Tiny garden

幸せな朝

 明け方にふと目が覚めて、隣に郁子さんの寝顔があるとほっとする。
 いや、ちょっと違う。ほっとするだけじゃなくて、他にもいろいろな気持ちが胸を過ぎる。目覚めた時に隣に郁子さんがいるって幸せだなとか、一緒に寝てるのって暖かいなとか、今日休みなのに早く目が覚めちゃったけど、郁子さんの寝てる顔が見られたからラッキーだったなとか、郁子さんの寝顔可愛いなあとか、でも昨夜の郁子さんも可愛かったなとか、いろんな気持ちが込み上げてきて胸を満たす。
 郁子さんは長い睫毛を伏せて、まるで眠り姫のように美しい寝顔を晒している。いつぞやの映画館で見たような、石膏細工めいた血の気のなさは今はなく、カーテンの隙間から差し込む朝の光に長い髪がきらきら輝いている。薄く開いた唇はいつものように薔薇色で、ふと自分の唇を押しつけたい衝動に駆られた。起こしたら悪いから断念したけど。
 代わりに布団を被り直して、その中で郁子さんを抱き寄せる。まどろむ彼女が少し微笑んだのを幸せな気持ちで眺めつつ、俺も再び目をつむる。
 今日は休みだ。このままいい気分で二度寝でもしよう。

 休みの日を、郁子さんと二人で過ごすようになってからしばらく経った。
 久しぶりの恋で、一人の時間にすっかり慣れていたという郁子さんとどんなふうに付き合っていくか、それは俺にとっても気をつけなければいけない点だと思っていた。もちろん俺は郁子さんが好きだし、一緒にいられる時間は全て一緒にいたいと感じていた。でもそういう気持ちが郁子さんを束縛することになるならいくらかセーブしなくてはいけない。郁子さんにとって、二人でいる時間が一人の時間よりも窮屈で過ごしづらいものにならなければいいと懸念していた。
 ところが蓋を開けてみれば、俺達は休日の度にこうして二人で過ごしている。休日の前日に彼女の部屋を訪ねて、そのまま泊まって、お互いの都合がよければ土日ずっと一緒にいる。ここ最近はほとんどそんな調子だ。
 俺は郁子さんとならそういうべったりした付き合いも大歓迎、全く構わないと思っている。
 でも、郁子さんはどうなんだろう。俺と同じように思ってくれているならいい、でも少しでも窮屈だとか、たまには一人の時間が欲しいとか考えているなら――。

 次に目が覚めた時、辺りには炊き立てのご飯と味噌汁の美味そうな匂いが漂っていた。
 ぼんやりした頭でああ、そういやお腹空いたななんて思った後、はっとして目を開ければベッドには俺一人。さっきまで俺の腕の中にいたはずの郁子さんの姿がない。
 慌ててベッドから下り、昨夜脱ぎ散らかした服を探す。記憶の通りなら床の上に散らばっているはずなのに、丁寧に折り畳まれてベッド脇のデスクの上に置かれていた。
「あー……」
 俺は恥じ入りながらその服を着る。そこまでしなくていいって、いつも言ってるのに。
 朝飯だってそうだ。せっかくの休日、早起きしてまで作らなくてもいいと何度か言った。なのに郁子さんはいつも俺より早く起きて朝食の支度をする。しかもいつも、手を抜かない。
 着替えを終えて寝室を飛び出すと、キッチンに立つ郁子さんがこちらを振り返る。
「おはよう、泰治くん」
 休日はいつも髪を緩く束ねていて、化粧はまだしていない。白いブラウスと黒いフレアスカートの上にエプロンをして、俺を見てにっこり微笑んでいる。
「お、おはよう……」
 かろうじて服は着たけどまだ顔も洗っていない俺は、少々気後れしながら返事をした。
 すると郁子さんはもう一度笑んで、それから俺に背を向ける。
「すぐご飯にする? 目玉焼き、もうすぐ焼けるよ」
 その言葉通り、キッチンからはじゅうじゅうと何かが焼けるいい音が聞こえていた。郁子さんもそろそろ俺を起こそうと思っていたのかもしれない。それで気づいて時計を見れば、もう朝の九時だった。
「うん、そうする」
 俺は頷いてから、すぐに言い添えた。
「ごめん、起きるの遅くて……起こしてくれていいのに」
 すると郁子さんが細い肩を揺らし、振り向かずに笑ってみせた。
「もう少ししたら起こそうと思ってたの」
 束ねた髪とエプロンの紐が動きに合わせて揺れる。
「今度から郁子さんが起きる時、一緒に起こしていいよ」
「それは駄目。朝ご飯ができるまで待たせちゃうでしょう」
「なら俺も手伝うからさ……」
 言い返しながら、次第に駄々を捏ねているだけのような気分になってくる。それに気づいた俺が口を噤むと、郁子さんはまた振り向かずに笑った。
「ほら、顔洗ってきて。すぐご飯にできるよ」
 郁子さんは悪くない。不満があるなら俺も早く起きて支度するなり、手伝うなりすればいいだけの話だ。でも何となく、仕返ししたくなった。それはそれでいい歳した大人が抱く感情じゃないだろうけど、それでもだ。
 俺は返事をせず、足音を忍ばせて彼女の背中に近づく。フライパンの上で引っ繰り返された目玉焼きがじゅうじゅう音を立てている。郁子さんの目玉焼きはいつもターンオーバーだ。それでいて黄身は壊さない。ポリシーがあるらしい。
 郁子さんは機嫌がいいんだろうか、すぐ傍まで歩み寄れば微かな鼻歌が聞こえた。背後に立ち、ひらひら揺れるエプロンの紐に手を伸ばして引っ張ると、郁子さんが勢いよくこちらを向いた。
「わっ、びっくりした」
 目を瞠る郁子さんの腰を抱いて引き寄せる。そのまま顔を近づけると、郁子さんは薔薇色の唇を微笑ませながら俺を睨んだ。
「泰治くん、いたずらっこ」
「郁子さんが悪いんだ、俺を置いて先に起きるから」
「それで起こしてくれなかったって拗ねてるの?」
「拗ねてない。郁子さんこそ、早起きしなくていいって言ってるのに」
「私はしたいからしてるだけだよ」
「……じゃあ俺も、したいからする」
 きれいな色の唇にそっと噛みついたら、郁子さんは黙って目を閉じた。
 でもエプロンを外そうとしたのは、照れながら拒まれた。
「朝ご飯だって言ったでしょう、泰治くん」
 仕方ない。俺も郁子さんのご飯は美味しいうちに食べたかったから、素直に顔を洗いに行った。

 今朝のメニューはご飯、なめこの味噌汁、目玉焼き、ほうれん草のおひたし。
「質素なものだけど」
 郁子さんはそう言うものの、朝の起き抜けにこれだけ用意するのがどれほどの手間か、一人暮らし歴の長い俺はよく知っている。自称自炊派として、郁子さんの手際のよさにはいつも頭が上がらなかった。
 だからこそ、言いたくもなる。
「俺のこと、そんなに甘やかさなくてもいいよ」
 目玉焼きに醤油をかけながら俺が言うと、郁子さんは可愛らしくきょとんとした。
「甘やかす……?」
「うん。朝とか叩き起こしていいし、何でも手伝えって言っていいし」
 休みの度にこうして彼女の部屋にお邪魔して、二度寝の上に寝坊して朝飯ごちそうになってるだけじゃ格好つかない。もっと厳しくしてくれてもいいのに。
「泰治くんはお仕事で大変そうだもの、お休みの日はゆっくりしてて」
 たしなめるように郁子さんはそう言った。
 同じ職場というのはこういう時に厄介だった。お互いの仕事量やら疲労の蓄積度合いやらが日々手に取るようにわかってしまう。もっとも俺も本当にくたびれてずっと寝ていたいという日は郁子さんの部屋を訪ねる余裕だってないだろう。だからこうして彼女の部屋にいるということは、叩き起こされても構わない程度の余裕はあるってことだ。
「それに私、尽くしてるつもりなんだけどな」
 ふと郁子さんが呟いたので、俺は箸を止めて聞き返す。
「尽くすと甘やかすって似たようなもんじゃない?」
「そうかな……。確かにどう違うって聞かれたら、上手く答えられないけど」
 言いながら郁子さんは塩をかけた目玉焼きの切れ端を口に運んだ。そしてしばらくしてから思いついたように、続けた。
「私は、自分が泰治くんより年上だからこういうことをしてるんじゃないから」
「うん、わかってる。それが郁子さんの言う『尽くす』ってこと?」
「そうだと思うな。好きな人だから、何でもしてあげたくなるって言うか……」
 郁子さんからそんな言葉を貰うのは悪い気がしない。というより、正直嬉しい。
 でも俺にとっても郁子さんは好きな人だし、機会があれば尽くしたい相手だ。してもらうばかりだと何と言うか、不安になる。郁子さんも俺に言いたいことがあるなら言って欲しいし、俺がいると休めないとか、面倒を見るのが大変だと思ったらそれも正直に打ち明けて欲しいと思う。
「甘やかしとくとあとで困らない? 何にもしない旦那さんになるかもしれない」
 俺が脅かすと、郁子さんはおかしそうにくすくす笑った。
「泰治くんはそういう人じゃないでしょう?」
「どうかな、今から仕込んどいて損はないと思うけど」
「じゃあ、必要になったら頼むね」
 上手くかわされたような気がした返答の後、彼女は俺を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫だよ。私はそういうの、いつでもちゃんと泰治くんには言えるから」
「え……」
「黙って溜め込んでおいたりしない。だから安心してね」
 見透かされたみたいに的確な言葉は、どうして出てきたんだろう。どきっとする俺を見て、郁子さんはまたくすくす笑った。
「図星だった?」
「だった。顔に出てた?」
「ちょっとね。泰治くんが拗ねるのは大体そういうことでしょう」
 郁子さんは得意げだった。
 図星を刺された俺は黙って味噌汁を啜り、そして思う。
 気にするほど大きな歳の差ではないけど、時々こんなふうに痛感させられることがある。郁子さんは大人だ。俺があれこれ余計な気を回す必要なんてどこにもないんだろうし、ましてや不安になる必要なんて一切ないみたいだ。
 それでも俺は、俺を甘やかす必要はないよという主張は続けていきたいと思っているけど。
「……一個だけ、お願いなんだけど」
 俺は郁子さんにそう前置きして、駄目出しをした。
「俺の服、畳んでおかなくてもいいよ。見苦しかったなら今度から気をつける」
 すると郁子さんはほんのちょっと赤くなって、
「そ、そういうんじゃないけど……起きた時に泰治くんが困るんじゃないかと思って」
「困らないから、できればそっとしといて」
「それに、ほら、脱ぐ時は畳んでる暇ないと思うし……」
 確かにそれはそうだ。服を脱ぐ時は意識が別の方向に集中してて、いちいち拾っては畳んでいる余裕なんてない。でも郁子さんが気にするなら、今度からはいちいち畳むようにしようか。あるいは、
「じゃあ俺が先に起きて、郁子さんの服を畳んでおくようにしようかな」
 半分は冗談のつもりだったけど、効果はてきめんだった。郁子さんは全力でかぶりを振った。
「だ、だめだめ! 恥ずかしいから!」
「俺だってそうだよ。だからしなくていい」
「うん……」
 郁子さんは恥ずかしそうに顎を引く。
 その後で、今度は自分が拗ねたみたいな口調でぼやいた。
「今のは、いつでも言っていいことじゃないと思うんだけど……」
「朝ご飯中じゃまずかった?」
「まずいって言うか……」
「あ、そうか。昨夜のこと思い出しちゃうから困るって?」
 俺は笑わないように聞き返そうと思ったけど、駄目だった。
 郁子さんはすっかり上気した顔で俺を睨んでくる。
「泰治くん!」
 怒られた。
 でも怒ってる郁子さんも可愛いな、なんて思ってしまう。その気持ちがまた胸を満たして、しみじみと二人でいる幸せを噛み締める。
 俺が幸せそうにしているのも、郁子さんにはお見通しなんだろう。しばらく俺を睨んでいた彼女は、やがて困ったように息をつき、その後しっとりと微笑んだ。
「……泰治くん、ご飯お替わりは?」
「あ、貰おうかな。今朝もすごく美味しいよ、ありがとう」
「どういたしまして」
 そう応じた郁子さんも、とても幸せそうに見えた。
 甘やかされてるんじゃなくて、尽くされてる。それってこういうことなのかもなと、郁子さんの表情を見ながらふと思った。
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