Tiny garden

強請ってみせてよ(1)

 土曜の夜から月曜の朝にかけて、俺はいろんなことを考えた。
 その考え事はたった一つの難問に集約される。
 俺が取った行動は、果たして正しかったのだろうか、ということに。

 間違っていたとは思いたくない。
 もしも郁子さんの言葉をそのまま受けれていたら、きっと今以上に後悔していただろう。彼女にとってもいい記憶にはならなかったはずだ。きっぱりと拒否したのは正解だった、そう思いたい。
 だが断るにしても、もう少し言いようがあったんじゃないかという考えもなくはなかった。あの時の俺は多分、頭に血が上っていた。郁子さんがあんまりにも傷つくようなことを言ったから、そのむかつきをさも倫理的常識的な物言いでぶつけただけじゃないかという気もしていた。怒鳴りつけたわけでも糾弾したつもりもなかったが、それでもああいうやり取りは後々まで尾を弾いて自分の胸のうちに残ってしまう。
 郁子さんは、俺が叱ってくれたと言っていた。
 でも本当はあの時、俺は彼女を叱ったのではなく、怒ったんじゃないだろうか。
 落ち着き払ったふりをして本当は酷く感情的になっていたんじゃないか。
 そんな思いがいつまでも拭えないまま、土曜の夜と日曜日が過ぎていった。

 まさか大人になって、二十九にもなって、こんなことで悩むなんて思ってもみなかった。
 もっと歳を重ねたら、自分の選択を後から悩んだりすることもなくなるんだろうか。
 更に大人になったなら、正しい選択をしたと確信を持てるようになるんだろうか。
 今の俺は正しいことをしたという自信もなかったし、かと言って時間を戻してやり直せるようなすごい能力の持ち主でもない。おまけに人生の選択肢というやつはすぐには正答かどうかわからないようにできていて、一度の選択ミスが後々、忘れた頃に響いてくることだってあるから油断ならない。
 学生時代、当時好きだった女の子と一晩中飲み明かすという絶好のチャンスに巡りあい、しかし結局何もできなかったことがある。思い返すも痛々しい青春の思い出だが、それを当時の友人たちに打ち明けたところ、馬鹿だ、へたれだと口々にコケにされて悔しかった。おまけに好きだったその子は俺に見切りをつけて他の男と付き合い出した。きれいにオチまでついたその記憶を、俺は眠れない夜にわざわざ掘り返して考える。
 かつての口の悪い友人たちが、今回の俺を見たら何て言うだろう。
 やっぱり馬鹿だ、へたれだとコケにするだろうか。
 それとも、同じように二十九になった連中も、今回ばかりは正しい選択をしたと言ってくれるだろうか。
 もしかしたら俺が思ったように、行動自体はもっともでも言い方が悪かった、と叩かれるかもしれない。逆に俺が打ち明けられる立場ならそうするだろう。
 俺は郁子さんが好きだ。それはどうしたって変わらない、変えようもない気持ちだった。部屋に呼んでもらった時はうっすら期待もしていたし、彼女の言葉に一瞬気持ちがぐらついたのもまた事実だ。
 そんな俺に彼女を叱る資格なんてないのかもしれない。
 彼女が本心からではないにしろ、勇気を振り絞って言ってくれた言葉に、俺はもう少し柔らかい返答をすべきだった。あれじゃ彼女に恥をかかせただけじゃないか。
 ぐるぐると、そんなことを考え続けた。

 土曜の夜に別れた後、郁子さんとは数回メールのやり取りをした。
 彼女は彼女であの別れ方を気まずいと思っていたようで、日曜の朝、真っ先に届いたメールにはまず謝罪の言葉が並んでいた。軽率なことを言ってごめんなさい、あなたが止めてくれる人でよかった、と記されていたメールを、俺は複雑な思いで読んだ。
 そして当然、こちらからも詫びのメールを送った。言いすぎたことも物言いがきつかったことも全て謝った。彼女は気にしてないと言ってくれたが、俺の方はどうしたって気にせずにいられなかった。
 大人になっていようと、恋なんてままならないものだ。
 順調に来ていると浮かれていれば、たった一度のやり取りですぐさまどん底に叩き落される。そしてそのやり取りが正しかったかどうかを引きずって、こんなにも悩んだりする。何が正しくて何が間違っていたのか、未だにわからない自分が情けなかった。

 月曜の朝、俺は重い足取りで出勤した。
 仕事に差し障りがあってはいけないから、勤務中は考えないようにしようと心に決めていた。とは言え出勤するとなれば必然的に彼女と顔を合わせることにもなる。こちらが平静を装ったとしても、彼女がどんな反応をするかはわからない。改めて申し訳なさそうにされたら、どう接していいのかわからなくなりそうだ。
 しかし、今朝もやはり彼女は俺より早く出勤していた。
「……おはようございます、課長」
 俺がドアを開けるなり、待ち構えていたように声をかけられた。
 はっとしてその顔を見ると、郁子さんは気まずげにしながらも軽い微笑みを向けてくれていた。こちらも気まずさを覚えつつ、すぐに笑みを返す。
「おはようございます、星名さん」
 一昨日、昨日と下の名前で呼ばせてもらっていたからか、そう呼ぶのが随分と新鮮に感じられた。
 俺は彼女の名字を、彼女にふさわしいきれいなものだってずっと思っていた。だが今は、郁子さんと呼べないことがほんの少し寂しかった。次はいつ、呼べるだろうか。また呼ばせてもらえるだろうか。
 ごちゃごちゃした思索がまた頭に過ぎった時だった。
 ふと、彼女が今朝もまたバケツを提げていることに気づいた。時間的に見てもこれから拭き掃除をするのだろう。冷たい水を張って、あの小さな手を真っ赤にしながら布巾を絞って。
「手伝いましょうか?」
 申し出るのも何度目だろう、と思いながら声をかけてみる。
 彼女が掃除をする場面に居合わせたのもこれが初めてではない。でも手伝いを申し出て受け入れられたことはなく、布巾が一枚しかないからとか、もうすぐ終わるからとか、そういう理由で断られていた。だから今回も断られそうな気はしていたが、彼女の手がいつも冷たそうなのを黙って見過ごすのもそろそろ嫌だったし、土曜の件の罪滅ぼしという気持ちも正直、あった。
 郁子さんが驚いたのか、軽く口を開けて瞬きをする。随分呆気に取られている様子なのが、場違いにも愉快に感じられてしまった。
「布巾、一枚しかないんですよね? じゃあ今日は俺がやりますから」
 駄目押しで尋ねると、郁子さんは黙ったまま、なぜかそこで俯いた。
「あの、今日は……」
 もごもごと言いにくそうにしている。
 今度は俺が瞬きをする番だった。断られるんだろうと気配で察していた。やっぱり土曜日のことを引きずっているんだろうか。ここでその話題を出すのもそれこそ場違いだろうが、一言謝っておくべきか。
 思わず身構えた俺に、しかし彼女は恥ずかしそうにしながら続けた。
「二枚、持ってきてるんです」
「え? あ、布巾をですか」
「はい」
 彼女はこくんと頷く。
 すぐに自らの席へと取って返し、机上に畳んで載せていた真っ白い布巾を握り締めるように持ってくる。それは確かに二枚あって、一枚はおずおずと、俺に差し出された。
「俺の為に持ってきてくれたんですか」
 ほんの少し気分が軽くなるのを自覚しつつ、俺は布巾を受け取った。
 掃除用の布巾を持ってきてもらって喜ぶのも妙かもしれない。でも俺は嬉しかった。以前のやり取りを覚えててくれたことも、俺に手伝わせていいと思ってくれたことも。少なくとも、俺を遠ざけようとしてるんじゃないっていう意思は伝わってくる。
「そうです……」
 郁子さんはますます恥ずかしそうにしながら、俺の反応を窺うみたいに視線を上げた。頬がちょっと赤かった。
「あの、お笑いにならないでくださいね」
「はい」
 笑うって何のことだろう、と一瞬考えた。
「私、これが課長と会話のきっかけになるんじゃないかと思って……」
 言いながら彼女は、気恥ずかしさに耐えるみたいに手にした布巾をぎゅっと握り締めた。
 しかしその可愛い仕種よりも、俺は今の言葉にうろたえてしまった。
「え!? きっかけって、星名さん……」
 思わず声を上げた俺をよそに、彼女は尚も語る。
「で、ですから。もし今日出勤して、課長と上手く話せなかったら、この布巾をきっかけにしてお話しできないかなって思ったんです……。手伝ってくださいって言うのは図々しいけど、でも後藤課長ならきっといいって言ってくださるんじゃないかって」
「いえ、あの、そこまで克明に説明してもらわなくても」
 とんでもないことを言い出されて俺は慌てた。
 別に、嫌な気分になったわけではない。そういうふうに話すきっかけを用意してこようとする女の子の努力は可愛いものだと思うし、それを郁子さんが、俺に対して仕掛けようとしたっていうなら、正直なところときめく。ぐっと来る。
 だがここは社内、経理課、俺たちの職場であって、そういう事情をここで打ち明けられて、こっちまでのぼせたように真っ赤になってしまったら、この後の仕事に確実に差し障るだろう。それは困る。上司として、大変に困る。
 恐らくはもう手遅れに近いくらい、俺は頬が熱くなるのを自覚していた。
 目の前にいる郁子さんは既に耳まで真っ赤にしながら、ぎこちなく微笑んでみせる。
「でもまさか、課長の方から言ってくださるとは思わなかったです。私、それがすごく嬉しくて」
 もしかしたら――いや、改めて考えるまでもない。
 土曜の夜からずっと、彼女だってぐるぐると思い悩んでいたんだろう。自分の取った行動が正しかったのか。それがこの後のことにどれほど影響を及ぼすかわからず、不安になってもいたんだろう。
 だから、こうしてきっかけを用意してくれていた。
 俺が土曜の出来事についてまだ気分を害しているかもしれないとか、そんなふうにも思ったのかもしれない。それで胸を痛めていたのだとしたら、申し訳ない気持ちにもなる。
 と同時に、俺は目の前にいる郁子さんがいとおしくて堪らなくなった。
 小さくて細い肩を抱き締めたい衝動にも駆られた――が、ここは職場だからそういうこともできず、かといって一旦上がりきった熱をすぐさま下げることもできず、やむなく大急ぎで彼女を促した。
「さ、さあ、やりましょう掃除! 皆が来る前に!」
「そうですね」
 郁子さんもまだ赤い顔で、可愛らしく頷いた。

 彼女が汲んできたバケツの水は、例によって酷く冷たかった。
 布巾と手を突っ込んだ瞬間、思わず声が出た。
「うわ、冷たっ」
 凍えそうになりながら布巾を絞ると、まるでブリキの人形みたいな動きになって、傍にいた郁子さんにはくすっと笑われた。
「これ、やっぱお湯でやっちゃ駄目なんですか」
 俺が甘えたことを言い出せば、彼女は困ったように小首を傾げる。
「駄目ではないんですけど、手が荒れちゃうんです。書類がめくりにくくなるかなって」
「でもこれを毎日続けてたら、今度はしもやけになっちゃいますよ」
 現に、俺の後に布巾を絞る郁子さんの手はたちまち赤く、冷えきったようになっている。触れたらきっと氷みたいに冷たいだろう。彼女の手が荒れるのはそりゃ心配になるが、こんなに冷たそうにしているのだって心配だ。
「じゃあ課長に手伝っていただく時だけは、お湯にしようかな」
 郁子さんはそう言ってから、手品の種明かしでもするみたいに得意そうな顔をした。
「でも、今日は大丈夫です。私、とっておきのものを持ってきてるんです」
 もったいつけた言い方をされて、俺はおかしいのを噛み殺しながら聞き返す。
「何ですか、それって」
「カイロです」
 郁子さんはそう言った後、やはり照れを押し隠すような顔つきで付け加えた。
「もちろん、二人分ありますから」
 俺たちは水の冷たさに震えつつ、手早く掃除を済ませた。布巾を洗い、バケツの水を捨てて後片づけも終えた後、彼女が俺に使い捨てカイロをくれて、二人で暖まった。
 すっかり冷えてしまった手をカイロに押しつけながら、俺たちはいつも通りの世間話をした。あくまでも場にふさわしい、上司と部下としてのよくある話ばかりだったが、いつの間にか普段通りのやり取りができるくらいにはなっていた。

 彼女の明るい笑顔を見ながら、俺はふと思う。
 俺たちは昨日の件について、そしてこれから先についても、もう一度話をしなければならないだろう。それは確かだ。お互いに誤った行動を取ったのだとしても、それをなかったことにはできない。ちゃんと確認して、もう二度と選択を間違わないようにしなければならないからだ。
 でも俺は、たった一つのことについては、正しい選択をしたと胸を張って言える。
 この人を好きになったことだけは、絶対に、間違いじゃなかった。
PREV← →NEXT 目次
▲top