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終わりなき愛を(1)

 カーテンの下端を慎重にめくり、北向きの窓の外を覗く。
 日が沈み切り、街明かりが点り出した時分だった。潮風に吹きさらされて煤けた窓ガラス越しに、宿の勝手口を取り囲む人だかりが見下ろせた。服装や人相からは真っ当さがまるで窺えない面々だった。先程、宿の主人が外へ出て、連中と何か話しているのをクラリッサは目撃している。
「多めに握らせてやったつもりだったが、無駄だったか」
 ひび割れた壁に凭れたバートラムが、腕組みをして呻く。
 その傍ら、一脚しかない椅子に腰掛けたメイベルはやや不安げな面持ちだった。
「心づけが足りなくて、怒ってしまわれたのかしら」
 別に皮肉でもなんでもなく、善良な夫人は本当にそう思っているらしい。すぐに執事が否定してみせる。
「金額の問題ではないでしょう。こっちがいくら積もうと、悪辣な連中には安宿の主人を従える術があるということです」
 それでメイベルはわかったような、わからないような顔つきをしてみせたが、わからなくていいのだとクラリッサは思う。むしろ、夫人をこんな悪意にまみれた宿に閉じ込めている現状にうんざりしていた。
「こんなところに部屋を取ったのがまずかったのかもしれませんね」
 と、控えめに嫌味を言っておく。夫人の手前、執事に対していつものように噛みつくことはできない。みっともない口論を展開してはますます夫人の目に毒だ。
 バートラムもクラリッサの胸中を心得ているのか、そこでにこやかに首肯した。
「君の言うことも一理ある」
「ならどうして、こんなところに――」
「しかしだ。向こうの方から願い下げと言われたのでは、こちらも対処の仕様がない。君だってまさか、奥様にほうぼうへ頭を下げさせたいわけじゃないだろう?」
 反論を遮られ、クラリッサはぐっと詰まる。

 片田舎の村を出て、三人はまず港を目指した。未亡人となったメイベルの莫大な財産に群がる連中から逃げる為、船で異国へ旅立つことを決めたのだ。港町までの旅路は順調だったし、町に到着後、乗船券の手配もすんなり済ませた。出航を明日に控え、宿を取ろうとした際に厄介事が起きた。
 メイベルの夫レスターはこの辺りでも有名な商人であり、その遺産を受け取ったメイベルもまた、名を着々と広めつつあるらしい。新聞には夫人と遺産に関する記事が根も葉もない噂話と並んで載っており、それを読んだのだろう、街一番の高級宿では遠回しに宿泊を断られた。
 ――あまり騒々しくされますと、他のお客様のご迷惑になりますので。
 事実、メイベルの旅立ちは耳聡い人間たちに嗅ぎつけられていた。執念深く悪辣な連中はこの港町にも現れ、次々に金の無心を始めた。拒もうにも彼らは聞く耳を持たず、挙句の果てにクラリッサたちは慣れぬ町中にて追いかけっこを強いられた。
 さすがにくたびれかけていた頃に行き着いたのが安宿の集まる宿場街で、奥様をいかがわしい宿には泊められないと主張するクラリッサと、下手に高級なところに泊まるよりは足が着きにくいと断言するバートラムとの間で若干控えめな口論が持たれた。無論、執事と小間使いの序列はこういう場合の決定権をも左右する。かくして一行は安宿の二階に部屋を取ったが、宿の主人の裏切りにより、見事に足が着いてしまったという顛末だ。

「わたくしは、頭を下げるくらいどうということもないのよ」
 率直に言い切ったメイベルは、しかしすぐに物憂げな顔をする。
「ただ……わたくしたちが行く先々で騒ぎを起こすようではね。落ち着かないでしょうけど、一晩じっとしている方がいいんじゃないかしら」
 どうやら彼女はこの宿で夜を明かす気でいるらしい。クラリッサは異を唱えたかったが、ついさっき執事に言い負かされた後では持ち出す意見も見当たらない。他に行く当てがないというのがそもそも難題であった。
 かといって、窓から見下ろせる不逞の輩どもを無視するのも恐ろしいのだが――宿の主人と通じた連中は、もうこの部屋の位置も番号も既に知っているはずだ。客を装って訪ねてくるならまだいいが、もしものことがあっては困る。
 クラリッサも鬱々としながら室内を見回す。ひび割れた漆喰の壁、薄汚れた天井、強い潮風の吹く度にがたがた音を立てる窓。寝台こそ四つあるものの、椅子は一脚しかないみすぼらしい部屋だった。思えば立ち入った時から嫌な予感がしていたのだ。
「では、わたくしが不寝番をいたします」
 夫人の発言を受けてクラリッサが言い出せば、瞠目するメイベルとは対照的に、執事が短く笑った。
「君が?」
 どういう意味合いの笑いかは当のクラリッサにもわかる。
 わかるのだが、頭に来た。
「わたくしでも番ができないということはないでしょう」
 反論すると執事はますますおかしげに、
「君の繊手じゃ何かあっても抵抗できまい。無論、私の負担を軽くしようという君の心遣いはうれしいがね」
 しまいには片目を瞑ってみせたので、クラリッサはむかむかしながら息を吐く。
 腕っ節ではバートラムに遠く及ばず、道中の荒事は全て彼の担当となるのはわかりきっていた、そんな現状と彼自身を案じているとか、気遣おうなどという思いは全く、断じてない。
 ただ非力な自分にも何かできることがあれば、どうにかして夫人に心安らげる夜を過ごしてはもらえないかと考えている。それだけだ。
「バートラムさんはこの状況を、どうお考えなのですか」
 眼前の問題に的を絞れば、怒りも一旦引いてしまった。今宵をどう過ごすかを考えなくてはならない。生真面目に問い返すクラリッサに、バートラムは小さく頷く。
「どうというより、対策を考えてはいるとも。例えば――」
 彼の視線が動いた。
 室内に二つある窓のうち、クラリッサの立つ北向きの方ではなく、東の窓辺に目をやる。今はそこにもカーテンが下りているが、隔てられた向こう側には宿場街が延々と広がっているはずだった。クラリッサがそう思い当たった時、語を継ぎかけた執事が口を噤んだ。
 外から扉が叩かれたからだった。
 室内の空気が冷え込むように張り詰める。メイベルが眉根を寄せ、真っ先にバートラムを見る。それを当然のように受け止めて、バートラムは扉へ歩み寄る。
「誰だ」
 彼が険しい面持ちで声を発するのを、クラリッサは複雑な思いで見守っていた。もしもの時は自分も夫人を守らなくてはと、それでも覚悟は決めている。
 扉越しに返答がある。
「お食事をお持ちしました」
 宿の主人の声だ。メイベルが胸の前で手を握り合わせ、扉に相対する執事の肩はゆっくりと上下する。
 間合いを計るような沈黙があって、
「頼んではいないはずだが」
 そう応じれば、宿の主人は軽く笑った。閉じた扉越しにでは内心も表情も窺えないが、どことなく媚びるような笑い方だった。
「いえ、あれだけの心づけをいただいて、何のもてなしもないようではいかんと思いましてね」
 怪しい、とクラリッサも思う。もちろん言動を勘繰るまでもなく信用できない相手には違いないのだが、向こうはまだこちらを騙せていると考えているはずだ。そうでなければ白々しくもてなしなどと口にしまい。
 バートラムが扉を睨む。メイベルの方を見ずに答える。
「奥様は長旅でくたびれておいでだ。食事は扉の外に置いてくれ、我々で給仕をする」
 間があった。
 こちらの答えが予想と違っていたのだろうか、微かな嘆息が聞こえ、やがて言われた。
「……かしこまりました。食べ終えましたら台車ごと廊下へお出しください」
 一人分の靴音が扉の傍を離れ、思いのほかあっさりと遠ざかっていく。
 クラリッサは息を潜め、宿の主人の足音に耳をそばだてていた。音が完全に聞こえなくなってからも、しばらく身動ぎせずにいた。
 バートラムも、ややあってから扉を引き開けた。辺りを慎重に見回し、食事の載った台車も丹念に調べてからようやく室内へと運び込む。すぐさま鍵を掛けてみせると、メイベルが安堵の息をつく。
「頼んでもいないものを持ってくるだなんて、おかしな話ね。断ったら失礼だったかしら」
 執事は肩を竦めて曰く、
「ああいう輩にどう振る舞おうと失礼ということはないでしょうが、必要以上に警戒して、こちらの動きに先んじられては困ります」
「ということは、何か策がおありなんですね、バートラムさん」
 そこへクラリッサが食いつけば、またもおかしそうに笑われてしまう。
「あるにはあるがね。君は普段つれない割に、こういう時だけ私を頼りにしてくれているようじゃないか」
 からかう物言いにはやはりむっとしたが、今は言い争いをしている場合でもない。宿の主人が接触を図ってきたのも企みがあってのことだろう。次の手を打ってくる前に、メイベルを守る術を実行すべきだ。
「無論、大いに頼りにしております」
 自棄気味に答えたクラリッサをどう見たか、メイベルはくすっと声を立て、バートラムも愉快そうな顔つきになる。それから視線を、改めて東側の窓に転じた。
「向こうの通りに巡礼宿があるのを、連中との追いかけっこの際に見つけている」
 執事は落ち着き払って続ける、
「連中に気付かれぬようにそちらへ身を移そう。まさか彼奴らも、我々が巡礼宿に逃げ込むとは考えまい」
「巡礼宿?」
 聞き慣れない単語だった。クラリッサの疑問に、
「その名の通り、巡礼者の為の宿泊所だ。そうではない者もいるが……まあ、だからこそ我々が身を隠すに適しているとも言える」
 答えたバートラムは、次いで夫人へと尋ねる。
「それでは、向こうの宿と話を付けて参ります。よろしいですね?」
 夫人は迷わずに頷く。
「ええ。お願いします」
 全幅の信頼がうかがえる表情だった。
 それを受けたバートラムは折り目正しく一礼し、東側の窓へと歩み寄る。カーテンを開けて眼下を確かめてから、勢いよく窓を開け放った。
 途端に室内には潮風が吹き込んでくる。クラリッサが思わず顔を顰めた時、窓枠に手を置いたバートラムが声を掛けてきた。
「クラリッサ、悪いが私が出た後、窓を閉めてくれないか」
 ――出た後?
 今度は聞き慣れないわけでもなく、純粋に意味がわからなかった。ぽかんとしていれば執事は青い目で平然と微笑みかけてくる。
「この窓から外へ出る」
「正気ですか? だって、ここは――」
 通された部屋は三階にあった。おまけに辺りは日も暮れて、目を凝らしたくなるほど薄暗い。街明かりだけで路地の隅々までは照らせないこの時分に、窓から飛び出るというのは愚かな行為だと思えた。だが彼にはさして恐れた様子もなかった。
「心配しなくてもいい。上手くやってみせるさ」
 さすがにいつものように、心配していない、とは言えない。困惑するクラリッサに彼は続ける。
「私が戻るまで窓の傍にいてくれ。戻ってきて合図をしたら窓を開けるように」
 それから、真顔になって言い添えてくる。
「先程の食事、あれは決して口にしないように。奥様も、君もだ」
「どういうことです」
 信用できない人間からもてなされるつもりもなかったが、悪寒を覚えてクラリッサは聞き返す。潮風の中で珍しく真剣な面持ちのバートラムが答える。
「何が入っているかわからないからな」
 台車の上には覆いを掛けられた食器が並んでいる。中はまだ検めていないが、空腹を刺激するいい匂いはしていた。だが――。
「急いで戻る。しばらく、奥様を頼む」
 そう言い残し、バートラムは窓の外に消えた。窓枠を伝い、実に危なげなく地上へと降り立つ。彼の着地を確認してからクラリッサは窓を閉めた。
 溜息をつく。
「……あの方なら大丈夫よ」
 潮風の止んだ室内で、善良なメイベルが優しく口を開く。窓辺から振り向けば、信頼に満ちた微笑が留まった。
「レスターが頼りにしていた人なんですもの。きっと上手くやってくれるわ」
 そう言い切られれば異を唱えることも出来ない。クラリッサもその点だけは異論なしだった。だから別に心配はしていないが、なるべく早く戻ってきてくれればいいと思う。
 食事の載った台車は、視界に入るだけでしばらく、ぞっとした。
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