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笑う甘党主義者(3)

 そうしてまた次の日、夢を見た。
 ただし、今度のは悪夢だった。

 夏空の下、からからの田舎道を歩く海里くんに、暴走運転のバイクが突っ込んだ。
 一気に距離を詰めてきたエンジン音が急に膨れ上がったかと思うと、ほんの一瞬のうちに、目の前に立っていたはずの海里くんが大きな影に攫われ、私の視界から消えた。金属の塊が民家の塀に衝突し、潰れて砕けるものすごい音が辺りに響いた。
 あまりのことに立ち尽くす私は、怖くて、とても怖くて、海里くんの姿を探す気になれなかった。見つけてしまったら何もかもが終わってしまうような気がして、バイクを受け止めた塀にべっとり張りついた、赤い飛沫だけをいつまでも見つめていた――。

「……うあっ」
 自分の呻き声で目が覚めて、私の視界には、そろそろ見慣れてきた伯父さん家の天井が飛び込んできた。
 今のは……夢だ。まるで現実のようにはっきりして、色も着いていたけど、夢だ。
 心臓がばくばくとうるさい。耳鳴りもしている。全身にじっとり汗を掻いていて、着ていた夏物のワンピースが肌にまとわりついてくる。顎を伝う汗を手の甲で拭った後、私は深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
 そう、夢だ。今のは本当に、ただの悪夢のはずだ。
 気がつくと日が暮れ始めているようで、仏間の窓からは涼しい風が通り抜けてくる。外ではひぐらしが鳴いていて、耳鳴りと同調するようにぐるぐると頭の中に響いた。よろりと上体を起こせば、私の身体にガーゼケットがかけられているのに気づけた。
 それから、ゆっくりと思い出してくる。
 ――ああそうだ、私、昼寝をしていたんだっけ。
 今日はいちご白玉を作る約束をしていて、かき氷のシロップを買いに行く予定だった。ところが海里くんは『気が変わった』と言い出して、私を近くの川へザリガニ釣りに誘った。十九歳の女子大生相手にザリガニ釣りなんてどうなのよ、と思いつつもついて行ったら、これがなかなか愉快だった。田舎の浅い川では面白いようにザリガニが釣れたし、ただ水の中に足をつけているだけでも涼しくて、気分がよかった。私は海里くんと年甲斐もなく川遊びを楽しみ、そしていい具合にくたくたになって伯父さん家に帰ってきた。
 お昼ご飯を食べた後、海里くんは『水遊びの後は身体休めた方がいいよ』と言って私に昼寝をするよう勧めてきた。明日は朝のうちに電車に乗らなくてはいけないから、今日はもうゆっくりした方がいいと言われた。その言葉ももっともだと私は思い、厚意に甘えて少し昼寝をさせてもらうことにした。
 そして夢を見た。酷い悪夢だった。海里くんがあんな目に遭うなんて、夢でも嫌だ。恐ろしい。楽しく遊んだ後なのに、どうしてあんな夢なんか――。
「……海里くん」
 ふと、気づいた。
 私はガーゼケットを放り出して立ち上がる。
 仏間を飛び出し、家の中に彼の姿を探した。あいにくすぐには見つからなかったけど、仕事を終えた伯母さんが帰ってきており、居間で本を読んでいた。
 こちらの気配に気づくと、伯母さんは顔を上げて私を見た。
「あら、のんちゃん。もう起きたの?」
 私は答えず、焦れる思いで居間の中を見回す。動くものは伯母さんの他は、首を振る扇風機だけだった。海里くんの姿はない。
「あのっ、伯母さん、海里くんは!」
 ずっと寝ていたせいか、尋ねる私の声はかすれた。伯母さんは一度きょとんとしたものの、やぶからぼうの私の問いが面白かったようで、すぐに優しく微笑んだ。
「海里ならお買い物。のんちゃんに食べさせたいものがあったみたいでね」
「買い物……? 出かけてるんですか?」
「ええ。本当は、のんちゃんが起きる前に帰ってきたいって言ってたんだけどねえ」
 伯母さんの冷やかすような口調が、まるで酷く場違いなものに聞こえた。
 私は薄ら寒い思いで現状を把握する。海里くん、一人で出かけたんだ。まさか――まさか、あの夢まで本当に、正夢になったりは――。
 いいや。私がこの家で見た夢は、今日までずっと当たり続けてきた。昼寝の最中に夢を見たのは初めてだったし、起きた直後に夢の内容をはっきり把握しているのも初めてだ。でももし、これが祖父からのお告げだったとしたら。祖父が私に、一番強く伝えたかったことだとしたら。
「私も、出かけてきます!」
 私は伯母にそう告げると、踵を返して居間を出た。背後から伯母が、怪訝そうに呼び止める声が聞こえてきたけど、返事をする余裕すらなかった。
 急いで靴を履き、玄関から駆け出した。
 向かう先は昨日、海里くんと歩いた商店街までの道のりだ。ワンピースのまとわりつく裾を蹴り飛ばし、ひたすら走った。死ぬ気で走った。
 何としてでも絶対に、海里くんを見つけて、助けなければいけない。

 西日の照らす乾いた道を、一体どのくらい走っただろう。
 あちこちで鳴くひぐらしの声に頭を揺さぶられつつ、人通りの少ない田舎道を絶望的な気持ちで走り続けると、やがて前方の十字路の奥にぽつんと、人影が浮かび上がった。遠くからでも見覚えのある歩き方だと思ったけど、ここまで必死に走ってきたせいで、もう声すら出なかった。
 最後の力を振り絞り、絶え絶えの呼吸でそちらへ駆け寄る。
 向こうもこっちに気づき、驚いたように立ち止まった。彼の手元では重そうな白いビニール袋が揺れていた。
「のどかさん!? え、ここで何して――」
 海里くんがそう言いかけた時だ。
 夢と同じように、バイクのエンジン音が、恐ろしい勢いで近づいてきた。それは瞬きほどの速さで私の背後まで迫り、辺りにひしめくひぐらしの声を呑み込んだ。
「海里くんっ!」
 私の叫んだ声も、果たしてまともに響いたかどうかわからない。
 ただもう、無我夢中だった。地面を蹴り、全身の力を込めて海里くんに飛びついた。そのまま体重をかけ、彼を庇うように押し倒す。彼は両手を上げながら背中から倒れ込んだようだった。そして彼の手から離れた何かが、私の耳元を掠めてすっ飛んでいった。
 その一瞬、運命の審判を待つような気持ちだった。
 すぐに、地響きのようなエンジン音は重い衝突音へと切り替わった。金属が硬い何かにぶつかり、潰れ、砕ける音と、ガラスの割れるような音がそこらじゅうにけたたましく響いた。私の身体は恐怖のせいか、もはや石のように動かなくなっていて、硬く閉じた目を開ける力もなかった。やがて騒音が止み、近所の人たちがわらわらと駆け寄ってくるまでしばらく、海里くんを抱き締めたままでいた。
「のどかさん……」
 どのくらい経ってからだろう。私の耳に、ようやく海里くんの声が聞こえた。
 彼は身を起こそうとしたようだ。私の肩を優しく掴み、少しだけ引き起こした後、今度は逆に抱き締められた。それで私が恐る恐る、震えながら目を開けると、目の前には彼の日焼けした顔があった。祖父によく似たアーモンド形の目は、今は驚きに見開かれていた。
「助けて……くれたんだよな。でも、どうして……」
 海里くんは不思議そうにしている。それはそうだろう。私だって不思議だ。
 でも今となってはもう、祖父のご加護だとしか思えなかった。
「夢で見たんだよ」
 喉がひりひりしている。私の声が醜くしゃがれていて、だけど言わずにはいられなかった。
「きっと、おじいちゃんが知らせてくれたんだと思う」
 気がつけば辺りは一層騒がしくなっていて、集まってきた人々が警察や救急車を呼んだり、道に投げ出されたバイクの運転手に話しかけたりしている。バイクの運転手がどれほど怪我をしているのかはわからないけど、意識はちゃんとあるのか、一応の受け答えはできているようだった。
「のどかさんを驚かそうと思ったんだけどな」
 海里くんは長い溜息をついた。そしてバイクがぶつかった、近所の民家の塀を指差す。
「あれじゃもう、持って帰れそうにないよ」
 塀にはべっとりと赤い飛沫が張りついていた。夢で見たのと同じだ、私は一瞬震え上がり、目を背けたくなったけど、すぐにそれが想像したものと違うことに気づいた。思ったよりも透き通った、ピンクに近い赤だった。
「かき氷の、シロップ?」
 私が問うと、海里くんは少し寂しそうに頷いた。
 そうか。そういうことだったんだ。夢は、確かに本当になった。
「何だ、いちごシロップかよ……。紛らわしいったら……!」
 ほっとして気が緩んだせいか、紛らわしいのを笑ってやろうと思ったのに、何だか急に涙が出てきた。
 私は地面に座り込んだまま、年甲斐もなくぼろぼろ泣いた。周囲の人たちに、必要以上に心配されるくらいみっともなく泣いてしまった。
 そんな私を海里くんは、黙ってずっと抱き締めてくれていた。

 その後、私たちもいろいろ聞かれた。近所の人たちにも、警察にもだ。
 私はずっと泣いていることしかできなくて、海里くんが私の代わりにちゃんと答えてくれた。そして、私も海里くんもどこも怪我をしていなかったおかげで、その日のうちに伯父さん家に帰ることができた。
 家に帰ってから事情を話すと、伯父さんと伯母さんにはいたく感謝されてしまった。予知夢の話は海里くんにしかしていなかったし、今更話して信じてもらえなかったら悲しい気がしたから、黙っていた。でも急にそんなこと言われたって、誰だってすぐには信じられないに決まっている。実は頭でも打っていたかと思われるくらいなら、あとで落ち着いた時に打ち明けようと、海里くんと話していた。
 でも私はやっぱり、あれは祖父のご加護だと思っている。何日も続いた予知夢は、夢の話を私に信じさせる為の下準備みたいなもので、本当に伝えたかったのはあの事故の夢なんだって思う。
 海里くんは、私とは少し考えが違うようだったけど。
「確かにその夢は、じいちゃんが見せたものかもしれない」
 泣き腫らした私の目を覗き込みながら、彼は言った。
「でも俺にとっては、のどかさんが俺を助けに来てくれたことが一番、大事だと思ってる」
 日に焼けた顔が珍しく真面目な表情をしていたから、私はその時、何も答えられなかった。
 ありがとうとお礼を言われても、頷くくらいしかできなかった。

 こうして、田舎町で過ごす夏は終わろうとしていた。
 私は、当面の間は予知夢だの、オカルトだの、少し不思議だのは結構だと思うようになった。ちょっとの刺激も場合によってはいいものかもしれないけど、心臓に悪いし、あんな思いはもうたくさんだ。こんなに静かな田舎なんだから、平和で、いっそ何にもないくらいがいい。
 そう思っていたのに――伯父の家で迎えた最後の夜にも、夢を見た。

 家に帰る為に、駅のホームへ出た。見送りに来てくれた海里くんも一緒だった。
 電車が到着するまでには少し時間があって、私と海里くんは、他に人気のないホームでぽつぽつと会話を交わした。
 そのうちに海里くんは、昨日思い出したという話を私に打ち明けてきた。それによれば彼は、やんちゃな祖父に私が泣かされるのを見るのが、とても嫌だったそうだ。そういえば子供の頃、私が祖父に泣かされる度、小さな海里くんはいつも怒って割り込んできていたっけ。のんちゃんをいじめるな、って。
 なのに昨日、結果的に私を泣かせてしまって、すごく胸が苦しくなったと言っていた。
 私は、それは海里くんのせいじゃないよと告げたけど、海里くんは強くかぶりを振った。そしていつになく大人びた顔でこう言った。

 次に会う時は、のどかさんを泣かせないような男になってるよ。
 似てるだけじゃなくて、じいちゃんなんかはるかに飛び越すくらい、いい男になる。
 だから――。

 とんでもない夢だった。
 おかげで目覚めてからも動悸が激しく、頬も熱くてしょうがない。夢の中で見た海里くんの大人っぽい顔も、手を握られた時の感触も、そのまま手ごと強く引き寄せられた時の内心の動揺も、全てついさっきあったことのように感じられた。おかげで私はこれから電車に乗るというのに、おばさんがせっかく用意してくれた朝食をまともに食べられなかった。
 当然、こんな夢を見てしまった以上、私は海里くんの顔を直視できなかったわけだけど――海里くんの方も昨日の一件のせいか、私の前ではどこか決まり悪そうにしていた。朝食の後、少し落ち着きのない様子で言われた。
「荷物もあるし、俺、駅まで送るから。見送らせてよ、のどかさん」
 もちろん、昨夜のはただの夢だ。
 あんな夢を見るなんて、まさか欲求不満なんだろうか。こう見えても一応年頃だし、オカルト沙汰に食傷した後は、恋愛沙汰に夢を見ようとしているのかもしれない。それなら別におかしなことでもないだろう。
 しかし、しかしだ。ここで見る夢はこれまで百発百中である。昨日の夢だけは少しばかり違うところがあったような気もするけど、そうだとしても私はこれから起こるかもしれない夢の通りの出来事を平然と受け止められる気がしない。駄目だ絶対うろたえる。って言うか、マジで何と答えよう。

 出発前に挨拶をしようと、私はお仏壇の前に座った。
 昨日、海里くんを助けてくれたお礼を――もし祖父のしてくれたことだったら、ちゃんと言っておきたいと思って。
 三回鉦を鳴らしてから手を合わせ、そして閉じていた目を開けると、遺影の中の祖父は相変わらず不遜に笑っていた。まるで昨日の一件も、私が今日見た夢も、そしてこれから起こる出来事も全てお見通しという顔だった。
 ここで見た夢が本当は、誰の仕業なのかはわからない。
 でもあの祖父ならやりかねない。私はいまだに担がれているのかもしれない。今も、すっかりのぼせてどぎまぎしている私を見て、どこかで笑っているかもしれない。
「おじいちゃんめ……!」
 とんでもない夢を見せやがって、と今回ばかりは毒づかずにいられない。
 遺影の祖父は私の気も知らず、大変楽しそうに笑っていた。
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