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自己中執事と生真面目メイド(3)

 しばらくの間、バートラムは黙っていた。
 彫りの深い顔立ちは思案を巡らせているようでありながら、内心を一切窺わせない表情をしていた。元々何を考えているのかわからない男だったが、物思いに耽る時は端整さが際立つようで、まるで別の人間に見える。今のクラリッサにはそれが不気味だった。
 しびれを切らしたクラリッサが口を開きかけると、彼は思い出したように苦笑を浮かべた。
「策がないことはない」
「本当ですか?」
 ほっと胸を撫で下ろせば、バートラムは小さくかぶりを振った。安心するのはまだ早い、とでも言いたげに。
「奥様が承諾してくださればの話だがね」
「良案であれば、わたくしからもお願いしてみるつもりです」
「それはありがたいな。是非とも進言して欲しい――夜逃げをする、という案を」
「夜逃げ……ですって?」
 告げられた言葉は突拍子もなく、呆気に取られてしまう。しかし執事の物言いは軽々しく、冗談のようにさえ聞こえた。
「ああ。金の亡者どもから逃げ遂せるにはそれしかないだろう。この屋敷を留守にして、ほとぼりが冷めるまでどこかに奥様を隠しておくんだ。ふらふら旅をするのもいいかもしれないな、幸い金はあるのだから」
 そして、にっこり微笑みかけられた。
「あの連中がどこまで追い駆けてくるのか見物じゃないかね、クラリッサ」
 執事の言動はクラリッサの神経を逆撫でした。まともに睡眠を取っていない頭は簡単に血が上り、感情は絶叫のように迸った。
「わたくしは真面目な話をしているのです! からかわないで!」
 鋭い声が執務室の壁を、床を打つ。恥を忍んで、最も助けを求めたくない相手を訪ねたというのに――こんな男に縋るしかない自分自身にも酷く腹が立った。そもそも彼を多少なりとも信用したのが間違いだったのだろう。
 怒鳴りつけられたバートラムは動じるそぶりもない。肩で息をするクラリッサを見つめた上で、一呼吸置いてから告げた。
「私も真面目な話をしているつもりだよ」
「でしたらなぜ、夜逃げなどという馬鹿げたことを――!」
「まあ落ち着きたまえ。こんな夜更けに大声を立てるのは感心しない」
 その言葉は事実なので、クラリッサも渋々従った。
 しかし深呼吸をしてから考え直してみても、夜逃げとはやはり承服しかねる案だった。この屋敷はレスターが終の棲家として、メイベルの為に建てたものだ。そしてレスターは屋敷から望める村の片隅に埋葬されている。遺してきた妻の身に何が起きているのかも知っていて、密かに心を痛めているのかもしれない。だからこそクラリッサはメイベルを救いたかったし、この地を離れることなど考えもしなかった。
 高ぶった感情のやり場に困り、クラリッサはきつく唇を噛んだ。次の言葉が出てこない。先程上げた自分の声で、頭がくらくらし始めていた。
「それは? 私にお茶を淹れてくれる気でいたのかね?」
 ふと、バートラムがクラリッサの手元に目を留めた。
 盆の上に茶器が一式揃っている。まさに彼の推察通りで、頼み事をするのに空手で行くのもまずかろうと考えたのだ。だが彼の案とやらを聞いた後では、茶を淹れてやる気も失せてしまった。
「そういうわけでは……」
 決まり悪さから口ごもるクラリッサ。
 それを知ってか知らずでか、バートラムはクラリッサの手から盆ごと茶器を攫っていった。驚いていれば、彼は片目を瞑ってみせる。
「君は疲れているようだ。私が代わりにお茶を淹れよう」
「い、いえ、まさか。執事のあなたにそんなことはさせられません」
「何、心配しなくてもいい。君が飲んだこともないような美味しいお茶を淹れてあげるよ」
 言うが早いか、バートラムは慣れた手つきで茶の用意を始めた。手持ち無沙汰のクラリッサに執務机の椅子を引いてくれ、黙ってそこへ座らせた。拒もうと思えば拒めたのだろうが、意地を張るのも大人気なく思い、クラリッサも不承不承腰を下ろす。しかし支度をする執事の手際のよさを見ているうち、一層腹が立ってきた。だから彼が茶を淹れている姿から顔を背け、全く見ないようにしていた。
 出来上がった茶もまた、悔しくなるほど美味しかった。茶葉は普段使いのものと変わらないはずなのに、香り高く、深みのある味わいだった。一口飲んだだけで違いがわかり、クラリッサは密かに歯噛みする。
「君の口に合ったかな」
 執事の問いには無言で頷いた。それでバートラムが青い目を細め、満足げに笑んだのを、何となく奇妙に思う。
 茶の美味しさのせいか、高ぶっていた感情がすうっと落ち着いてきたようだ。そういえば近頃は茶を味わう暇もなく、こうしてゆっくり座っていられる時間も久し振りだった。クラリッサはやけに穏やかな気分になり、そのうち次第に瞼も重くなってきた。
 前にちゃんと睡眠を取ったのは一体いつだっただろう。寝付けぬ夜が続いていたから、こんな感覚は随分と久し振りのような――。
「ゆっくりお休み、クラリッサ」
 そんな囁きを聞いたような気が、した。

 初めに気づいたのは、ひんやりした手の感触だった。
 誰かが額を撫でている。身寄りのなかったクラリッサにとって母親の記憶は曖昧で、けれどこの手の優しさはとても懐かしいと感じた。
 額から離れた手が、今度は手を握ってきた。柔らかな女性の手。皺があるのがわかる手。ほんの少しだけ力を込めて握られて、安らかな気持ちで目を開ける。
 ぼやけた視界、焦点は恐ろしい速さで結ばれた。眼前にはメイベルがいた。執務室ではなく、クラリッサの自室だった。そしてクラリッサ自身は寝台に横たわっていた。
「目が覚めたのね」
 メイベルは泣き出しそうな笑顔で、クラリッサの肩を抱き寄せる。訳もわからず戸惑う耳元、女主人の言葉が聞こえた。
「バートラムさんから聞いたの。あなたが倒れたって」
「……倒れた、のですか」
「ええ、覚えてない? 執務室に来た時から酷く疲れていた様子だったそうだけれど、椅子に座った途端、ぱたりと意識を失ってしまったんですって。知らせを聞いて、心臓が飛び出るほど驚いたわ」
 そう語り、メイベルはクラリッサの手を、労わるように撫でた。
「執務室でもあなたたちは、わたくしのことを案じてくれていたんですってね。それも全て、バートラムさんから聞いているわ。あなたたちがそんなに心配してくれたのに……」
 クラリッサはまだぼんやりとしたまま、メイベルの言葉を聞いていた。
 いやに頭が重い。すっきりと目覚められないのも疲れのせいなのだろうか。
「決めたわよ、クラリッサ」
 それでもメイベルが瞳を覗き込んでくると、しっかりしなくてはという気持ちになる。唇を結んだクラリッサに、メイベルはきっぱりと告げた。
「この家を出ましょう」
「――え? お、奥様?」
 耳を疑う宣言に、思わずクラリッサの声は裏返った。
 しかしメイベルが迷いなく頷く。
「夜逃げと言うと、言葉は悪いのでしょうけど。でもあの人の評判と、安らかな眠り。それにわたくしたちの穏やかな暮らしを守る為には仕方のないことだと思うの」
 思い出し始めていた。
 一番最初に『夜逃げ』という言葉を口にしたのは、誰だったか。
「バートラムさんからお話を聞いた時、初めは戸惑ったわ。夫が建ててくれたこの家や、夫の眠るお墓を置いて遠くへ逃げるだなんて……おばあちゃんのわたくしには大それたことに思えたんですもの。でもね……」
 執務室に来てから、バートラムとどんな会話を交わしたか。
「クラリッサ。あなたが倒れたと聞いた時、気持ちが決まったの。今はわたくしがここの主なんですもの、皆を守る義務だってあるのよね。そうでしょう? だから、決めたの」
 そしてその記憶が途切れてしまったのは、いつからだったか。どこまでの記憶が残っているか――。
「逃げましょう。煩わしいことや騒々しい人たちから一旦逃げて、ここを静かな場所に戻してあげましょう。レスターに……あの人にせめて、静かで安らかな眠りをあげたいの。わたくしの為にたくさんのことをしてくれた人なんだもの」
 メイベルの言葉は続く。
「そしてほとぼりが冷めたら、ここへ戻ってきましょう。ここはレスターがくれた終の棲家だから、戻ってくるまでは死ねないわ。それまでは逃げて逃げて、しぶとく生き続けてやるつもりよ」
 善良な女主人はいつになく力強い、凛々しい笑みを浮かべていた。
 無論、クラリッサの気持ちは常に一つだった。メイベルの為に尽くす、それだけだ。彼女が決めたことなら異存があるはずもない。彼女が夜逃げをするというならついて行こう。すぐにそう意を決した。
 しかし。
 一方で釈然としない思いも残っている。
「奥様、朝食の用意ができました」
 部屋の扉が開き、バートラムが姿を現した。
 振り向いたメイベルの肩越しに、執事の青い目と視線が合う。クラリッサの様子を確かめたバートラムは、いつか見たような満足げな笑みを浮かべた。あの青い目は場違いにも、くるくると躍っているように映った。
「ああ、クラリッサ。気がついたようでよかった」
「バートラムさん……」
 呼び返す声は震えた。
 対照的にバートラムは落ち着き払って口を開く。
「昨夜は驚いたよ。君が急に倒れたから、ついつい私も取り乱してしまった」
 倒れたわけではないとクラリッサは思う。
 バートラムの顔を見てその考えは確信へと変わった。振り返ればあの時の茶はすこぶる怪しかった。普段使いの茶葉なのに、普段とまるで違う味がした。
「でも思ったより顔色がいいみたい。一安心ね」
 何も知らないメイベルが、クラリッサに微笑みかける。
「さ、まずは食事にしましょう。しっかり食べて元気になって、それから旅支度を始めなくちゃね。長旅になるでしょうから、準備だけでも時間が掛かってしまうわ、きっと」
 メイベルはそう言うと、先に立って部屋を出て行った。
 残されたのは執事と小間使いの二人だけだった。しばらくの間、それぞれに言いたいことを抱えながら戸口を挟んで見つめ合う。
 やがてクラリッサはふつふつと怒りを煮え滾らせながら寝台の上で身を起こし、バートラムは笑顔で肩を竦めた。
「よいお目覚めかな、クラリッサ」
「……最悪です。わたくしに一体何をしたのですか」
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいな。君が酷く疲れているようだから、よく眠れるように美味しいお茶を淹れてあげただけだ」
 バートラムは言いながら寝台へと歩み寄ってくる。傍らに立ち手を差し出してきたが、当然借りる気にはなれない。
「わたくしを利用したのですね」
 クラリッサは奥歯をぎりっと鳴らした。
「気持ちよく眠れただろう? 君の寝顔は大変愛らしかったよ」
 執事は愛想よく答える。
「こちらの質問に答えていただきたいのですが」
「何のことかね。君を寝台に運んだのが誰か、というのなら、答えは私だが」
「そんなことは伺っておりません!」
「おや、どうでもいい話でもないだろう? 君を私がこの寝台まで、どんなふうに抱えて運んできたか、全く気にならないと?」
 気にならなくはない。だが、聞いたところで一層怒りが募るだけだろうということもわかっていた。
 悔しさに打ち震えるクラリッサを見下ろし、バートラムは屈託のない笑い声を上げた。
「本当のことを言えば、私は君に感謝しているんだ。おかげで奥様もお気持ちが固まった。金の亡者どもを突き放せる日も近い」
 叫び出したい気持ちをすんでのところで堪えつつ、クラリッサは寝台から下りる。眩暈がしたがバートラムの手はやはり取らなかった。直立してもう一度、睨みつけた。
「そこまで仰るなら、旅先では奥様をしっかりお守りしてくださいね、バートラムさん!」
「わかっているとも。執事として、奥様も君も守ってみせるよ」
 言い残し、バートラムも部屋を出て行こうとする。その途中で思い出したように足を止め、振り向きざまに告げてきた。
「ところで、クラリッサ。君は飲酒はしない方がいいと思うよ。あまり強くないようだからね」
「お言葉、心に留めておきます」
 クラリッサは憤然と答えたが、どれだけ怒ろうが苛立とうが、執事の笑顔を打ち消すことはできなかった。


 そして、それからしばらく経ち。
 レスターの家の玄関には、張り紙がされるようになっていた。
『しばらく留守にいたします。ご用の方は後日お越しください』
 張り紙の通り、メイベルは留守にしていた。使用人たちの中でも比較的若かった執事と小間使いを連れ、いつからか、遠くへ出かけたのだという。屋敷の管理の為だけに残された使用人たちによれば、お帰りはいつになるやらわからぬとのことだった。
 屋敷には調度を除き、金目のものはほとんど残されていなかった。使用人たちには先を見越した給金がたっぷりと支払われていたが、投資やら寄付やらの為の金銭は僅かなりとも用意されていないという。お蔭で客人たちの足はだんだんと遠退きつつある。メイベルを追い駆けていった者も数多くいたらしいが、とりあえずこの片田舎は平穏を取り戻し始めている。

 終の棲家は待っている。女主人の帰りを、ただひっそりと待っている。
 人の好いメイベルを遠くから案じる者もいた。けれど気の利きすぎる執事と生真面目すぎる小間使いが傍にいる。多分、大抵のことは何とかなるはずだった。
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