻ってきた。
「どうかしたのか、クラリッサ。誰と話していた?」
「いえ、今、農場主のお嬢さんがおいでになって……」
 説明をするのももどかしく、クラリッサはバートラムにかごを見せながら勝手口の外を覗いた。シェリルは髪をなびかせながら木漏れ日に光る森の道を駆けていくところで、その後ろ姿は既に遠くなっていた。
「あの、よろしければ一言お礼を申し上げたいのですが!」
 彼女へ向けてクラリッサは声を上げたが、呼び止めたところで戻ってきてくれる様子もなく、どんどん遠ざかっていくばかりだった。
「お嬢さんがこのかごを届けてくださったのか?」
 台所へ戻ると、バートラムも怪訝そうな顔をしていた。
 クラリッサも釈然としないまま頷く。
「はい。でもお礼を申し上げる間もなく、去ってしまわれました」
「そうか。まあ、礼は後程でもいいだろう。向こうを訪ねていく時にでもすればいい」
 バートラムは肩を竦めると、クラリッサの真似をして勝手口の扉を開け、外を見やりながら続けた。
「しかし、この距離を走って帰るつもりとは。元気なお子さんだ」
「全くです」
 クラリッサは深く頷き、彼女から手渡されたかごに再び目をやる。
 恐らくこれは彼女の父親か母親が託けたものに違いない。シェリルにとっては森の道を長々と歩かされて、さぞかし憂鬱なお使いだったのだろう。彼女の態度にそう理由をつけ、クラリッサは食事の支度を再開した。

 せっかくだからといただいたばかりのリンゴも食卓に並べると、メイベルは美味しいと喜んでそれを味わってくれた。確かによく熟れた、とても瑞々しいリンゴだった。
「明日にでもお礼を申し上げに行きましょう。ついでに馬をお借りしたいと思っていたの」
 事情を聞いたメイベルはそう言い出し、クラリッサをほんの少しだけ憂鬱にさせた。
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