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永遠に続いてほしい夢の話(2)

 メイベルの新しいドレスは、アルフレッドたちの結婚式に間に合うよう届けられた。
 よく熟した葡萄の色をしたドレスは上品な光沢のある素材でできており、スカート部分にたっぷり取ったドレープは夫人が身動ぎをする度に美しく波打った。
「少し生地を使いすぎたかしらね」
 姿見の前に立つメイベルがスカートを軽く摘み、ひらひらと揺すってみせる。
「男の人はこういうスカートを見ると、もう一着仕立てられるんじゃないかって思うんだそうよ。レスターもよく不思議そうにしていたの。こんなにスカートを揺らして、何の意味があるのかって」
「旦那様はお召し物にこだわらないお方でしたから」
 クラリッサは懐かしむように応じ、メイベルも振り向いておかしそうに笑んだ。
「そうね。わたくしが言うまで新しい服を仕立てようとしないから、いつも気をつけてあげなくてはならなかったわ」
 結婚式当日の朝、クラリッサは宿でメイベルの身支度を整える手伝いをしている。
 小柄なメイベルに落ち着いた色合いのドレスはとてもよく似合っていた。クラリッサは夫人の背後に回り込んでサッシュを結び、それから夫人が髪を結うのを手伝った。真っ白いメイベルの髪はやや癖があり、礼装用にまとめるのは少しだけ手間がかかる。

「ねえ、クラリッサ。あなたもそろそろ新しい服が必要ではないかしら」
 髪を結われている間、姿見の前で椅子に腰かけているメイベルが不意に言った。
 クラリッサが手を止めずに視線を向けると、鏡越しに微笑むメイベルの表情が映る。髪を半分に分け、片方だけを三つ編みにしたメイベルの微笑は幼い悪戯っ子のように見えた。
「お言葉ですが、わたくしは既にいただいている服で十分でございます」
「そうね。お仕事をするだけなら十分だと言えるでしょうけど」
 メイベルは極力首を動かさないよう、顎に手を当てて考え込みながら続けた。
「外出着だって少しは持っておいた方がいいと思うの。ほら、この間のようにお茶会にお呼ばれすることもあるでしょうし」
「奥様のお供で伺うのであれば、いつも通りの服装で問題ないと存じますが……」
 少し困惑しながらクラリッサは応じた。
 クラリッサの持っている服は小間使いとしてふさわしい、装飾の少ない簡素なものばかりだ。メイベルのドレスのようにたっぷりとしたドレープは急ぎ足の時にとても邪魔になるし、サッシュを絶えずひらひらたなびかせて歩くのも鬱陶しいことだろう。ふくらんだ袖は茶を入れる時にかさばりそうで、白いカフスはすぐに汚してしまいそうで、どれも小間使いの務めには不要なものばかりだった。
 もっとも、クラリッサも歳相応に着る物には興味がある。メイベルが美しいドレスを身にまとっているのを目の当たりにすれば憧れもするし、自分と歳の近い娘が着飾って歩くのを見かけた際は密かに羨望の眼差しを送ることもあった。メイベルの言葉には押し隠してきた内心を見透かされたようでどきりとしたのも事実だ。
「それに、バートラムさんとお出かけする時にはいつも通りの服というわけにもいかないでしょう?」
 メイベルが執事の名を出したので、クラリッサは白い髪を梳いていた櫛を思わず止めた。
 あの茶会以来、メイベルは何かと言うとバートラムとクラリッサの仲を気にかけているようだった。クラリッサと二人で話している時でもちょくちょくバートラムの名を出しては気を遣うようなことを言い出すので、クラリッサはその度に面食らっていた。
 そして今も、メイベルの意図が読めずに非常に面食らっている。
「なぜわたくしがあの方と……」
「なぜって。そういう機会が欲しくないのかしら、あなたは」
 絶句するクラリッサにメイベルは朗らかに笑いかけてみせる。無邪気なその笑顔が鏡面に映り込むのを、クラリッサはしばし呆然と眺めた。
 我に返った後はすぐに、髪結いを再開した。
「先日も申し上げましたが、奥様がわたくし……たちの為に気を遣われる必要など全くもってございません。奥様にそんなことでご心労をおかけしたくはないのです」
 語気を強めてクラリッサは訴える。
 メイベルが口を窄めてクラリッサを見やる。
「でもあなたたちのことを知っておいて、逢い引きの一つもさせないだなんて、あんまり酷い雇い主ではないかしら。あなたはそう思わない?」
 逢い引きという耳慣れない単語にクラリッサは打ちのめされた。
 目眩を堪えるように深く息を吸い込んでから、
「いいえ。わたくしも、それにあの方も奥様のことを何よりも最優先に考えておりますので」
「それはとても嬉しいことだけど……」
 言葉とは裏腹に、メイベルは随分残念そうにしている。
「たまには息抜きしたっていいのよ? あの方だってそう思うかもしれないわ」
「まさか、あの方が奥様にそんなことを申し上げたのですか?」
「いいえ、わたくしが勝手に思っているだけよ。もちろん言ってくれたら考えるけれど」
 クラリッサの疑念にはかぶりを振ったが、尚も惜しむようにメイベルは言う。
「以前から思っていたのよ、クラリッサ。あなたの為にドレスを仕立てて着飾らせたら、さぞや美しくなるでしょうね。その髪の色は珍しくてきれいだし、とても素直な顔立ちをしているんですもの。それに姿勢もいいからドレスがよく似合いそう」
 メイベルから誉められるのはいささかくすぐったいが、気分のいいものだった。他の人間には言及されるのも嫌な髪色についてさえ、メイベルに触れられるのは悪くない気がしていた。
 だからといってその勧めに乗る気にはなれないが――メイベルは否定していたが、あの執事ならそれらしいことを吹き込んでいてもおかしくはないとクラリッサは思う。彼はこの状況を『楽しむ』気でいるらしいのだから。
 嵐が吹き荒れるクラリッサの胸中とはまるで違う、メイベルの弾む声が続けた。
「あの方にあなたの着飾った姿を見せたいとは思わない? きっと惚れ直すわよ」
「奥様……」
 そもそも惚れ直すという形容が正しくない。惚れ合った間柄ですらないのだ。
 しかし今はまだそんなことも言えず、反論の言葉も尽きたクラリッサが気力を振り絞ってようやく夫人の髪を結い上げた時、部屋の扉が軽く叩かれた。
 すかさずメイベルは髪が崩れないように手で押さえながら立ち上がり、
「どうぞ、お入りになって。もう済んだわ」
 扉の向こうへ声をかける。
「失礼いたします」
 バートラムの声がそう言って、すぐに扉が開いた。
 直前の会話が会話だけに、クラリッサは彼と顔を合わせるのが憂鬱だった。櫛などの化粧道具を片づけながら、極力顔を上げないようにしていた。
 室内に立ち入ったバートラムがメイベルに歩み寄ったようだ。足音でわかった。それから彼が溜息をついたのも聞こえた。
「実によくお似合いです、奥様」
「あら、ありがとう。迷ったけれどこの色にして正解だったようね」
「ええ、元々いい色でしたが奥様がお召しになるととても美しゅうございます」
「誉めすぎよ。わたくしを誉めたところで何も出ないのだから」
 バートラムはひとしきりメイベルを誉め、メイベルが若い娘のようにくすくす笑う。クラリッサはそんな二人のやり取りに耳を傾けつつ、視線はそちらへ向けないよう窓の外へ目をやった。
 鎧戸を開けた窓は眩しい日差しに溢れ、空には既に抜けるような青い空が広がっていた。三人がいる宿は大通り沿いに建っており、今日はその目の前の通りから早くも人々の歓声やざわめき、陽気な音楽などが聴こえている。
 幸い好天には恵まれた。あとは結婚式が平穏に過ぎてくれさえすればいい。
 アルフレッドが催した茶会から数日が経っていたが、あれ以来彼の姿は見かけていなかった。彼の方からこちらに何か連絡を寄越すこともなく、結婚式までの日々は至極穏やかに過ぎていった。ただメイベルに随行して町を歩けば人々がアルフレッドとソフィアの結婚式について噂をすることもあり、その度にクラリッサはもやもやとした軽い苛立ちを覚えた。人々の噂も結婚式を楽しみにしているという明るいものでしかなかったから、尚更だった。
 せめてあの青年には自らの結婚式を台無しにしないよう、心がけて欲しいものだと思う。
「そういえばね、先程クラリッサとも話していたのよ」
 メイベルの声に名を呼ばれ、クラリッサは思わず振り向いた。
 するとメイベルもこちらを向いて優しく微笑み、
「クラリッサは着飾ったらさぞ美しくなるでしょうって。ねえ、バートラムさんはどう思うかしら?」
 悪気は全くないそぶりでバートラムに水を向ける。
 バートラムはわざわざクラリッサを見て、青い目を細めながら言った。
「私も奥様と同意見でございます。クラリッサなら何を着ても似合うことでしょう」
「そうでしょう? あなただって見てみたいとお思いよね?」
「ええ。しかし困ったこともございます」
 重ねて問いかけられてバートラムは頷き、それからいやに甘ったるい声で語を継いだ。
「そうなっては確実に見とれてしまうでしょうから。彼女に目を奪われてばかりでは、仕事にも差し支えます」
 相変わらずの歯の浮くような台詞にクラリッサは眉を顰めた。
 だがメイベルは、まるで自分が言われたように嬉しそうな声を上げた。
「そうでしょう! これは是非ともあなたの仕事に差し支えるような機会を用意しなくてはね」
 そんなことまで言い出してはしゃぐので、クラリッサはメイベルの目を盗んでバートラムを睨みつけた。
 しかしバートラムがその程度で堪えるはずもなく、むしろ夫人が席を外した折を見計らい、そっと囁きかけてきた。
「せっかく奥様がその気になってくれているのだから、ここはお言葉に甘えておこう」
「馬鹿なことを仰らないでください。わたくしを着飾らせてどうするおつもりですか」
「確かに、私も着せるよりその反対の方がより好みだ。だがそういうのもたまにはいい」
「たまにも何も、断じてあり得ません。まして奥様を放っておいて――」
 さすがに逢い引きという単語は口にしかねて、クラリッサは唇を結んだ。
 バートラムはそんなクラリッサをやけに嬉しげに眺め、クラリッサは逆に恨めしい思いでバートラムを見上げる。これも永遠に続くことではないとわかっているが、何かしら更なる憂慮すべき事態を引き起こしそうな予感がしてならない。
「仕事に差し支えても構わない、などと考えてくださる雇い主は希少だよ、クラリッサ」
 あくまでも余裕たっぷりのバートラムが諭すように言った。
「それなら我々としても大いに、職務に差し支えるような恋を謳歌するのが、心優しい主に対する礼儀というものだろう」
「わたくしはそんな礼儀は存じません」
 逢い引きだの恋を謳歌だの、聞き慣れない単語ばかり耳にすれば疲れてしまう。クラリッサは深く溜息をついた。

 日が中天にかかるよりも早く、三人は街へと繰り出した。
 件の結婚式は昼過ぎからとなっていたが、一足先にお祭り騒ぎを始めている街を見てみたいとメイベルが言った。もちろんクラリッサに異存はなく、バートラムですら街の浮かれようにいくらか関心を寄せているようだったので、三人はためらわずに散策を始めた。
 大通りを挟んで向き合う建物の間に、いくつもの旗飾りが渡されている。連なる三角の旗が風に揺れるとしゃらしゃらと音を立て、街の喧騒に一層の賑々しさを添えていた。
 通りを歩く人は多く、彼らを待ち受けるのは軒を連ねるミートパイや串焼き、飴細工、それに葡萄酒などの屋台だ。特に肉が焼ける煙が人波をすり抜けて漂い、祝い事に財布の紐を緩める人々を次から次へと捕らえていく。街角には吟遊詩人たちも小銭を稼ぎに来ており、あちらこちらから恋の素晴らしさを讃える歌声が聴こえてきた。
「本当にお祭りのようね。どこもかしこも人で溢れているわ」
 メイベルが物珍しげに視線を巡らせる。好奇心旺盛そうな今の表情も少女のように若々しく見える。
「人が多いです。奥様、お気をつけて」
 人混みの中を歩くメイベルを守るように、バートラムは傍に立ち、辺りに注意を払っている。行き交う人々はいささか注意力散漫であり、余所見をしたまま歩いてくる者、朝のうちから既に千鳥足の者もいて危なっかしいことこの上ない。バートラムはそういった不逞の輩を夫人に近寄らせぬよう、細心の注意を払っているようだった。
 こういう時の彼の働きぶりには文句のつけようがなく、クラリッサも出しゃばらないように脇に控えているだけだ。メイベルを身体的な意味で守ることができるのは彼だけなのだと、深く実感せざるを得ない。
「ええ、気をつけるわ」
 振り向いたメイベルが頷き、遠くに霞む聖堂の尖塔を指差してみせる。
「このまま聖堂まで歩きましょう。この人出なら今から向かってもちょうどいいくらいよ、きっと」
「はい、奥様」
 クラリッサが返事をした瞬間、その肩に誰かがぶつかった。軽い衝撃によろけたが転ぶほどではなく、痛みも特になかった。ぶつかった相手はやはり酔っ払いのようで、ゴブレットを掲げながらよろよろ歩いていく後ろ姿がちらりと見えた。
「クラリッサ、君も気をつけて」
 バートラムはクラリッサに苦笑を向けると、いきなりクラリッサの手を取って、自分の腕に掴まらせるように置いた。
 唐突な行動に戸惑うクラリッサを見下ろし、更にこう言った。
「君の手を引いてあげたいところだが、私には奥様をお守りする役目がある。しかし君が自発的に掴まってくれるのであれば私も安心して職務に集中できる。頼めるかな」
「わ、わたくしは別に――」
 こんなことをしてもらわなくても歩けると言いたかったのだが、通りを行く人の数は確かに多く、断固として拒むには自信がなかった。一週間滞在しただけの土地で逸れてはかえって迷惑をかけるだろうし、それに、
「下手に断れば奥様も怪しむ。少しは恋仲らしいふりをしたまえ」
 バートラムの囁きに視線を向ければ、メイベルも確かにこちらを見ていた。微笑ましげに見守る眼差しは温かく、だからこそ少々居心地が悪い。
 やむを得ず、クラリッサはバートラムの腕を掴み直した。いざとなればこっそり抓ってやるまでだ、と内心で思いながら。
「素直でよろしい」
 満足げに微笑むバートラムからは、わざと顔を背けてやった。
 それにしても、誰かの腕を掴んで歩くのはいささか歩きにくいものだった。離れて歩こうとすると手が外れそうになるし、慌てて追い着こうとする度に勢い余って身体がぶつかってしまう。そうならないようにする為にはぴったり寄り添っていなければならないのも癪に障る。
 世の恋人たちは本当にこんな歩き方をするものなのだろうか。
 クラリッサは人波に押し流されないようきつく掴まりながら、内心不思議に思っていた。
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