Tiny garden

愛になる前 (1)

 幸せな日々も、仕事に追われて忙しいばかりの日々も、等しく流れていくものだ。
 気がつくと決算期も無事に過ぎ、桜の季節がやってきた。

 去年、俺はこの街で初めての春を迎えていた。
 異動になりたてで土地勘なんて全然なくて、車で幹線道路を流しながら、どこも変わり映えしないななんて思っていた。知らない店ばかりが並ぶ通りを迷子の気分で眺めた後、結局どこの街にもありそうな牛丼チェーン店で初めての食事を取った。街角の桜が七分咲きなのを見かけて、それは普通にきれいだって感じたものの、車を停めて見入っている余裕もなかった。
 去年の時点で既にいい大人だったし、知らない土地に寂しさを覚えることもなければ、ホームシックにかかることもなかった。ただ、ここにもずっといるわけじゃないだろうしな、と冷めたことを思いながら引っ越し荷物を解いていた。
 それがまさか、この街に愛着を覚える日が訪れるなんて。

「わあ……!」
 咲き乱れる桜を見上げて、郁子さんが歓声を上げる。
 少し風が強い四月の初め、その風に乗ってピンクの花びらがほうぼうから飛んでくる。ひとひら捕まえようと手を伸ばすと、すんでのところで指先からするりと逃げていった。春らしくくすんだ青空を覆うように枝を広げた桜は、見上げた先の視界いっぱいに花を咲かせていて、まさに春爛漫といったふうだった。
「きれいだね、桜!」
 郁子さんは子供みたいにはしゃぎながら桜を眺めている。
「ここのは毎年きれいだけど、今年は特にすごくきれい……!」
 あいにくと俺はこの街の去年の桜をよく覚えていなかった。この公園のこともつい最近知ったばかりで、去年がどんな具合だったかも知らなかった。だから比較のしようがない。
 でも、今年の桜は格別だ。何せ郁子さんと一緒に見ているんだから。
 惜しむらくはこの風の強さ。春風が吹き抜ける度、花びらが吹雪みたいに散っていくのがすごくもったいなく思える。
「この分だとすぐ散っちゃうかもしれないな」
 俺が風の強さに苦笑いすると、郁子さんはそれを宥めるみたいに微笑んだ。
「だから今日、見に来て正解だったね」
 仕事も一段落したちょうどその時期に、この街では桜の見頃を迎えていた。俺と郁子さんは以前の約束通り、連れ立って花見に出かけた。実は既に新年度も始まっていて、これからまた忙しくなるから、満開には少し早い時期を選んでこの公園までやってきたわけだ。郁子さんは今日の為に美味しいお弁当を作ってくれたとのことで、それもまたすごく楽しみだった。
「敷物持ってきたから、どこか適当なとこに座ろうよ」
 郁子さんが公園の遊歩道を歩き出す。もちろん俺と手を繋いでいる。俺はこの公園はまだ二度目だったから、彼女に道案内してもらいながら桜並木の中を歩いた。
 以前来た時とは違い、公園内には花見客が大勢いた。桜の木の下にビニールシートを敷いてお弁当を食べたりお酒を飲んだり、皆楽しそうに過ごしている。風が強いせいであちこちのビニールシートがめくれていて、寒そうに身を竦めながらビールを飲む人もちょくちょく見かけた。日は差しているもののまだ寒さが完全に抜け切っていないようで、俺たちもそれに備えて割と厚着をしてきた。
「あ。見て、泰治くん」
 遊歩道を辿るうち、郁子さんが不意に前方を指差す。
「あの噴水から水が出てるの、まだ見たことないんじゃない?」
 彼女の言葉通り、道の先には噴水があった。前に来た時、二人で座ったベンチのそばにあったやつだ。
 冬の間は水が止まっていて、コンクリ造りのただの冷たいモニュメントに見えていたが、今はこんこんと水が噴き出している。派手に噴き上げるタイプではなくてまるで湧き出すような静かな噴水だった。
「そういえば、初めて見たよ。前に来た時は動いてなかったもんな」
 俺が納得すると郁子さんは、多分『前に来た時』のことを思い出したんだろう。何となく恥ずかしそうな顔をしていた。
 こうしてあの時よりも仲睦まじく、あの時よりも幸せな気持ちで噴水まで足を運べるとは、お互い想像もしていなかっただろう。少なくとも俺は、今がまだ信じがたいような、夢でも見ているんじゃないかって気持ちにさえ時々なる。
「いつも、四月から動き始めるんだよ」
 恥ずかしそうにしながらも、地元民の彼女はそういった説明を忘れない。
「へえ、思ってたよりのどかでいいね」
 俺が感想を漏らすと、郁子さんはそこで怪訝そうに目を瞬かせた。
「のどか? 泰治くんはどんな噴水を想像してたの?」
「もっと、ぶわっと派手に水が出てくるようなの。間欠泉みたいにさ」
「それはすごいね。夏なら傍にいるだけで涼しそう」
 郁子さんも俺に合わせて想像してみたのか、くすくす笑い声を立てた。何でもないこんなやり取りでも楽しそうにしてくれるのが嬉しい。
 のどかで静かな噴水の周りには細かな水の粒が舞い上がり、日の光を受けてきらきら輝いている。風に吹かれて流されてきた桜の花びらが、その光の中を魚みたいに泳いでいく。
「お弁当、そこのベンチで食べる?」
 彼女が前に座った、噴水傍のベンチを指差す。
 思い出を尊重するなら当然そうすべきなんだろうが、さすがにこの時期はまだ、噴水の近くは寒かった。そのせいかベンチも空いていて、噴水の周りにいるのは寒さ知らずで駆け回る子供たちばかりだ。
「今日のところはやめとこう。ちょっと寒いよ」
 俺は素直にそう告げた。
 郁子さんもそれを予想していたみたいに、軽く笑って顎を引く。
「そうだね。今日は、もっと温かいところに座ろ」
 また来ればいい、そういう気持ちが暗黙の了解みたいになっている。
 でも今は俺も彼女もこの街に住んでいるんだから、来ようと思えばいつだって足を運べるはずだった。ここの公園には思い出もあるし――今日また新しい思い出を作ろうとしているし、郁子さんと二人で何度も通うのも悪くないなと思う。
 今年の桜は早々に散ってしまいそうだから、できれば来年の桜もここで、郁子さんと一緒に見られたらいい。
 異動してきたばかりだからさすがにしばらくは転勤もないだろうし、あと何年かはこの街にいられるんじゃないかと踏んでいる。そう思えるのが自分でも意外なくらい嬉しい。

 この街はすごく都会ってわけじゃない。
 桜並木のある公園も、目ぼしいものはそれらと例の噴水くらいで、他に何かすごいものが飾ってあることもない。日本全国どこの街にもありそうな、遊歩道のある大きな、普通の公園だ。
 でもこの街ではたくさんのいい思い出ができた。この公園でも、郁子さんと最初に行ったあの古びた映画館でも、いくつかのありふれた飲食店でも、彼女の暮らす小さなアパートでも、それと一応、勤め先である会社でも。
 それだけで俺はこの街が好きになりかけている。現金なものだって自分でも思う。だが好きって気持ちはそういうものじゃないだろうか。現金で、単純で、せっかくだから幸せな気分になりたいと思って、でも好きになったものを大切にしたいと思いもして――そういう愛着は恋に似ているのかもしれない。
 とりあえずは郁子さんと出会えただけでも、ここはすごくいい街だ。

 桜の木の下にビニールシートを敷いて、二人で並んで座った。
 郁子さんが持って来てくれたビニールシートは思いのほか小さくて、俺と郁子さんが腰を下ろすとそれだけでスペースがいっぱいだった。おかげで弁当箱は膝の上に置かなくてはいけなかったし、彼女と肩をぴったり寄せ合うことにもなってしまった。
「ごめんね、結構狭かったね。いつもは私一人で使ってるものだから……」
「いいよ。この方が風でめくれなくていいし」
 俺はすかさずフォローしたが、郁子さんにはこの狭さが想定外だったようだ。気にするように端へ、端へと寄っていくから、慌てて腕を掴んで引き戻す。離れかけた肩がまたぶつかる。
「そんな詰めなくてもいいって」
「でも……男の人の体格くらい考えとくべきだったね。失敗したなあ」
 郁子さんは随分と敷物の狭さを気にしている。でも本当に気になっているのは二人分の必要面積を失念していたことじゃなくて、こうして二人で座った時の意外な距離の近さなんじゃないかな、などと思っている。
 俺としては気になるものじゃないし、むしろありがたいくらいだったから、落ち着きのない郁子さんをあえて軽くからかっておくことにする。
「実はわざとじゃないよね?」
 肩がぴったりくっついているおかげで、彼女の顔を覗き込むのも簡単だった。そうして覗き込んだ顔がぱっと赤くなる。
「わざとってどういう意味?」
「いや、俺とくっついてたいから狭い敷物持ってきたのかなって――」
「泰治くん!」
 咎めるような声を上げた後、郁子さんは拗ねたように口を尖らせた。
「違うよ、そういうんじゃないから! 何でそんなふうに思うかな」
「ごめん。ちょっと言ってみたかっただけ」
 俺が宥めても郁子さんはしばらく真っ赤な顔で俺を睨んでいた。それがまた、これっぽっちも怖くなかった。
 でもあんまり怒らせると悪いかな、と思って更なる謝罪を口にしようとしたら、彼女はふと、俺の肩に寄りかかるように身を寄せてきた。
「どうしたの、郁子さん。疲れた?」
 尋ねてみたら彼女は俺にもたれたまま笑い声を立てる。
「ううん、そうじゃないよ。それに絶対、わざとじゃないんだけどね」
 まだ言ってる。そんなにからかわれたのが悔しかったのか。
 意外と負けず嫌いなところもあるのかもな、と思う俺の耳に、彼女の呟きが届く。
「確かにこういうのも、悪くないかなって思ったの」
 今日は風が強いから、こうしてくっついていると温かくていい。俺としても郁子さんに寄りかかってもらえるのは幸せなことだ。いつぞやみたいに寝入って無意識のうちに、っていうのともまた違う、意図的なものだから余計に嬉しい。
 本当に、こんな日がやってきたのが夢みたいだ。
「映画観に行った時のこと、思い出すな」
 しみじみと俺は口を開く。
 郁子さんが軽く頭を起こし、不思議そうに俺を見上げた。
「私、こんな感じだった?」
「そうだよ。すっごい熟睡してた」
 映画館のスクリーンの光を受けて、まるで石膏細工みたいな彼女の寝顔を傍で見ていた。
 見とれてしまうくらいきれいだと思う反面、無性に寂しくなったのも覚えている。
「こうしてわざと寄りかかってくれるんなら嬉しいけどさ」
 俺は今の郁子さんを見下ろす。木陰の中、自然光の下で見る顔はあの時見たものとはまるで違って、ちゃんとした血の通った人間の色合いをしていた。郁子さんはいつもきれいな顔立ちをしているが、それならこうして血色のいい、自然な顔を見ていたい。
「寝顔を鑑賞できたのも最初のうちだけで、後ですぐ切なくなったよ」
 当時の思い出を語る俺を、郁子さんは真っ直ぐに見つめてくる。
「ごめんね。傷ついた?」
「ちょっと。でも、郁子さんが残業で疲れてるのも知ってたから」
 責められやしない、とも思っていた。
 それとあと、こっちも割と酷いことしたし。
「俺はその後で、『デートの途中で寝る』ってことよりもっと悪いことしてるからね。郁子さんを非難する権利なんて全然ないよ」
 そう言ったら、郁子さんはどういうわけかはにかんだ。
「じゃあ……私たち、おあいこってことかな」
「かも。罪の度合いで言ったら、俺の方が重いけど」
「そんなことないよ。こういうのは両成敗ってしてくれた方が、私も嬉しいな」
 郁子さんは膝に乗せたお弁当箱の包みを解きながら、今度ははっきり笑いかけてくれた。
「でも、あの時、すごく気持ちよく眠れたんだよ」
 そりゃそうだろうな、と俺はあの時の寝顔を思い出して納得する。残業の後で疲れているにしたって、驚くほどの熟睡ぶりだった。きっと夢すら見ていなかったんじゃないだろうか。
「せっかく見たいって言ってた映画だったのに」
 俺が冷やかすと、郁子さんは意味ありげな上目遣いで俺を見る。
「そうだけどね。本当に、気持ちよかったんだから」
「映画館の椅子って硬くて、寝にくくなかった?」
「ううん、全然。泰治くんの肩借りてたからかもしれないけど――」
 それから思い出を辿るように空を見上げてみせる。頭上で咲き誇る桜の花の隙間から、かすんだ青空が少しだけ覗いていた。
「もしかしたらあの時から、わかってたのかもしれない」
 春風が俺たちと桜の傍を吹き抜けていく。郁子さんの緩く結わえた髪に、どこからか飛ばされてきた花びらが落ちる。俺がそれを指先で摘むと、郁子さんはくすぐったそうに目を細めた。
「わかってたって、何が?」
 尋ねる俺に、
「泰治くんが、一緒にいて心地よい相手だってこと」
 郁子さんはそう答えた。
 でも答えたすぐ後で彼女はくすくす笑い出すものだから、そうなるとこちらだって突っ込まざるを得ない。
「郁子さん、本当にそう思ってる? 寝たのを誤魔化そうとしてない?」
「どうかなあ。そういう解釈もありかな、なんて思ったんだけど」
 彼女はもう笑いを止められないみたいだ。お弁当箱をひっくり返さないよう抱え込んでから、一層楽しげに笑い出した。
 それが少しの陰りもない本当にいい笑顔だったから、俺も追及するのは意味もないと、一緒になって笑っておくことにした。

 そういうことでも、そうじゃなくても、今となってはどうでもいい。
 今こうして、二人でいるってことだけが全てだ。
 
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