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終わりなき愛を(2)

 ものの五分ほどで、窓の下の路地に長身の影が戻ってきた。
 気の合わない相手とは言え長い付き合いだから、癪なことに歩き格好だけで彼だとわかってしまう。立ち止まり、辺りを見回してから手で合図を送ってくる。
 クラリッサは張りついていた窓を開けた。吹き込む潮風の向こうで抑えた声が聞こえてくる。
「話はつけた。行こう、奥様をお連れしよう」
 どうやら、件の巡礼宿で泊めてもらえるらしい。首尾良く話のついたことに安堵しつつも、はてとクラリッサは疑問を抱く。この部屋からメイベルを連れ出すには宿の入り口を通らねばならないはず。それを主人に見つからぬよう実行できるだろうか。
「まずは荷物を落としてくれないか。下で受け止める」
 バートラムがそう言うので、疑問はさて置くことにする。
 三人の荷物は部屋の隅にまとめてあった。誰もが一度として解こうとしなかった辺りが、募る警戒心を如実に表している。クラリッサはそれらを次々と窓から落とし、彼が上手い具合に受け止めてみせるのを何となく複雑に思う。普段の言動はさておき、よく働く執事には違いなかった。
「器用な方よね」
 傍にいたメイベルが感心した声を上げる。同意すべきかどうか迷っていれば、荷物を路地の隅に寄せたバートラムが、次の指示を送ってきた。
「荷物はこれで全部だな。なら次は君の番だ、クラリッサ」
 無性に嫌な予感がした。
「まず寝台から毛布を一枚剥がしてきてくれ」
 胸騒ぎを覚えながらもクラリッサはそれに従う。寝台の一つから毛布を取り上げ、半ば習慣のように四つ折りに畳んだ。抱えて窓辺へ急げば、眼下のバートラムはにこやかに笑んでいる。建物の影が眼下を覆い、彼の瞳の色すらわからないほどだったが、あの青い目が細められているであろうことは容易に察しがついた。
 付き合いだけは長いのでわかる。ああいう笑い方をされた時は大抵ろくなことにならない。
 漠然と嫌な予感を抱いていても、
「支度が出来たか? ――じゃあ、そこの窓から飛び降りてくれ」
 さすがに、告げられた指示には声が裏返った。
「な……ここは三階ですよ!」
「しいっ」
 バートラムが唇の前に指を立てる。それから辺りを見回し、もう一度こちらへ向き直る。
「駄目じゃないか。大声を上げては気取られるぞ」
 そうは言っても驚かずにいられようか。クラリッサはただの小娘だ、三階から飛び降りて無傷で済むとは思えないし、どこぞの如才ない執事のように器用な真似ができるわけでもない。
 だが、その執事は笑顔で言う。
「心配することはない。私がちゃんと受け止める」
 クラリッサの喉がごくりと鳴った。
「でも――でも、窓からなんて」
「信用してくれ」
 眼下の彼は笑ったまま、諭す言葉が後に続いた。
「君が降りたら、今度は奥様に飛び降りてもらわなければならない。それを君の抱えている毛布で、二人がかりで受け止めるんだ。わかるな?」
 わかる。それは、わかる。
 だが、理解していても動けないことだってある。
「これを聞いて、まさか君が、奥様に先を譲るなんて真似はしないだろう?」
 更なる言葉はやや挑発的だったので、クラリッサはこんな時でも律儀にむっとした。
「そんなことはいたしません」
 言い切った後でふと、傍に立つメイベルの表情を視界の隅に捉える。
 彼女は酷く気遣わしげな面持ちでいた。ためらうことなく告げてくる。
「いいのよ、わたくしが先に降りても」
「ま、まさか。とんでもないことでございます」
 慌てて大きくかぶりを振る。やはりそんなことはできない。させられない。
 となれば、これから自分が取るべき行動は一つだ。
 息をつき、クラリッサはもう一度窓へ向き直る。
「わかりました。飛び降りればよろしいのですね」
 粛々と頷いてみせると、窓の下の執事はまたしても笑んだ。暗がりにいてもわかる余裕ありげな顔つきだった。
「心配は要らない。君一人くらい容易く受け止めてみせるさ、安心して私の胸に飛び込んでおいで」
 この期に及んで人の神経を逆撫でするようなことを言う。クラリッサは歯噛みしたが、やがて気づけばがたがた震え出していた。きっと夜の潮風が冷たいせいだろう。
 メイベルの手を借りて窓枠に腰かけた。毛布を片手で抱き込む。スカートが風に膨らむのにさえうろたえたくなる。見下ろせばバートラムが腕を広げて待っていたが、彼までの距離を、三階の高さを改めて思い知らされたら眩暈がした。
 だが、メイベルの為なら。
 恐いものはない、断じて。
「……行きます」
 潮風のせいで声が震えた。
 直後、窓の下の壁を蹴り、飛び出す。耳元でごうと空を切る音がしたが、さほど長くは続かなかった。目を開けていたから全てが見えた、近づいていく地面、路地裏に溜まる薄闇、先に降りている荷物。待ち構えているバートラムの表情はすぐ見えなくなり、代わりに鈍い衝撃が、抱えた毛布越しにあった。痛みはなかった。
 風が止む。
 あるいは時が止まったのか、辺りがふっと静かになる。
 再び風の音が聞こえ出し、我に返るまでにはそうかからなかったはずだ。自分をぎゅっと抱き留めている両腕に気付き、それから見覚えのある着衣の胸元と、地面に着きそうな自らの足に気づく。むしろ誰かの手によってそっと地面に降ろされたのだとわかった時、途端に身体がふらついた。
「ほら、平気だっただろう?」
 腕を解いた後で、バートラムはわざわざ顔を覗き込んできた。
「君が私に抱き着いてくる日が、こんなに早く訪れるとはな。いい思い出になりそうだ」
 場を弁えぬ発言にいつもなら何か言ってやるところだが、今のクラリッサにそんな余裕は微塵もなかった。ただ、これだけは言っておかなければと思って、クラリッサは歯をがちがち言わせながら訴える。
「お、奥様に――ちっとも、ちっとも恐くありませんからと、お伝えください――」
 その言葉の効果か、もしくは従者二人が広げた毛布のお蔭だろうか。メイベルはすんなりと飛び降りて、受け止めた二人に感謝を述べた。
「ありがとう。本当にちっとも恐くなかったわ」
 肝の据わりようは夫人に敵わない。クラリッサは不甲斐なさに追い立てられるように持てるだけの荷物を抱えた。
 そして執事の先導で、巡礼宿へと急ぐ。幸いというべきか、宿の主人らに気取られた様子はまだなかった。

 巡礼宿は予想していた以上に粗末だった。
 雨風はかろうじてしのげそうな建物に、大部屋が一つと個室がいくつか、それに簡素な炊事場が備えつけられている。個室にあるのは見るからに建てつけの悪そうな窓と、板を打ち付けた棚のような寝台だけだった。
 しかも通された部屋にはその寝台が三段二列、計六つあり、間の通路は大の大人がすれ違えないほど狭い。この窮屈な客室は見ての通り、本来は六人部屋ということだったが、バートラムが無理を言って貸切にしたらしい。
「泊めていただけるだけでもありがたいことです」
 メイベルが祈るように頭を垂れるのを見れば、クラリッサも不平より感謝を唱えたくなる。この期に及んでみすぼらしいだの何だのとは言えまい。夫人に相応しい部屋ではないが、夫人を守れる部屋であってくれるはずだった。
 夕食は炊事場を借りて支度をした。保存食として携行していた干し肉を煮込み、水気の少ないパンをちぎってスープを作った。ばたばたと慌しかった一日でも食欲は失われなかったようで、ごく質素な晩餐を、三人は揃って黙々と食べた。

 前の宿から持ち出した毛布は一枚きりで、それをメイベルが使うことには異存なかった。夫人は当初遠慮がちだったが、従者二人に説き伏せられれば抗う術もなく、恐縮しながら包まった。程なくして安らかな寝息が聞こえ始め、三段の寝台の一番下、メイベルは少女のように穏やかな顔で眠っていた。
 クラリッサはその向かい側、やはり最下段の寝台に横になっていた。毛布の代用として外套に包まってはみたものの、この部屋は隙間風がきつく、横になっていると少し寒い。
 室内の明かりはまだ点いたままだ。バートラムが壁に背を預けた体勢で帳簿をつけている。この旅においても金の管理は彼の務めで、支払いも全て彼の手によって行われていた。
 宿の主人に心づけを払ったのも彼だった。
 持ち出した毛布代としても高かったのではないかとクラリッサは思うのだが――そもそもそういう問題でもない。振り返ると苛立ちや怒りとは違う、しかし穏やかではない感情が湧き起こる。胸がざわめいて、しきりと寝返りを打ってしまう。
「眠れないのか?」
 ふと、執事の声がした。
 クラリッサは一瞬ためらい、彼の方は向かずに答える。
「ええ、まあ」
「寒いせいかな。もしよければ、添い寝をしてあげようか」
 彼のその物言いを聞けば、返答したことをいささか悔やむ羽目となった。このような状況下でも全くもって真面目さのない男だ。
「断じて結構です」
「君は相変わらずつれないな」
 軽い溜息が響く。
 それから足音が聞こえ、クラリッサが振り向いた時、最下段の寝台には別の影が落ちていた。バートラムが端に腰を下ろしたのだ。断りもなく。
 身の危険を察知したクラリッサは急いで跳ね起き、当の執事から苦笑を賜った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「あなたの日頃の言動を踏まえれば、警戒だってしたくなります」
「眠れないなら少し話でもしようかと思ったまでだ。あいにくと私も寝つけなくてね」
 こちらを向く執事が首を竦める。
「先刻の、君にしがみつかれた感触が忘れられない。今夜は君のせいで眠れそうにないよ、クラリッサ」
「……そうでしたか」
 応じる声が冷え込むのを自覚した。もしかして彼は、なぜクラリッサがここまで警戒するのかを理解していないのではないだろうか。かれこれ八年も続いているやり取りだというのに。
 とはいえ、八年の歳月は彼への信頼を培う期間でもあったはずだ。ごくごく些細な、長所を補って余りある欠点全てに目を瞑った上での信頼だが、それでも彼を執事として認めていることには変わりない。彼がいなければこの旅も続かないだろうし、無事に終わりもしないだろう。
 出立して早々、災難に見舞われている現状を踏まえれば、彼の存在の大きさは明らかだった。
「何か、言いたいことでも?」
 クラリッサの胸中を見透かしたように、バートラムは尋ねてくる。最下段の寝台は常に影の中にあり、執事の上体はその外で、ランタンの明かりに照らされている。笑んだ表情もまた然り。
 こんな時に笑っていられる彼が心底羨ましかった。クラリッサにはまだそこまでの覚悟はなかった、ということなのだろう。
「あの人たちのことです」
 気が付けば、胸中は口をついて出た。
「どうして、奥様を追い駆けてくるのでしょう。そのことがわたくしにはわからないのです」
「無論、金の匂いを嗅ぎつけてくるに決まっている」
 何を今更と言いたげなバートラムが、片眉を上げて続ける。
「君だって屋敷にいる頃から見てきただろう、金に群がろうとする悪辣な連中を。ああいう手合いは儲けの好機を見出すや、獰猛に食いついてくるものだ。忘れたのか?」
 当然、覚えていた。
 悼むことさえ許されなかった、あの苦渋と苛立ちに満ちた日々は、忘れようにも忘れられない。それらから逃れる為にメイベルは旅に出たのだ。
「でも、奥様のお金は奥様のものです」
 焼けつくような思いを抱き、クラリッサは抗弁する。
「旦那様から正当に、手続きを経て受け継がれた財産です。紛れもなく奥様のお金なのに、どうしてあの人たちは我が物にしようとするのでしょうか」
 他人の持ち物に興味を示すなど、およそ品のいい行為とは言えまい。そう思うのだが、対する執事の答えはこうだ。
「他人の持ち物を奪うのが好きな連中もいるのさ。私の知己には、夫ある婦人にばかり手を出したがる男がいたよ。何でも、人妻でなければ燃えないのだそうだ」
 クラリッサはことその手の話題を嫌悪しているので、あえて聞かなかったことにした。バートラムもそれを察してか、すぐに語を継いだ。
「ともかくだ。倫理の垣根という奴は、一度踏み越えればあっさりと崩れてしまうものなのだよ。連中の垣根は既に跡形もなく、他人の金を手に入れることを当然の権利のように捉え、躍起になっているんだ。そうなればもう理屈も、道理も通じまい」
 彼の話が飲み込めないわけではないのだが、どうしても納得いかない。クラリッサには倫理の垣根を飛び越えるという考え方すら理解できなかった。そこまでして他人の金を手にしたいものだろうか。
「あの人たちは、どうしてお金を欲しがるのでしょうね」
 率直な疑問を口にすると、なぜか吹き出された。
「愚問だな。多いに越したことはない、最もたる代物じゃないか。君だって、欲しいものが全部買えるくらいの金があればと思うことはないか?」
 贅沢をしない性分のクラリッサには、やはりぴんと来ない話だった。金が倫理を踏みにじりたくなるほど大事な代物だろうか。欲しいものが全部金で買えるとも限らないのに。
 メイベルがいくら人が羨むほどの大金を所持していようと、亡くした大切な人を取り戻すことはできやしないのに。
「せっかくだから聞いておこうか。君が今、一番欲しいものは?」
 不意にバートラムが尋ねてきた。口調が軽くなったので、もしかすると話題を変えようとしたのかもしれない。しかしこんな時に尋ねられても浮かぶのは優しかった旦那様のことばかりで、他には何も思いつかなかった。
 やむなく、かぶりを振る。
「わたくしは……特にありません」
「欲がないな」
 彼がまた笑い、優しく続けた。
「じゃあ、眠れない夜にでも考えておいてくれたまえ。教えてくれたら、いつか君にそれを贈ろう」
 そして寝台から立ち上がる。
 クラリッサは、たとえ欲しいものがあっても彼にねだる気はなかった。今となってはレスターの他に必要な、取り戻したいと願う存在があるとも思えなかった。だからバートラムが寝台の傍を離れるまで黙っていたが――。
 挨拶をする気になったのは、くたびれていたせいだろう。
「おやすみなさい、バートラムさん」
 彼が動きを止める。
 間があり、微かに笑うのが聞こえて、それから、
「おやすみ、クラリッサ」
 返答は柔らかく耳に届いた。
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