Tiny garden

積もる、募る、でも 伝わらない(2)

 二月十四日の朝、空気は冷え切っていて、チョコレートの匂いはしなかった。
 この寒空の下に今日は何千、何万というチョコが飛び交うのだろうと思うと、つくづく奇妙な風習だと感じざるを得ない。廃れてしまえ、なんて思いを抱くほどではないものの、いっそなくなった方が楽だという人も少なくはないだろう。俺は、まあ、今年次第というやつだ。
 朝の空気を深く吸い込むと鼻から頭にかけてがきんと痛くなった。春はまだ遠いのが恨めしい。早く春になればいいのに。寒い冬が過ぎて暖かくなって、ついでにしち面倒くさい決算期も何事もなく過ぎ去って、早く桜が咲けばいい。そうしたら郁子さんとお弁当を持ってお花見に行こう。目下最大の楽しみはそれだった。
 もっとも、バレンタインデーにだって楽しみがないわけじゃない。
 と言うより今年はいつになくうきうきしている。郁子さんの手作りお弁当を、お花見に先駆けて本日、いただける約束をしたんだから。

 出勤してきた俺を、一足先に来ていた郁子さんは待ち構えていてくれたようだ。
「おはようございます、課長。これ……」
 挨拶もそこそこに近づいてきて、大きめの巾着袋を差し出される。口を蝶結びで閉じたその巾着は可愛いらしいピンクの小花模様で、縦に長い形をしていた。円筒形の入れ物が二本、その中にしまわれているのがシルエットからわかる。
「あ、例の」
 経理課にはまだ俺たちしかいなかったから、こそこそする必要はないのかもしれない。だが立ち聞きされる危険もあるし、俺はぼかすように聞き返した。
 すかさず郁子さんが顎を引く。
「そうです。お約束の品です」
「ありがとうございます。楽しみにしてました」
 俺は礼を述べた。その後で、お互いにこの畏まったような、白々しくもわざとらしくもある会話がおかしくて少しの間笑い合う。
「お昼にでも、美味しくいただきます」
「お口に合うといいんですけど」
 郁子さんは自信がないのか、控えめなコメントを口にした。表情が申し訳なさそうで、何か失敗でもしたのかと思いきや、おずおずと言い添えられる。
「それと……ちょっと、謝らなくちゃいけないことがあるんです」
「何です?」
 お弁当を作ってもらっておいて、あれやこれやと文句をつけるほど俺は図々しくないつもりだ。ちょっとくらいの失敗なら気にせず食べるし、気にしなくていいのに。
 そう思っていた俺に、彼女は予想とは違うことを言ってきた。
「実はお弁当箱を買っておくの忘れちゃってて。すごく可愛いのにしちゃったんです」
 言われて俺が巾着の中を覗くと、円筒型のお弁当箱は三段重ねで、パステルピンク地に白い水玉が飛んでいる柄だった。蓋には駄目押しのように可愛いうさぎのイラストが描かれていて、思わず笑みが零れてしまう。
「本当に可愛いですね」
「でしょう。課長の趣味だって思われたら大変です」
 むしろ俺がこの弁当を食べているところを見られたら、十人中十人が『誰かに作ってもらったな』と思うだろう。おおっぴらにして根掘り葉掘り突っ込まれるのは厄介だから、食べる時は人目につかない場所を選んだ方がよさそうだ。
「どこかでこっそり召し上がってください」
 郁子さんもそう言っていた。彼女がどういうふうに考えているかまでは尋ねなかったが、ともかく俺も頷いた。
「そうします」
 ところで、巾着の中にはお弁当箱の他、もう一つ円筒形のものが入っていた。こちらは明るい水色をしたステンレス製と思しき容器で、水筒かと思ったのだが心なしか口径が大きめで背が低く、蓋の部分もコップではないようだった。
「これは、お茶ですか?」
 その容器を手に取り俺は尋ねた。見た目よりもずっしり重く、中にはやはり液体が入っているようだ。側面は金属らしい冷たさで、中身の温度を推し量ることはできない。
「いえ、ポトフなんです」
 郁子さんは答えた時、どこか誇らしげに胸を張ったように見えた。
「スープマグに入れてきたので、付属のスプーンでお召し上がりください」
 水筒に似たその容器は、温かい汁物を保存する為のものらしい。俺がしげしげとスープマグを眺めていれば、郁子さんが説明を添えてくる。
「お弁当箱が小さいから、足りないかなって思ったんです。それと、まだまだ寒いですからなるべく温かいものを召し上がって欲しくて」
 彼女の心遣いに俺は、緩む口元を引き締めなくてはならないほど感激した。
「それはすごい、豪勢なお弁当ですね」
 弁当だけじゃなくポトフまで作ってきてもらったなんて、至れり尽くせりと言うか何と言うかだ。郁子さんの気持ちはしみじみ嬉しいが、忙しい朝に手間を掛けさせたんじゃないかという心配にも囚われた。
「ありがとうございます。大変だったんじゃないですか?」
 敬語で礼を言わなくちゃいけないのが何だかもどかしい。
「そんなに難しいものじゃないですから」
 郁子さんはかぶりを振る。
「でも、お礼は食べてからでいいですよ、お口に合うかどうかわからないですし」
「いざとなれば口の方を合わせる所存です」
 張り切って答えた俺に、彼女は黙って微笑み、嬉しそうな顔をしてくれた。

 そうなると俄然、昼の休憩が楽しみで仕方なくなってくる。
 いつもは外食かコンビニ弁当か、忙しい時期には家からおにぎり持参という程度の、実に寂しい昼食ばかり取っていた。それらと比べると、郁子さんの手作り弁当の何と神々しいことか! 俺はうずうずとその時が来るのを待ちながら仕事に励んだ。
 ただ郁子さんからも言われていたように、お弁当を食べる場所についてはよくよく考えなければならない。普段は経理課の自分の席でということが多かったが、そこでこんな可愛い色合いと可愛い柄のお弁当を開けばどのような目に遭うかは想像も容易だ。かと言って社内に人目を避けて食事ができるような、都合のいいスペースなどそうあるはずもなく――思いつくのはただ一箇所、駐車場に停めてある俺の車の中だけだった。
 そこで俺が考えた作戦はこうだ。受け取ったお弁当は鞄にしまっておき、休憩時間を迎えたところで鞄ごと持って経理課を出る。
「あれ、課長。今日は外食ですか?」
 呼び止められたらすかさず、用意しておいた台詞を答える。
「そうなんです。今日は下見も兼ねて、行ってみたいお店があって」
「えっ、どこですかそれ? 安そうなとこなら連れてってください!」
 若い子たちは俺に対して遠慮がなく、たまにそんなふうにねだられたりもする。もちろんその辺りも見越して対策は立ててあるのだが。
「混み合うって評判の店なんで、もしかしたら入れないかもしれないんです」
 やんわりと俺は断りを入れた。
「もし運良く入れたら、しっかり味を見てきます。美味しかったら報告しますね」
 そう言うと向こうは、『約束ですよ!』と言いつつも引き下がってくれる。
 あとは『混んでて入れなかったので、お弁当を買って駐車場で食べた』とでも言えばいい話だ。しかし突っ込まれた時用に、それらしい店を見繕っておく必要もあるだろう。
 ともあれ今回は無事かわせたようだ。俺は内心ほっとしつつ、経理課の隅で自分のお弁当を開く郁子さんをちらっと見やる。郁子さんも俺の視線に気づいたのか、面を上げた後で軽く笑みながら会釈をしてくれた。
「課長、出かけられるんですか? じゃあ今のうちに渡しとこうかな……」
 今度は別の子が席を立ち、周囲と示し合わせるように視線を交わす。
 来たか、と身構える俺に、経理課の皆が近づいてきて次々とチョコを手渡してきた。
「はい、チョコレート! いつもお世話になっております!」
「これ食べて決算乗り切りましょうね! 忙しいですけど頑張ってください!」
「よかったですねーこんなに貰えて! あ、お返しは三倍でお願いします!」
 どれを取っても、清々しいまでの義理チョコばかりだった。
 いや、別に、本命が欲しいとか思っていたわけではないものの。俺には郁子さんからのお弁当があるし他には何にもなくていい。ただまあ、何と言うか、あまりにも潔い義理っぷりだなあと思っただけだ。
「ありがとうございます。来月、何か用意しますから」
 俺が皆にそう声をかけると、三倍返しを期待する課員たちからは歓声が上がった。ホワイトデーの予算を脳内で計上して若干の眩暈を覚えつつ、自分の鞄の他に贈られたチョコも抱えて、昼食の為に廊下へ出て行こうとした。
 そこでふと、若い子の一人――新年会の時に郁子さんに話しかけていた、ちょっとずけずけ物を言う子が口を開くのが聞こえた。
「星名さんは、課長にチョコ用意してこなかったんですか?」
 彼女の名前を聞くと自然に俺の足は止まった。
 思わず振り返ると、郁子さんは自分の席でぱちぱち瞬きをしながらその子と、俺の顔とを見比べている。多分、水を向けられると思っていなかったんだろう。戸惑う様子がわかり、俺はどうフォローしようかと一瞬考えた。
 しかしその考える間よりも早く、郁子さんは言った。
「ええと……す、すみません。今年は用意する暇なくって、忘れていました」
 まるで申し訳なさそうに言われてしまった。
 当たり前だが、郁子さんからはチョコの代わりにそれ以上のものを贈られている。だから謝る必要なんて全然ない。だがそのことをこの場で明らかにはできないし、皆がこうして贈っている場を見れば、そう言うしかないのかもしれない。
「残念でしたねー課長。星名さんからもチョコ、欲しかったでしょ?」
 絶句する俺に、言葉を選ばないあの子がからかうような声をかける。
 まさか見抜かれてるのか、ぎくりとしつつも俺はあえて明るく応じた。
「いや、いいんですよ。こういうのは強制じゃないですし、なければないでお気持ちだけでも!」
 そう言うしかない。
 郁子さんはやっぱり済まなそうな顔のまま、鞄とチョコを抱えて出て行く俺を見送ってくれた。その顔が瞼の裏に焼きつきしばらくちらついていたから、後でちゃんと、何か言っておこうと思う。
 好きで始めた社内恋愛だ。文句を言う気もないが、こういう時にはっきり言えたらな、などとは考えなくもなかった。俺は郁子さんにあんな顔をさせたくない。今後はもうちょっと、上手くフォローできるようにならないといけないだろう。

 駐車場は屋外にあり、よくよく考えればここにも人目が全くないというわけではない。フロントガラスの向こうに時折、よその課の人たちが通り過ぎたりして、辺りを窺う俺ににこやかな会釈を向けてくる。さすがに中を覗き込んでくるようなことはないだろうが、いささか落ち着かない気分にはなった。だからなるべく下を向き、通りかかる人たちと目を合わせないようにしていた。
 吹きさらしの風に揺れる車内で、俯きながら、俺はいそいそと弁当箱を開く。
 三段重ねのお弁当はそれぞれが俺の手のひらに収まるほど小さく、一段目と二段目がおかずで三段目はご飯だった。一段目にはほうれん草の海苔巻きと切り干し大根と卵焼きが詰められており、二段目にはリクエストしていたコロッケが並んでいた。小さくて丸いコロッケは揚げ色がきれいですごく美味しそうに見えた。郁子さんのお弁当は随分と家庭的で、でもコロッケに差したピックは王冠をかたどったきらきらした可愛らしいもので、彼女のしっかりとした、でも可愛いところもある人柄がこのお弁当全体に表れているような気がしてならなかった。
 いただきます、と心の中で呟き、俺は弁当を食べ始める。当然ながら味も格別だった。ほうれん草も切り干し大根もだしの味が効いていたし、卵焼きはふんわり仕上がっている。丸いコロッケは中にジャガイモの他、ひき肉やチーズも入っていて、あっという間に四個食べ終えてしまった。もっと食べたい、と空っぽになったお弁当箱を恨めしく眺めてもコロッケが復活することはなく、これは是非後日、彼女に再リクエストしなければと思う。今度は揚げたてが食べたい、なんて言ったらわがままだろうか。
 スープマグに入ったポトフも野菜がごろごろしていて、食べ応えがあって美味しかった。お弁当だけではちょっと足りないかなと思っていたから、ポトフのおかげでお腹いっぱいになれたし、身体もすっかり温まった。
 こんなに美味しい料理まで作れてしまうなんて、つくづく郁子さんはできた人だよなと思う。ここまで素敵な人が俺の彼女でいいんだろうか。今更『やめます』なんて言われたら困るが。
 お弁当を食べ終えた後、風に揺れる車の中で少しだけぼんやりしてみる。ポトフで温まったからか、ほんのりと幸せな気持ちになっていた。
 俺も彼女を幸せにしたい。その為には、何をすればいいんだろう。
 俺が郁子さんの為にできることって何だろう。
 そんなことを考えると、ふと、さっき見た申し訳なさそうな彼女の顔が胸裏に蘇って、少し切なくもなった。
 ああいう顔をさせないようになりたいと、心の底から思う。

 食事を終えて経理課に戻ると、俺の机の上に見慣れないものが置いてあった。
 小さな紙袋だ。光沢のあるワイン色で、箔押しの金のリボンがその上に描かれている。コンビニのレジ前に並んでいそうな、バレンタインデー用のチョコレートのようだった。
 課内の女性陣からは既に貰っていたし、誰からだろう。俺がそれを手に取って首を傾げていると、郁子さんが近づいてきてそっと告げられた。
「課長、それ、私のチョコレートです」
「えっ?」
 俺はぽかんとして彼女を見た。
 ちょっと照れた顔の郁子さんが続ける。
「休憩中にコンビニ行って買ってきたんです。そんなに高いものじゃないですけど……」
 一体、どういう風の吹き回しだろう。彼女からはチョコレートの代わりになるものをしっかり貰っていたし、後で感想と共に改めて感謝を伝えようと思っていた。だからチョコなんて、わざわざ買ってこなくてもよかったのに。
「ありがとうございます。……何か、すみません」
 さっきのこと、気にしているのかな。俺が小声でお詫びを付け足すと、郁子さんはにこっとして言った。
「いいえ。私もちょっと、参加してみたくなっただけですから」
「バレンタインデーにですか?」
 そういう意味でなら彼女はとっくに参加しているはずなのに、彼女はどことなく気の強さを窺わせる表情で、深く頷いた。
「そうです。私も、課長にチョコレートを渡したかったんです」
 別に誰に聞きとがめられるでもない、たったそれだけの言葉に、なぜかどきっとした。
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