Tiny garden

折れそうな(3)

 白く湯気が立ち昇る鍋を挟んで、俺と郁子さんはしばらく食事を続けた。
 彼女が作ったものだからか、二人で楽しく食べているからか、水炊きは筆舌に尽くしがたいほど美味かった。よく煮えた白菜やしゃきしゃきした水菜、あるいは柔らかい鶏肉にポン酢と大根おろしを絡めてふうふう言いながら食べると、冬っていいよなあという気分にしみじみとなる。

 俺が美味しい美味しいと夢中になって食べるものだから、郁子さんにはおかしそうに笑われていた。
「泰治くん、食欲旺盛だね」
「だってあんまり美味いからさ。郁子さん、料理上手だね」
 俺は水炊きの味を何度となく誉めた。
 でも郁子さんは怪訝そうに瞬きをする。
「お鍋って料理のうちに入るの?」
「入るだろ。準備に結構手間取るし、包丁だって使うし」
「泰治くん的には、包丁を使えばお料理なんだね」
 いかにもらしいと思われたか、また郁子さんがくすくす笑った。
 つくづくよく笑う人だと思う。それは仕事中にも思っていたことだが、こうしてプライベートでも会うようになってその実感は一層強くなった。
「俺にとっては、台所に立って作るもの全部が料理だよ」
「そうなるとすごく幅広いね」
「まあね。カップラーメンだって料理だし、お湯で温めるカレーも料理だ」
 そう言ったら彼女はますます笑い、俺もつられて笑いたくなる。
 郁子さん的には鍋物なんて料理のうちに入らないのかもしれない。でも俺からすれば鍋っていうのもなかなかに準備の面倒な献立だと思うし、だから一人ではあんまりやらない。そしてその面倒な準備を手際よく、手早くこなした郁子さんは、やはり料理がちゃんとできる人なんだろう。
 そういえば前に、好物を作ってもらう約束をしていたのを思い出す。あの時、好きな献立を教えてください、って言ってもらっていたっけ。
 俺は一旦箸を止めて、早速そのことを口にしてみる。
「郁子さん、俺の好きな献立を作ってくれるって約束、覚えてる?」
 彼女は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに表情を明るくした。
「覚えてる。そうだったね、いいよ。今度作るから、好きな献立教えて」
「やった!」
 快い返事に俺は喜び、すぐに何を作ってもらおうか考え始める。
 どうせなら滅多に食べられないような、自分では作れなかったり作るのが面倒だったりする献立がいい。とは言え郁子さんにあんまり負担をかけるのも悪いから、彼女にとってはそう難しくなさそうな、割とポピュラーなメニューで。あと、当然ながら俺の好きな、ご飯のおかずに適した品でないといけない。
 鍋の残りをさらいながらあれこれ考えた末、俺は一つの案を切り出した。
「……揚げ物、とかどうかな。面倒じゃない?」
「大丈夫だよ」
 郁子さんはすぐさま頷いた後、考え込むみたいに小首を傾げる。
「でも、揚げ物って言ってもいろいろあるから。唐揚げ? それともコロッケとか?」
「それなら、どっちかって言うとコロッケが好きだけど」
 俺は答えてから、苦笑気味に言い添える。
「自分だとそういうもの、作ろうって気にならないんだ。だからずっと買って食べるばかりで。郁子さんが作ってくれる揚げ物だったら、何だって楽しみだよ」
「じゃあ是非とも、期待にお応えしないといけませんね」
 妙に畏まって答えた郁子さんが、その後でやっぱり笑う。
 彼女の楽しそうな笑顔を見ていると、俺まで幸せな気持ちになれた。ずっと笑っていてもらいたいと思う。
「春になったら、お弁当持ってお花見っていうのもいいかもね」
 更に、郁子さんがそんなことを言い出した。
「昨夜行った公園あるでしょう? あそこ、お花見の名所でもあるの」
「へえ」
 昨夜の記憶がちらっと脳裏をかすめる。
 郁子さんも少しだけ、頬を赤らめていたように見えた。でももしかするとそれは、鍋の湯気のせいかもしれない。
 こっちも気を抜けばあれこれ思い出してしまいそうになるから、あえて風景だけを記憶の中に蘇らせてみる。公園の入り口辺りには、葉が落ちた、幹の太い木々もたくさん伸びていたような気がする。とは言え、あの中に桜があったかどうかまでは夜の景色からはわからなかった。暖かくなったら、今度は昼間にでも見に行ってみようか。
「私も友達とよく行ったんだ。ほら、今日会ったさっちゃんとかと、学生時代にね」
 話しながら郁子さんがうどんのパックを手に取る。
「そろそろ締めのうどん入れてもいい?」
「お願いします」
 俺の返答を聞き、彼女が締めのうどんを投入して、カセットコンロの火力を上げる。すると鍋が再びぐつぐつ音を立てた。
 湯気が充満する彼女の部屋は、冬とは思えないくらい暖まっている。壁や窓ガラスを隔てた向こう側には今日も冷たい風が吹きつけているはずなのに、部屋の中は別世界みたいに居心地がいい。一足先にここへ春が来たような気分だった。
「春になったらか……」
 春の気分を先取りする彼女の提案はいいなあと思ったし、それはそれで楽しみだった。
 だが春には俺にとって、と言うより経理課にとって、何を差し置いてもまずこなさなければならない関門がある。
「あと三ヶ月くらいだよ。すぐじゃない」
 郁子さんは俺が先の話を待ちきれないでいると思ったのか、明るく励ましてくれた。俺はちょっと笑いつつ、正直なところを話しておく。
「そうだけど。でもその前に、決算があるからさ」
「あるね……。こればかりはしょうがないね」
 途端に彼女の顔も曇った。
「春の予定は楽しみだけど。全部、決算期が済んでからなんだよなって思うと……」
「大変だね。お互い、乗り切らないと」
「本当だよ」
 こういう時、同じ職場だと憂鬱も苦労も共にできていい。
 反面、いざその時期になったらお互い仕事にかかりっきりで、あんまり連絡も取り合えなくなるんだろうなという予感もする。俺たちはまだ微妙な関係だから、繁忙期を過ぎた後どうなるかを考えると、多少の不安に襲われる。当然、忙しさのあまり疎遠になったなんてことはないよう、最大限の努力をするつもりだが。
 春になったら俺たちはどうなっているだろう。
 俺はまだ、『彼氏』とはっきり呼ばれない程度の立ち位置にいるんだろうか。
「そうだ。春って言ったらね」
 ふと、郁子さんがにこにこしながら切り出した。
「ゴールデンウィーク、また旅行に行くつもりなんだ。泰治くんにもお土産買ってくるから、今回は何がいいか聞かせてくれる?」
「……え?」
 思わず、俺は聞き返した。
 うどんが煮えて、少し火力の落とされた鍋がそれでも白くゆらめく湯気を上げている。その向こうで郁子さんは、まるで子供みたいに無邪気な表情を見せていた。
「一人旅?」
 聞き返すのはそこじゃないだろう、と我ながら思った。
 でも、尋ねずにもいられなかった。
「当たり前だよ」
 郁子さんはふわっと笑んで答えたものの、やがて俺の戸惑いに感づいたらしい。急いで笑みを消す。
「あ……と、ごめんね。勝手に予定入れてて、がっかりした?」
「い、いやいいよ。それは郁子さんの都合だし、好きなんだろ、旅行」
 さすがに彼女の趣味にまで口を挟む気はないし、その権利だってないと思う。ましてゴールデンウィークの旅行というなら、もしかするとかなり前から予定を立てて、予約も入れていた可能性があるだろうし、彼女だって好きで行くんだから『楽しんでおいで』って送り出すのが男の余裕というやつだ。
 でも、寂しくないと言えば嘘になる。
「もしかして、一緒に行きたいって思ってくれてた?」
 郁子さんが、尚も気遣わしげに尋ねてくる。
 そりゃそうだよ、って答えたかった。正直に言いたい気持ちもあったが、でもそう言えば彼女がどんな反応をするかは俺にだってわかる。郁子さんにはあまり気を遣わせたくなかったし、束縛する男だと思われるのも嫌だ。
「この次行く時、誘ってくれればいいよ」
 取り繕うみたいに俺は言った。
 本当は、そこまでの権利すらないんじゃないかと内心密かに思いながら。
「本当にごめんね、前の旅行のすぐ後に予定立ててたから」
 郁子さんもフォローするつもりか、口早に続けた。
「その時はまだゴールデンウィークもどうせ暇だろうって思ってて……あと、泰治くんとここまで仲良くなるなんて考えもしなかったの。まだ実感がなかったって言うのかな」
 彼女はそこまで言うと、大人びた照れ笑いを見せる。
 いつもなら可愛いと単純に思うその顔も、今は目の当たりにするだけで胸が痛んだ。
 つくづく痛感した、ってところなのかもしれない。友達の前ではっきり言われないよりも、まだ好きだと言ってもらってないことよりも、ずっと強く理解できた。
 一人旅の予定をこうして、決まってしまってから教えてもらったことで。
「……泰治くん」
 静かに名前を呼ばれて初めて、場の空気が変わった事実にも気づいた。
 さっきまであんなに楽しく話をしていたのに、郁子さんの部屋はいつしか静まり返っている。カセットコンロの火も止まり、鍋から立つ湯気も少しずつ薄れつつあった。
 そして、俺の顔をじっと見る郁子さんの表情は、言い知れぬ不安を抱え込んでいるみたいに張り詰めている。
「ごめん。大丈夫、ちょっと寂しいなって思っただけだから」
 俺は慌てふためきながら、馬鹿みたいにおどけて答えた。
「あ、じゃあ俺、郁子さんが出かける時に見送りでもしようか。駅のホームを必死で電車追っ駆けて走って、最後に大きく手を振るからさ。窓から振り返してよ」
 別に面白いことを言えたとも思ってなかったが、郁子さんはそこできゅっと唇を噛み締めた。
 俺の言葉が聞こえなかったみたいに数秒間目を伏せ、それから決意でもしたみたいに視線を上げる。
 真っ直ぐに俺を見た時、彼女はまだ硬い表情のまま切り出した。
「泰治くん。冷蔵庫にビールがあるよ、飲んでいかない?」
 彼女の発言と表情が、噛み合っていない気がした。それ以前に妙なタイミングだと思ったし、何より郁子さんは肝心なことを忘れている。
「駄目だよ。俺、車で来てるんだから」
 俺は半笑いで、飲酒運転になっちゃうよ、と続けた。
 だが彼女は笑うこともなく、でもやっぱり話の流れにはそぐわない強張った顔で、
「今日は土曜日でしょう。酔いが覚めるまで、ここにいればいいよ」
 と言った。

 さっきの俺のつまらない冗談よりも、よほどはっきりと場の空気が凍った。
 彼女が何を言わんとしているかはわかった。
 でも、それが彼女の本音かどうかはわからなかった。
 むしろ、本音であるはずがないだろう。昨夜のキスとそれに対する反応を思い起こせば、彼女が自らそこまで踏み込んでくるとは到底思えない。キスだけであんなに真っ赤になって、うろたえていた彼女が。
 だったらなぜ、郁子さんはこんなことを言い出したんだろう。
 嫌だったわけじゃない。俺は正直どきっとしたし、わずかなりとも期待してないといえば嘘になる。でも。

「郁子さん、本気で言ってる?」
 俺はなるべく柔らかく、いつでも冗談に方向転換できるような口調で聞き返す。
 彼女はためらうような間を置いてから、ぎくしゃくと顎を引いた。
「うん」
 それからぽそぽそと、消え入りそうな声で付け足した。
「私は、いいよ。そのくらいは普通だと思ってるし……」
 どう聞いても、普通だと思っている様子ではなかった。
 なぜ、という俺の疑問は一層強くなり、そんなことを言い出す彼女に少しだけ苛立ちも覚えた。またからかわれているんだろうか。それとも、旅行の件のお詫びだとでも言いたいんだろうか。どちらにしてもあまり気分のいいもんじゃない。
「普通じゃないよ」
 すかさず俺は反論した。今度は声音を装う余裕もなく、多分、いくらかきつい物言いになっていたことだろう。
「そういうのは付き合ってる相手に言うもんだろ。俺と郁子さんはそうじゃない」
 たちまち郁子さんがびくりとする。俺の声のせいか、言われた内容のせいか。
「そう……かもしれないけど、でも、私たちは――」
「付き合う前から、寝てる時に黙ってキスした人間の言っていいことじゃないだろうけど」
 彼女の言葉を遮り、俺は言い放った。
「でもそんなこと、それも無理してる感じで言って欲しくない。何でそんな、おかしな気の遣い方するんだよ」
 多分、そういうことだと思う。気を遣われたんだろう。
 にしたって、そんな気の遣い方を好きな人にされるなんて情けなくて寂しくて、ものすごく苦しかった。しかも彼女は、まだ俺のことを好きなわけじゃないのに。
 好きじゃなくてもいいって、これから好きになってくれればいいって、俺はそう思っていたのに。
「だって……」
 郁子さんは俯き、細い肩を震わせた。
 泣かせたかな、と俺はにわかに後悔したが、彼女の声は泣いているふうではなく、ただただ心細げに震えていた。
「せっかく好きになってもらったのに、私、何にもしてあげられてないから……」
 彼女は優しい人だ。
 それはずっと前から、今の職場に異動してきてすぐの頃から知っていた。
 だが、こんな優しさは要らない。
「郁子さん」
 俺は立ち上がり、真向かいに座っていた彼女の隣まで移動した。震える肩をぎゅっと、腕を回して抱き締めると、彼女の身体が感触だけでわかるくらい硬直する。それでも顔を上げないのは、もしかしたら俺に怯えているせいかもしれない。
 本当に抱いたら、きっとこんなものじゃ済まないだろう。もっと緊張して怯える彼女が想像できて、暗い気分にさえなった。昨夜の別れ際とは全く異なる反応が胸に、痛い。
「俺は、好きになって欲しいんだよ、郁子さんに」
 切実な思いを彼女に囁く。
「それだけでいいのに」
 こればかりは優しさだけではどうにもならない。人の気持ちなんて移ろいやすくて、自分自身の意思ですら時々操れないほどだ。俺がいくつ言葉を重ねても、本心からの想いを伝えても、彼女の心を動かせるかどうかはわからない。
 でも、だとしてもだ。彼女のその優しさに付け込んで、なんてできるはずがなかった。きっとあの夜の、映画館でのキス以上に後悔することになるだろう。あれからここまで辿り着けた時点で、奇跡みたいなものなんだから。
「……ごめんなさい」
 腕の中から謝罪の言葉が聞こえて、俺は一瞬愕然とした。
 だがそれを押しとどめるみたいに、俺の胸元で彼女はかぶりを振る。
「変なこと言って、ごめんなさい」
 そういう意味での謝罪かと、少しだけほっとした。
 俺が大きく息をつくと、郁子さんも身体から力を抜いた。俺に寄りかかるようにして身体を預けてくる。支えようと背中に腕を回して抱き直す。力いっぱい抱き締めたら折れそうなくらい、彼女は小さくて細い。
「私……」
 郁子さんは顔を上げずにぽつりと言った。
「ごめんね、いろんな気持ちがごちゃごちゃで……好きになってもらえて嬉しくて、何かしてあげなくちゃって思って、どうしたらあなたが喜ぶのかって、自分の頭だけで考えちゃって……」
 震える呼吸の合間に、途切れ途切れの声が聞こえてくる。
「私、あなたのこと何も知らなかった」
 その言葉にはさすがにぎくりとした。
 昨夜、あわよくばいけるかもしれないなんて考えたことは事実だったし、それ以前に最初のキスについて言うなら、俺がそういう人間だと思われていたって仕方がない。それは自業自得というやつだ。
「泰治くんが、こういう時に叱ってくれる人だって、知らなかった」
 そう呟くと郁子さんは顔を上げた。その時彼女は今にも泣き出しそうに目を潤ませていて、言い過ぎたかもしれないと俺は今更後悔の念を抱いた。
 でも彼女は、顔を上げてからも言った。
「ごめんね」
「もう、いいよ。俺も言いすぎた」
 俺の詫びには首を横に振り、郁子さんは泣きそうな顔のまま弱々しく笑う。
「情けないなあ……。私、楽しもうって思ってたのに、全然余裕ないみたい」
 その言葉の意味を考える余裕は、俺にも今はなかった。
 ただ折れそうな彼女の身体を抱き締めながら、放ったらかしにされた鍋をぼんやり眺めていた。既に湯気は消え、室内には彼女の部屋の甘い木の匂いが戻りつつあった。そして俺たちが黙っていると、部屋の中はいつまでも静かだった。

 その後は二人で片づけをした。
 鍋や食器を洗う郁子さんに手伝いを買って出たところ、食器を拭くのを任された。布巾で拭いた食器を棚にしまうと、彼女がビールではなく、紅茶を淹れて振る舞ってくれた。
 一緒に紅茶を飲みながら、いくつか当たり障りのない話をした。職場の話や好きな献立の話など、本当にただの世間話を。空気はまだぎくしゃくしていたからさして盛り上がらなかったが、話をしていないとさっきまでの出来事がひょっこり話題に浮上してきそうで落ち着かなかったから、俺は絶えず話し続けた。郁子さんもそれをわかっていたのか、熱心に相槌を打ってくれた。
 外まで見送るという彼女の申し出を断り、その日は玄関先で別れた。
「……ごめんね」
 最後の最後で蒸し返してきた郁子さんに、俺はかぶりを振るのが精一杯だった。
「水炊き、美味しかった。ありがとう、おやすみ郁子さん」
「うん。おやすみなさい、泰治くん」
 頷いた彼女はまた泣きそうな顔になりながら、そっと言い添えてきた。
「また会社でね」

 外へ出ると既にとっぷり暮れていて、俺は寒さに震えながら車に乗り込み、かじかむ手でエンジンをかける。
 そして車を発進させながら、今夜は昨夜とは別の意味で眠れなくなりそうだと確信を抱いていた。
 余裕がないのは俺だって、同じだった。
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