Tiny garden

愛になる前 (2)

 桜を見ながら、郁子さんが作ってくれたお弁当を食べた。
 地べたに座るとやはり春の風の冷たさを直に感じる。四月と言ってもまだまだ過ごしやすい気温には程遠い。もう少し暖かくなったらピクニックも楽しめるのになと思う。
「今日はミネストローネを作ってきたの」
 でも寒さに震え上がりそうになる絶妙のタイミングで、郁子さんがあのスープマグを差し出してくれた。本日のスープはトマト味だった。
「温かいものも要るかなって思って。座ってご飯食べると、意外に冷えたりするから」
 そう語る彼女を、俺はスープの湯気越しに見て、それこそほんのり温かい気持ちになる。こういうところの心遣いはさすがだ。ふうふう言いながらスープを口に運ぶと、たちどころに身体が温まる。
「ありがとう。これがあればあと五時間はいけるよ」
 俺の言葉に郁子さんがまた笑う。
「そんなには持たないんじゃないかな。スープだって冷めちゃうよ」
「やっぱり?」
 つられて笑い返しつつも、あながち誇張でもないのにな、なんて密かに思ってみる。
 俺は郁子さんの作る料理も好きだ。どれも美味しくて、まだ食べ慣れたというほどではないのにどこか懐かしい。どんな献立でも、基本に忠実って感じがするのもいい。
 あとミネストローネの野菜が全て小さな、整った正方形に切られてたところも、郁子さんらしい几帳面さだと感じた。評論家風に言うなら、手を抜かない丁寧な仕事ってやつだ。
「でも、そう思えるくらい美味しいスープだよ」
 心からの賛辞を俺は口にする。
 ――是非、毎日食べたいな。
 というベタな台詞は、さすがに呑み込んだものの。
 いや、言いたくないわけじゃない。言ってしまいたいという衝動にむしろ駆られていたが、俺が口にすべきなのはそういう台詞ではないだろう。ベタ過ぎるし。
 彼女には、もっと伝えておかなければいけないことがある。
「誉めてくれてありがとう」
 郁子さんは俺の内心には当然気づかず、嬉しそうな顔をしていた。
「私も泰治くんに『美味しい』って言って食べてもらえるの、幸せだな」
 そこまで言われて黙ってはいられない。
「本当に? じゃあいくらでも幸せにしてあげるよ、郁子さん」
 俺は大いに張り切った。

 その後にいただいたお花見弁当を、俺はここぞとばかりに誉めまくった。
 実際のところ、郁子さんのお弁当もやはりすごく美味しくて誉め言葉には悩まずに済んだ。おにぎりは塩加減がちょうどよく、卵焼きは控えめな甘みがあと引く美味しさだった。俺が再リクエストしたコロッケは今日もからりと揚がっていて、冷めても衣がさくさくしているのが非常に好みだった。
 そして本日のコロッケには、動物の顔がついたカラフルなピックが刺さっていた。クマやうさぎ、犬なんかの顔が持ち手にあしらわれたピックはどれもきれいに彩色されていて、お弁当箱の賑わいに一役買っていた。
「郁子さんの趣味、可愛いよね」
 最後に俺がピックを誉めると、郁子さんはまるで痛いところを突かれたという顔をしてみせる。
「ご、ごめんね。年甲斐もない趣味だとは自分でも思うんだけど」
「何で謝るの? 俺はいいと思うよ、こういうのも」
「そうかな……。私、もうちょっと落ち着いた方がよくない?」
 どことなく恥ずかしそうに自らもピックを摘む郁子さんは、でもすごく落ち着いた女性だと思う。そういう人がこういう可愛い物好きっていうのも悪くないギャップじゃないかな。俺は決して嫌いじゃない。
「郁子さんは落ち着いてるじゃないか。俺なんかよりずっと」
 可愛い一面もあっても、時々驚くようなあどけなさを見せることはあっても、やっぱり郁子さんは俺にとって年上の人だ。細やかな気の遣い方は敵わないといつも思っている。
「そんなことないよ。泰治くんはもう知ってるじゃない」
 なんて、郁子さんは謙遜ともつかない照れ笑いを浮かべている。
 そうかな、と更に否定の言葉を口にしようとした時だ。
 郁子さんの視線がふと遠くへ動いて、次の瞬間、その表情に何かが閃いた。
「あっ。あれ、さっちゃんじゃない?」
 はっとした様子で口走ったかと思うと、遊歩道の向こうへ手を振り始める。
「さっちゃーん!」
 にこにこして無邪気に手を振るその感じ、落ち着きがないとは言わないけど、やっぱり時々あどけなくて可愛いな。
 ともあれ彼女が叫んだ通り、遊歩道をゆっくりと歩いてくる家族連れ、その中の一人には見覚えがあった。以前スーパーで出会い、挨拶をさせてもらった『さっちゃん』こと松本さんだ。髪の短い彼女は本日は大きなベビーカーを押している。機嫌がいいのかしきりに足をぱたぱたさせた赤ちゃんがその中には乗っていた。
「郁子! お花見来てたの?」
 片手で手を振り返しながら、もう片方の手でベビーカーを押しながら近づいてきた『さっちゃん』は、すぐに郁子さんの隣にいる俺にも気づいたようだ。途端に冷やかすような微笑みを浮かべた。
「しかも彼氏と。いいですねえ、お弁当作ってお花見デートですか」
「うん……まあね。おかげさまで」
 郁子さんは頬を赤らめつつも頷いてくれた。ので、別に以前のことを引きずっていたわけではないがちょっとばかり嬉しくなる。
「後藤さんも、郁子のことよろしくお願いしますね。この子料理上手くていい子なんですよ、ちょっと天然入ってるけど」
 と、『さっちゃん』は俺にも水を向けてきた。
「任せてください。大切にしますから」
 俺が胸を張って答えると『さっちゃん』は嬉しそうににやっとして、郁子さんはびっくりした顔でこっちを見た。でも俺も郁子さんに視線を向けたら、彼女はやがてゆっくりと表情を綻ばせてくれた。
 その後で俺と郁子さんは、後から追い着いてきた『さっちゃん』のご家族にも軽くご挨拶をした。松本さんご一家は『さっちゃん』の旦那さんだという優しい顔つきの青年と、ちっちゃなテンガロンハットを被ってベビーカーの座席に納まりご機嫌の娘さん、それから赤ちゃんのおじいさんおばあさんと思しき上品そうな老夫婦からなる五人構成だった。本日はやはりお花見に来たそうで、皆楽しそうににこにこしていた。
 それぞれに挨拶をして頭を下げあうと、最後に『さっちゃん』がこう言った。
「でも、何か面白いね。昔、私と郁子と、他の子たちとよく来た公園にさ――」
 頭上に広がるわたあめみたいなピンクの桜を見上げながら、
「こうしてお互い、家族とか彼氏とか連れてくるようになったのって」
「そうだね」
 郁子さんが頷く。
「時の流れを感じちゃうね」
 しみじみと、満更でもないような口調で二人が呟くのを、俺は少し羨ましい気持ちで聞いていた。

 松本さんご一家が遊歩道の先へとまた歩き出し、花びら舞う風の向こうに見えなくなると、郁子さんは俺に向かってぽつりと語った。
「この公園、友達とよく来たんだ」
 寂しげでもなく、温かい声音をしていた。
「あの頃はどこへ行くにも、皆と一緒だった。近場に遊びに行くのでも、遠くへ旅行に行くのでもね。すごく大切な友達で、一緒にいてすごく楽しかった」
 俺は、その頃の郁子さんを知らない。この公園の去年の桜を知らないのと同じように、昔の郁子さんを見たことはない。彼女がどんな子だったのか、どれほど友達を大切にしてきたのかは、自力で適当に想像するより他ないわけだ。
 でも、何となくイメージは浮かんでくるようだった。今より少し気が強くて、今と同じくらいあどけなくて、誰かといる時はいつも笑っている郁子さんの姿が。
 それから一人で過ごす長い時間を経て、俺と出会って――今の郁子さんは時々あどけなくて可愛い、でもすごく落ち着いた女性だ。たまに、この人は寂しさを知っている人なんだろうなと思うことがある。俺は郁子さんにはそういう思いを、もうさせたくない。
 もしかしたらその時、郁子さんも同じことを思っていたのかもしれない。
「ね、泰治くん」
 お弁当の残りを頬張る俺に、彼女が柔らかく問いかけてくる。
「今度は、一緒に旅行へ行かない? 私、一人であちこち行ってて知らない土地も平気だし、旅行慣れしてて地図見るのも得意だから、どこでも少しくらいなら案内できると思うよ」
 それはすごく魅力的な誘いだ。俺は郁子さんとだったらどこへ行っても楽しめると思うし、絶対に幸せな旅行になることだろう。
 でもあいにくと俺には、他に行きたいところがあるんだ。
「それもいいけどさ」
 俺は肩を寄せてくる郁子さんの顔を覗き込み、ねだってみることにする。
「せっかくだから郁子さんには、まずこの街を案内して欲しいな」
「ここを?」
 郁子さんは俺の頼みが意外だったのか、目を丸くしていた。
「うん。去年は土地勘もないし、仕事も忙しくてあまり見て歩けなかったからさ」
「いいけど……見て面白いところはそんなにないよ?」
「いいよ。郁子さんの思い出の場所とか、教えてくれたらそれで」
 日本のどこにでもありそうな、さほど都会でもないこの街は、でも俺の好きな人が生まれ育って、たくさんの思い出を作ってきた場所だ。
「せっかく異動してきたんだから、もっと好きになっておきたいって思うんだ」
 言いながら、ちょっと格好つけた台詞のような気がして照れもした。
 だが、嘘じゃない。これもきっと何かのご縁だ。
「それに郁子さんには、ここで俺との思い出ももっとたくさん作って欲しくて」
 ますます照れた俺は、その言葉を結局ほぼ笑いながら告げてしまった。
 郁子さんも当然と言うかなんと言うか、笑っていた。頬を真っ赤にしながら、笑い声を立てながら。
「そういうことなら」
 そうして深く頷きながら、彼女も満ち足りた様子で答える。
「たくさん思い出作りたいね、泰治くん」
 全くだ。
 ままならない片想いをして、長いこと悩んだり苦しんだりして過ごしてきた分だけ、これからは楽しく、幸せに過ごしたい。
 だがいくら楽しいからと言って、幸せだからと言って、先のことを考えないような過ごし方はしたくない。割と行き当たりばったり、衝動的に生きてきた俺だが、これからはもう少し冷静に将来を見据えておきたい。
 その決意のほども、郁子さんに告げておく。
「それとさ。俺、まだしばらくはないだろうけど――」
 春の強い風が吹く。桜の花びらが散り散りになって、まるでシャワーみたいに俺たちにも降り注ぐ。
「何年か経ったら、また異動があるかもしれない」
 その頃にはこの街をもっと好きになっていることだろう。離れがたいくらいの愛着を抱いているかもしれない。
 その頃には、郁子さんをそれ以上に好きになっていることだろう。もしかしたら、好きじゃ足りないくらいかもしれない。
「そうしたらさ、郁子さん。その時は、俺についてきてくれる?」

 前髪に桜の花びらを乗せた郁子さんは、そのことにも気づかない様子で、しばらくじっと俺を見ていた。
 だが、やがて頷こうとしてくれたんだろう。首を縦に動かそうとして、その時前髪の花びらが彼女の唇に落ちて張りついた。桜の花びらよりも赤い、薔薇色をした柔らかい唇に。
 俺はそれがおかしくて、ちょっと吹き出してしまった。笑いながらその花びらを摘まんで、取ってあげると、郁子さんもどこか恥ずかしそうに笑い出す。
「さっきも言ったけどね、私。一人であちこち行ってるし、知らない土地も平気な方だし、地図見るのも得意だから」
 そうして彼女は俺に、こんなふうに答えた。
「だからどこへ行っても――どこへ連れて行ってもらっても大丈夫だよ、泰治くん」

 さすがは郁子さん、頼もしい答えだ。改めて惚れ直してしまった。
 それならもう離すものか。俺は郁子さんを連れて行く。どこへでも必ず、連れて行ってやろう。
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