Tiny garden

積もる、募る、でも 伝わらない(1)

 二月になっても、寒さは相変わらず続いていた。
 だが俺にとっては、そして恐らく郁子さんにとっても、幸せな日々もまた続いていた。

 彼女とお付き合いを始めてから、目に見えた大きな変化は特にない。
 以前から既にメールの交換はしている仲だったし、近頃では彼女からのメールの文面にほのかな甘さと言うか、好意を示すような一文が添えられていたりとか、絵文字のハートマークを使ってくれるようになったとか、せいぜいその程度だ。
 俺にとってはその程度が、ものすごく、嬉しかったりするのだが。
『泰治くん、今日もお仕事お疲れ様でした。明日も忙しくなりそうだけど、頑張ろうね!』
 毎晩のように届く、まだ定例文を脱していないような挨拶メールだって、文頭文末にハートマークやら可愛い顔文字やらが並ぶだけであっという間にラブレターと化してしまう。俺の心だって躍るし浮かれる。
 しかし俺たちは社内恋愛、周囲に知れるといろいろうるさそうな職場でもある。経理課なんて特に女性が多いし、割と遠慮のない子もいたりするので注意を払う必要もあるだろう。もちろん面と向かって咎められたり業務成績に響いたりということはなさそうだが、社内恋愛が明るみになるとそれとなく寿退社を勧められるらしいという話も聞いていた。俺と郁子さんの間にそういう話が具体的に持ち上がるまでは、徹底的に隠し通す方向で考えている。
 俺も郁子さんとは、将来的には結婚したいと希望している。しつこいようだがこの歳にもなれば結婚前提でない恋愛をすることなんてまずありえないし、親や親戚筋からの雑音も年を追うごとに高まってきていた。郁子さんなら相手としても申し分ないし、と言うか是が非でもお願いしたいところだし、いつかは、という計画が頭の中にはある。
 だが今のところは、郁子さんという『彼女』がいる生活を満喫していたかった。
 何せ俺からすれば彼女は、ずっと好きだった人だ。初めて名前を聞いた瞬間のことをとても印象深く覚えていて、優しく接してくれたことを嬉しく思っていて、でも上手く話せなくてどうしていいのかわからないくらい好きだった、年上の人だ。そんな郁子さんが俺の彼女だなんて、すっごく嬉しい。ちょっとくすぐったい。めちゃくちゃ幸せだ。ベタだけどほっぺたを抓ってみたくなるくらい、にわかには信じられない。でもありがたいことにちゃんと現実だ。見た目には、特に大きな変化はないものの。
 ともかくも俺は周囲にはその関係をひた隠しにしつつ、郁子さんとは水面下で――と言うか出勤前と退勤後にという程度だが、こまめに連絡を取り合っては想いを確かめ合う日々を送っていた。

 郁子さんもまた、そういう日々に何がしかの感慨を抱いているみたいだった。
 時折、夜になると『電話してもいい?』とメールをくれた。待ってましたとばかりに俺の方から電話をかければ、いつも嬉しそうに笑ってくれる。
『ごめんね。何だか泰治くんの声が聞きたくなって』
「謝らなくていいよ。そういう理由ならいつでも歓迎だから」
 俺も嬉々として応じる。俺は郁子さんの声を聞けば疲れなんて吹っ飛んでしまうから、夜遅くの電話だろうとメールだろうと断るつもりはなかった。彼女の声ならずっと聞いていたい。実際は職場で毎日のように聞いているんだが、それはそれ。
 そこまで考えてふと、郁子さんだって俺の声を聞いてるんだよな、と思いつく。
「でも、俺の声なら毎日聞いてるだろ。飽きない?」
 だからそんなふうに尋ねてみた。
 郁子さんは思いのほか真面目に答えてくれた。
『ううん、ちっとも。って言うよりね、職場で聞くのとはまた違うの』
「へえ、そんなもんかな。雰囲気が違うとか?」
『雰囲気って言うか……声そのものが違うよ、泰治くんは』
 そして意外なことを言われてしまった。自分の声はそれこそ毎日聞いているが、聞くものとしては認識したこともないし、違いがあると言われてもぴんと来ない。
「そんなに違う?」
 俺が疑問を呈すると、郁子さんはくすくす笑い声を立てる。電話越しのその声は本当に楽しそうで、できれば直に会って、すぐ傍で聞きたかったなと思ってしまう。
『自分だとわからないのかな。職場での泰治くんはね、すごく真面目そうな感じ』
「うーん……まあ俺も以前は、畏まりすぎてたかなって自覚はあるけど」
 春先辺りは新天地と慣れない業務にてんやわんやで余裕もなかった。ちょっと堅苦しく振る舞っていたかもしれない。おかげで郁子さんからも話しにくそうだと思われていたようだし、最近はいくらかましになったはずだが、今後も改善の余地があるかもしれない。
『でも二人で会う時の、泰治くんの声はね……』
 と、郁子さんが静かに語る。
『何だかすごく優しくて、甘い感じがするんだよ』
「甘い?」
 予想していなかった形容に、俺は戸惑った。
 自分の声が甘いだなんて思ったことはない。今までも、特に誰からも言われた覚えもない。声を誉められたこともなければ貶されたこともないし、自分では普通、平均的な男の声だろうと思っていた。と言うよりそもそも、気にする機会もほとんどなかった。せいぜい会議の音声を録音、再生した時にうっかり自分の声を聞いてしまって、こんなもんだっけと苦笑したくなる程度だった。
 だから郁子さんの言葉には正直、面食らった。
「誉めすぎじゃないかな。そんなに、いいもんでもないと思うけど」
 妙にどぎまぎしながら俺が反論すると、郁子さんはこちらの動揺を読み取りでもしたみたいにまた笑った。
『ううん。すごくいい声だよ。私はよく、聞きたくてしょうがなくなるんだ』
「そう、なんだ……喜んでいいのかな」
『喜んで欲しいな。彼女に声が聞きたいって言われてるんだよ』
 どこかからかうように言われて、そうなんだよなとまた噛み締める。
 郁子さんは俺の彼女なんだ。近頃、ようやく。
『職場で課長と話している時もね。泰治くんの声が聞きたいなあって思っちゃうくらい』
 彼女がそこまで言うほど、職場での俺と、プライベートでの俺の声は違っているんだろうか。それを確かめるには録音するしかないが、好きな人の前で甘くなっている自分の声なんて、とても正気で聞けそうにない。止めておこう。
 優しくて甘い、というなら、俺が連想するのは彼女の部屋の匂いだ。古い木のような、和風めいたいい匂いがいつも漂っていた。
 あの部屋には、例の行き違いの一件以来足を運んでいなかった。別に避けているつもりはなく、ただその次の土日は空いてなくて彼女と会えなかったというだけだ。俺たちもお互い一人暮らしだから、全ての休みを相手の為にだけ使うというわけにはいかなかった。買い出しに行ったり車を洗ったりスーツをクリーニングに出したりと、三月に入って忙しくなる前にやっておかなければならないことが山ほどある。きっと郁子さんだってそうだろう。
 それらが落ち着いたら、また彼女の部屋へ招いてもらえるだろうか。
『……じゃあ、また明日ね。電話してくれてありがとう』
「こちらこそ、話せて嬉しかった。おやすみ、郁子さん」
『うん。おやすみなさい、泰治くん』
 一通り、お付き合いをしている者同士らしい会話を済ませてから電話を切ると、俺は何となく思いつきで脱いだスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。名刺入れにはかつて郁子さんから貰った匂い袋がしまわれていて、穏やかで古い木の匂いを漂わせていた。名刺を一枚引き抜いてその移り香を確かめると、それとよく似た匂いの、彼女の部屋で過ごした時間がまざまざと浮かび上がるようだった。
 だが客観的に見れば今の俺は、自分の名刺の匂いを嗅いで思い出に浸っている男だ。見るからに不恰好なので早いうちで切り上げ、現実に立ち返ってみる。
 今の俺は幸せなんだ。思い出に浸って寂しさを紛らわす必要なんて、ないはずだった。

 二月も第二週目に入ると、日本全国どこでもお決まりであろう例のイベントが、俺たちの電話での話題にも上るようになった。
『もうすぐバレンタインだね』
 郁子さんの言う通り、冬空の下にチョコレートの甘ったるい匂いが漂い、男共が一喜一憂したり無関心を装ったりする例の日がやってくる。
 社会人にとってはバレンタインはもう少し形式的なもので、職場から女子一同という名目で贈られたりもするし、各自で好きなように贈りあうところもある。前者の場合はこちらも大きなクッキーの缶でも買って『皆さんでどうぞ』と献上すれば済むのだが、後者だと少し厄介だ。貰うチョコの値段が横並びというケースは理想だがそうそうあるものじゃないし、だからといってお返しの価格に差をつけると面倒事を引き起こす。大体、貰ったものの値段を調べるなんて行儀のいいことじゃないはずなのに、バレンタインデーにおいては公然と行われているところに、この行事のややこしさが窺える。
 俺にとってはこの経理課に来て初めて迎える二月十四日でもあるので、楽しみ少し、半分以上が不安といった具合でその日を待っているところだった。
 しかし公私の公の方はそんな具合でも、私の方は楽しみばかりしかない。
「郁子さんはチョコレートくれる?」
 俺は強気に催促してみた。
 郁子さんの方から話題にしたということは、彼女なりにバレンタインには関心があるのだろう。それならば断られたり、とぼけられたりする心配はないと踏んでのことだった。
『それね、私もちょっと考えてたんだけど』
 彼女は電話の向こうで、今まさに考え込んでいるようだ。ゆっくりと言葉を続けた。
『私からはチョコじゃなくて、お弁当を作って泰治くんにあげようかなって』
「へえ。バレンタイン弁当か、そういうのもいいな」
 甘い物が駄目というわけでもないが、好物ってほどでもない俺としては、チョコレートよりかえってありがたいかもしれない。俺は彼女のアイディアに素直に感心し、そして感動した。
『それにほら、手料理をご馳走するって約束したでしょう?』
 彼女が口にした約束を、俺は何だか懐かしい思いで振り返る。
 あれからまだ半月も経っていないはずなのに、随分と前の約束のように思えた。実際、約束を交わした直後に起きたあれやこれやで、俺はその時のやり取りを忘れかけてもいた。だから、郁子さんが覚えていてくれたのが嬉しかった。
「そうだった。コロッケ作ってくれるって話だったよな」
『うん。約束通り、作って十四日に持っていくからね』
「楽しみにしてるよ。もう今からバレンタインが待ちきれないくらいだ」
『任せて、美味しく作るから』
 郁子さんは自信ありげに言い切った。その宣言も、こんな会話を交わせるようになれたことも、俺はひたすらに嬉しかった。
『泰治くんはきっとチョコをいっぱい貰うだろうから。私からは違うものにするね』
 そんなことも、彼女は言っていた。
「いっぱい貰うかどうかはわからないよ。皆で一つ、かもしれないし、それすらないかもしれない」
 俺は苦笑しつつ答える。
 でも経理課の女性陣が上司へのバレンタインをどうするか、みたいな話は当然、郁子さんの耳にも入っていることだろう。彼女もそれを知った上でお弁当にすると言ってくれたのかもしれない。漠然と、そういうふうにも考えた。
『大丈夫。絶対、いっぱい貰えるよ』
 郁子さんが保証するように言ってきたのは、ちょっとばかり複雑だ。
「貰えたとしてもだよ。全部義理も義理、職場の付き合いでのチョコだからさ」
『あれ。泰治くん、まさか一つくらい本命チョコが欲しいなんて思ってる?』
 彼女が鋭く突っ込んできて、俺は図星でもないにもかかわらず、大いに慌てた。
「い、いやまさか、思ってないよ! 俺は郁子さんから何か貰えれば十分だって!」
 すると郁子さんはいかにも楽しげに、
『わかってる。そう言ってくれるかなって、実は期待してたの』
 と言って、電話越しに俺を若干拗ねさせた。

 お付き合いを始めてからも、俺たちの会話にそれほど大きな変化はない。
 多少の甘い言葉が並ぶようになったのと、相手の言葉の裏を気にして不安がる必要がなくなったのと、くらいだろうか。
 郁子さんは相変わらず、言葉だけのやり取りの際は俺をからかったり、こちらの反応を探るみたいなことを言ったりする。
 キスでもしたら、たちまち赤くなって慌てふためくくせに――なんて思ってみても、電話越しではそれもできっこない。
 おかげで電話だけの日々が続くと、俺は少しだけ物足りなさと言うか、からかわれてばかりで悔しいって気持ちを積もらせるようになっていた。
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