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どこまで続くか誰も知らない(3)

 聖堂の長椅子に、メイベルと司祭、それにソフィアが並んで腰かけた。
 アルフレッドはソフィアの隣に寄り添うように立ち、彼女の手を握り締めている。
 司祭が若き恋人たちにメイベルを紹介すると、二人はこの巡り合わせを喜び、メイベルと話がしたいと言い出した。そこで四人はしばし語らいの時間を持つこととなったが、それを見守るクラリッサの内心は当然穏やかではない。しかし夫人にねだられれば面と向かって反対することなどできるはずもなく、まして反対する理由が口にできないとあってはどうしようもない。せめて穏便に時が過ぎればいいと、珍しく神に祈る気分になっていた。

「……ではわたくしたち、船でもご一緒しておりましたのね。存じ上げませんでしたわ」
 メイベルが親しみを込めてアルフレッドに声をかける。
 夫人は司祭の仲立ちの下、恋人たちと早くも打ち解け始めているようだった。互いに名乗り合った後はまるで長年の知己のように会話を交わしていた。
「ええ、ご夫人のお姿は何度かお見かけしておりましたが、なかなかご挨拶の機会もなく……」
 アルフレッドはやはり愛想よくメイベルの言葉に応じる。時折ソフィアの顔を覗き込み、彼女と目を合わせながら会話を続けていた。
「こうして船を降りてからもまたお会いできるとは。我々には不思議なご縁があるようですね」
「きっと神様のお導きでしょう」
 頷くメイベルに、ソフィアがうっとりと目を伏せる。
「しかもメイベル様はここで式を挙げられた方なんですもの。その方がもうじきここで誓いを立てる私たちと巡り合っただなんて、運命的と言わずにはいられませんわ」
 金色の長い睫毛が白い瞼に影を落とし、さながら精緻な彫刻のようだ。この美しい娘はクラリッサよりも五歳は若く見えた。
 司祭の紹介によればアルフレッドは街の有力者の息子であるという。一方のソフィアはこの地方を統べる領主の姪御に当たり、十日後に控えた結婚式では街中から盛大に祝福を受けることだろうと司祭は言っていた。
 ともすれば政略結婚などと型に填められそうな二人の婚姻は、だが双方が深く望むものでもあったという。
「結婚式が待ち遠しくて仕方がありません。ソフィアが十八になるまではと耐え忍んで参りましたが、これでようやく夫婦になれる」
 アルフレッドが甘く微笑めば、ソフィアはどこか恥らうように語を継ぐ。
「ええ。お父様のお許しもいただきましたし、あとは神様にお許しを請うばかりです」
 二人は、傍目には仲睦まじい恋人たちにしか見えない。アルフレッドはソフィアの手を握りながらその顔を慈しむように眺め、ソフィアも唇をほころばせて時々アルフレッドの手を握り返す――。
 もしここで初めて顔を合わせていたなら、クラリッサも額面通りに信じ込んでいたことだろう。
 それにしてもこのアルフレッドなる青年、一体何を考えているのか。船上でクラリッサに声をかけてきたのが一時の気の迷い、あるいは何もない大海原での退屈しのぎであったとしても、愛する相手が他にいるのなら決して許される話ではない。そして未遂であったとしても、その話がソフィアや彼女の近親者の耳に入ったなら、きっとただごとでは済まないはずだ。
 仮に彼がもう少し殊勝な態度を取り、クラリッサに声をかけたことを悔やむそぶりでもあればまだよかったのだが、こうして堂々とされると不気味にすら思えてくる。
 クラリッサは横目でアルフレッドを窺う。船上で見かけた時と印象はあまり変わらず、船旅で日に焼けた顔には常に笑みが浮かんでいた。栗色の髪は今はきちんと整えられ、着衣も今朝見かけた時とはまた違っている。派手に着飾ってこそいないが、そういえば長い船旅の最中でも清潔そうな身なりをしていたから、彼の身の上はここで語られた通りなのだろう。
 あとはその愛想のいい笑顔の裏で何を考えているのか――クラリッサが目を眇めると、鋭い視線が突き刺さったかのように、アルフレッドが振り向いた。
 一瞬だけぶつかった視線は、すぐに彼の方から逸らされた。今度ばかりは目をつむられることもなかった。
 ほっとしたのも束の間、アルフレッドはふと思いついたように口を開く。
「そういえば。メイベル様のお付きの方々とは、一度船の上でご挨拶をしたことがありましたね」
「まあ」
 彼の唐突な言葉にメイベルは驚いていたが、クラリッサもその十倍は驚いた。まさか彼の方から船上での話を持ち出してくるとは思いもしなかった。
 アルフレッドはメイベルの傍らに立つバートラムへ視線を投げる。
「覚えておいでですね? あの時は短い挨拶のみで失礼いたしました」
 至ってにこやかに、友好的に投げかけられた改めての挨拶を、バートラムは上品な微笑と会釈で受け止めた。
「いいえ、私どもの方こそ。こうしてまたご挨拶の機会を得たことを光栄に存じます」
 クラリッサはあえて口を開かず、執事に合わせてお辞儀だけしておいた。そうでなければ余計なことまで口走ってしまいそうだった。
 幸いにして、アルフレッドとバートラムのやり取りはそれだけで終わり、若き恋人たちは結婚式の先達であるメイベルに思い出話をせがんだ。
 そこでメイベルはレスターが街の人々に花を配ったという話を語り始めた。アルフレッドとソフィア、そして司祭は目を細めてその話に聞き入っていたが、クラリッサはせっかくの話を楽しむどころではない。夫人の思い出が美しいままで保たれるよう、アルフレッドとはこれ以上接触を持たずに済むよう、一刻も早くここから立ち去らせて欲しいと神に祈りを捧げ続けた。

 恋人たちと聖堂で別れたその後は、うって変わって平穏な時間が過ぎていった。
 メイベルはバートラムとクラリッサを引き連れて街中を歩き、レスターが花を買い込んだという花屋や結婚式のドレスを作らせた仕立て屋などを見て回った。さすがのメイベルも午後には疲労を面に出し始めたので、その日は日没前に宿へ戻り、一行は波に揺られることのない寝台で久し振りの安眠を得た。
 そして翌朝、宿の従業員数名がメイベルの部屋を訪ねてきた。
 彼らは朝食と共に、一人では抱えきれないほどの花束を抱えて現われた。
「……こちらの花は?」
 朝食を載せた台車を引き取りながら、バートラムが花束に鋭い目を向ける。旅の間の金銭管理は彼の役目であり、注文していないものが届けば警戒するのもやむを得ないことだ。
 しかし宿の従業員は臆せず答える。
「お届け物でございます」
「届け物だと? 奥様あてにか?」
「ええ。今朝方、使いの方がいらして、この花束をご夫人にお届けするようにと仰せつかりました」
 この時点でクラリッサは薄々予感していたのだが、花束に添えられたカードには案の定、アルフレッドの名が記されていた。どうやら神は敬虔ではないクラリッサの祈りなど聞き届ける気もないようだ。
 あれよあれよという間に客室には色とりどりの花々が運び込まれた。摘みたてと思しき花は爽やかな土の匂いと花の芳しい香りを漂わせており、室内は春の庭園にいるような爽やかさに包まれた。
「カードには何て書いてあるのかしら」
 アルフレッドの名が記されたカードにメイベルが手を伸ばしたところで、バートラムが素早く制す。
「奥様。私が拝読いたします」
 彼は眉間に皺を寄せてそのカードをつぶさに確かめた後、メイベルとクラリッサに向かって読み上げて聞かせた。
 それによればこの花々はアルフレッドとソフィアの結婚式に備えて育てられていたものらしく、幸せな逸話を聞かせていただいたお礼に花のお裾分けを、と綴られていた。更に明後日、アルフレッドの邸宅にて茶会を開く予定があり、是非メイベル夫人にもお越しいただき改めて結婚式の思い出話を聞かせてもらえたら、とあった。
「まあ、お花のお裾分けですって」
 メイベルは花の香りを味わうように深く息を吸い込んで、言った。
「とても素敵なお心遣いね。お茶会にも是非伺いたいわ」
 クラリッサは忌々しさを押し隠しつつ客室に溢れる花束を眺めた。癪に触ることに、花たちは実に丹精込めて育てられたと見え、どれもこれもうっとりするほど美しくいい香りがするのだった。
 しかしメイベルはすっかり機嫌をよくしているし、バートラムも今のところは夫人の意思に反対する気はないようだ。整った横顔は花束のうちの一つを見つめている。見とれているというよりは、いやにじっくりと注視している。
「あら? どうかしたの、バートラムさん」
 執事の様子にメイベルも気づき、怪訝そうに尋ねた。
 バートラムが花束を持ち上げ、女主人の問いに答える。
「いえ、こちらの花束はどうやら、クラリッサにあてた品のようです」
 急に名前を呼ばれて、クラリッサは息を詰まらせた。
「そうなの?」
 メイベルは即座にクラリッサの方を振り返り、嬉しそうにしてみせる。
「あなたにも花を贈ってくださるなんて、本当に気配りに溢れた方ね。明後日はお礼を申し上げましょうね、クラリッサ」
「え、ええ……」
 あまりのことにクラリッサはそう答えるのが精一杯だった。執事がその花束を手渡してくる間、胃がきりきりするような悪い予感を覚えていた。
 アルフレッドが名指しで『クラリッサ嬢へ』とカードを添えた花束は、燃え上がるような真っ赤な薔薇の蕾ばかりを集めたものだった。彼が自分の髪色を意識して花を選んだことは明白で、それが一層クラリッサの神経を逆撫でした。
 カードを開くのは憂鬱だった。だが見ないわけにもいかず、メイベルには見えないように手元で開いた。中にはこうあった。
『この薔薇を一輪、あなたの美しい髪に飾ってお越しください。秘密のひと時へとお招きしましょう』
 決して温厚な人間ではないクラリッサは、この時点で限界だった。
 花束の陰に隠れるようにして歯軋りしていると、バートラムがそのカードを覗き込んでくる。
「どうやらアルフレッド様は、船上での出来事をよく覚えておいでのようだ」
 バートラムはいたく得心した様子で言うと、怪訝そうにしているメイベルに説明を添える。
「些細なことでしたので奥様にはお話ししておりませんでしたが、船でアルフレッド様とご挨拶をした際、我々の間には軽妙かつ愉快なやり取りがあったのでございます。この度の茶会では我々ともまた話がしたいとご所望の様子。その旨をこうして、クラリッサに伝えてきたのでございます」
「そうそう、そうだったわね。わたくしはまだ、あの方とあなたがたが船で会っていたという話を教えてもらっていなかったわ」
 メイベルが冗談交じりに拗ねてみせる。
「では朝食を取りながらお話ししましょう」
 執事は丁寧に応じると、呆然としているクラリッサの手から花束と例のカードを取り上げた。
 そこでクラリッサははっとして、
「まさか、奥様に全てお話しする気では――」
 と声を潜めて言いかけたところで、執事にかぶりを振って制された。
「心配は要らない。奥様には適当に笑い話でも作って話すさ」
「それなら、いいのですが」
 クラリッサは胸を撫で下ろしたが、安堵とは程遠い心持ちだった。
 何やらどんどんとおかしな方向へ転がり出している。それもこれもあのアルフレッドという不埒な男のせいであり、茶会に出向いてその横っ面に花束を叩き返してやりたいとさえ思う。
「困ったことがあるなら、いつでも私に相談したまえ」
 メイベルの目を盗み、バートラムが囁きかけてくる。クラリッサが黙って目を向けると、まるで安心させるように笑いかけてみせる。
 余裕綽々の態度に苛立ちも覚えたが、ここで意地を張っても何も解決しない。この事態の打開には彼の力が必要だろう。
 そう思い、クラリッサは彼に囁き返した。
「バートラムさん。後で、お話があるのですが……」
「もちろん聞こう。今夜にでも」
 青い目を光らせながら、バートラムは頷いた。
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