Tiny garden

君に墜ちる星のひとつ(2)

 繋いだままでいた手に、少し力を込めてみる。
 ちょうど拳一つ分くらい距離を置いていた郁子さんの肩が、びくりと跳ねたのが見えた。
 黙ってそうしたせいかもしれないが、随分と驚くものだ。バーにいる時は俺のことをいろいろ、散々からかってきたくせに、こうして直に触れられるのは案外苦手なんだろうか。
 様子を窺おうと隣を向けば、郁子さんも怪訝そうにこっちを見ていた。
「どうか……したの?」
 先に口を開いたのは彼女の方だった。
 ついさっきまで熱心に星の話をしていた時とは違い、戸惑っているような表情を浮かべている。デート中なんだから、もっと何が起きてもおかしくないくらいの意識を持ってもらいたいものだ。俺だってからかわれてばかりの男じゃないんだから。
「郁子さんを好きになった時のこと、思い出したんだ」
 俺は、そういうふうに切り出した。
 彼女が素早く瞬きをする。公園の中に冷たい風が吹いて、木々が囃し立てるみたいにざわめき始める。繋いだ手は彼女の方が温かくて、でもずっと触れ合っていたせいだろう、俺の手のひらにも彼女の熱が移って温かくなっていた。
「星の話で?」
 郁子さんが慎重に聞き返してくる。
 顎を引いて、俺は答える。
「そう。星名さんって名前、きれいだなって思った」
 俺は天体観測に興味があるわけじゃないし、星座だの大三角だのはずっと前に授業で習ったきりでほとんど覚えていなかった。そんなだから、星のイメージなんて本当にありふれたものしか抱いてない。
 きれいで、光っていて、でもすごく遠くにあるもの。
 俺にとっての彼女は長らく、そういう人だった。年上で、俺より経理の仕事に明るくて、でも申し訳ないことに肩書きの上では俺の部下だ。この人に仕事で迷惑をかけるのが本当に嫌でたまらなかった。なのに異動したての俺はずっと彼女に頼りきりだったし、彼女はそんな俺にも優しく、柔らかく、そして生真面目に接してくれていた。経理課の他の子とできる軽いお喋りすらできないほど、俺は彼女に、星名さんに惹かれていた。
 だがそういう距離もここ最近で、更に今日一日で一気に縮まったように思う。もう彼女に対して、話しにくいなんて感じることはない。俺は彼女のいろんな面を少しずつ知りつつあるし、きっと彼女の方だってそうだろう。今日は名前で呼び合うようにもなったし、敬語を使うのもやめた。そうしたら一層近づけたような気がした。
 あとは本当に、ごくわずかな距離があるだけだ。拳一つ分くらいの距離。繋いだ手が作る、ほんの少しの隙間。それだって必ず埋めてしまえることだろう。根拠はないが、俺はそうするつもりでいる。
「私もそれ、聞こうと思ってた」
 星明かりよりも眩しく、街灯の光が俺たちのいるベンチまで差し込んでいる。その光の中で郁子さんの顔はなめらかできれいな彫刻みたいに見えた。
 だが作り物ではない証拠に、今の言葉の後で彼女は、はにかむように微笑んだ。
「泰治くんは、私のどこを好きになったの?」
 それは少々難しい質問だった。
 最初のきっかけはわかっている。彼女の名前そのままの、彼女のきれいな優しさに惹かれた。
 でも彼女について知るうちに、知った先からどんどんと好きなところが増えていく。寝顔の美しさも、意外な気の強さも、俺をからかう時のお姉さんぶった態度も、酔っ払ってはしゃいだ時の子供っぽさも、全部可愛くて堪らなかった。もっと彼女のことを知りたいと思う。その為にも、もっと長い時間一緒にいたいと思う。
 帰りたくない。この時間を終わらせたくない。
 このままずっと、一緒にいられたらいいのに。
「全部、好きだよ」
 だから俺は、そんなふうに答えた。
 郁子さんはその答えが予想外だったと見えて、困ったように眉を下げた。
「全部? ……本当に、全部?」
「もちろん。最初は、郁子さんが優しくしてくれたから。いつも困ってる俺に手を差し伸べてくれたから、そういう理由だったんだけどな」
 好きな人だから、何もかもよく見えるのか。
 何もかもよく、可愛く見える人だからこそ、好きになったのか。
 どちらかは俺にもまだよくわからない。俺もいい大人になったつもりでいたが、恋をする心の仕組みなんて、もしかすれば生涯理解できないかもしれない。そういう仕組みのわからないものを勝手に動かされて、呆気なく振り回されて、俺はクリスマスイブの夜、眠る彼女にキスをした。
 あれがなければ今夜のデートもなかっただろう。恋なんてつくづくわからない、ままならないものだ。
「今は、全部が好きだ。郁子さんのこと、知れば知るほど好きになる」
 彼女のマフラーを借りていても、ベンチにずっと座っているのは寒かった。そのせいで声が少し震えた。でも情けなく聞こえないよう、精一杯胸は張っておく。
「だから、もっと知りたい。俺の知らない郁子さんが、きっとまだたくさんあるだろうから」
 そう伝えた時、郁子さんは視線を上げて真っ直ぐに俺を見た。
 酔いはすっかり覚めてしまったのだろうか。彼女の眼差しは強くて、まるで俺を見透かそうとするみたいだった。夜空みたいに黒い瞳に街灯の白い光が浮かんで、うるうると揺れているようだった。
 顔つきはやはり、戸惑いの方が強いみたいだ。口紅の落ちた唇は軽く開いていたが、そこから言葉が紡がれることはしばらくなかった。酔いが覚めても上気したままの頬が柔らかそうで、手を伸ばして触れたくなる。
 俺は一瞬迷ってから、繋いでいない方の手で彼女の頬に触れた。熱を持っているようなその頬は思った通りに柔らかく、俺の手が冷たかったせいか、郁子さんはまたびくりとした。
「冷たい?」
 尋ねてみると、彼女は瞬きをしてから唇を動かす。
「うん……でも、気持ちいい。このままでもいいよ」
 くだけた口調で言った後、彼女は口元を綻ばせた。
「だけど、全部だなんて……。全部好きなんて言ったら、後で泰治くんが困らない?」
 この期に及んで郁子さんは、何だかお姉さんぶった物言いをする。何にも知らないんだから、と嗜めるような言い方だった。
 そりゃ郁子さんの全部を知ってるなんて、今の俺には到底言えない。
 だがこの先何を知ろうと、彼女のどんな新しい顔を見ようと、今の気持ちが一層高まることはあっても、霞んでしまうことはないだろう。
「困らないよ」
 俺は語気を強めて言い切った。
 それからすぐ、逆に尋ねた。
「郁子さんは、俺の気持ちが信じられない?」
 別に、そうだと言ってくれてもいいと思っている。信頼なんて簡単に築けるものじゃない。恋愛感情が絡むなら尚更だ。信じられないならそれで、時間をかけてじっくり深めていけばいいだけの話だろう。
 でも郁子さんは、どう答えるべきかいくらか悩んだようだ。
 しばらく目を伏せたまま黙っていた。

 夜が更けて、ますます誰も足を運ばなくなった公園に、何度か冷たい風が吹いた。
 木々のざわめきにも何度となく急かし立てられてから、ようやく彼女は答えをくれた。
「私は、泰治くんを信じてみたいって思ってる」
 ぽつりと落ちた言葉に、俺は多少ほっとする。否定的な回答が来ても構わないと思ってはいたものの、やっぱりそういう答えの方が嬉しい。
 郁子さんも俺の安堵に気づいたようだ。そこで、あたかも詫びるように苦笑した。
「こんなこと言ったら、泰治くんには失礼かもしれないけど……」
「いいよ、別に。何言われたってそうは思わないよ」
 即座に俺は肩を竦めた。
 だが郁子さんは続きをためらい、視線を繋いだままの手に落とした。本当は俯こうとしたようだが、俺の手が頬に添えられているせいでできなかったようだ。俺も、目を逸らされるだけならまだしも、顔を背けられるのは嫌だった。だから彼女の頬からも、手からも、ずっと離れずにいた。
 彼女の言おうとしている『失礼かもしれない』話には全く心当たりがないが、郁子さんの言うことがそこまで俺を傷つけるようなことでもないだろうと思っている。この人はそういう人だ。短い付き合いでもわかる。
 だから俺は、あえて明るく促した。
「失礼って言うなら、年下扱いしてからかわれる方がよっぽど癪だ。それ以外なら俺は全然平気だから、話して、郁子さん」
「そっか。さっきはからかって、ごめんね」
 郁子さんは難しげだった表情をふっと解いた。それから、少しの間ためらっていたことを口にした。
「私ね、泰治くんの気持ちを聞いた時、やっぱり嬉しかったの」
「……本当に?」
 つい口を挟んでしまった。
 郁子さんが笑いながら頷いたから、俺も内心密かに喜ぶ。
 嬉しかったのか。まあ、そうでもないとこうして会ってはくれないよな。
 でも、思っていたよりこれは、期待できるかもしれない。
「こんなこと、もうないかもしれないって思ってたから」
 彼女はどこか気恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「これが最後のチャンスで、最後の恋かもしれないって……」
「まさか。郁子さん、そんな歳じゃないだろ」
 また、俺は口を挟んだ。
 俺の立場からするとこんなことは言わない方がいいはずだ。これが最後のチャンスかもしれない、って思ってもらえる方が有利なのはわかっている。
 だがそれでも言いたくなった。郁子さんは恋を諦めるべき年頃でもないし、こんなにもきれいで優しい人なのに。
「今時、三十代でラストチャンスなんて言ってたら、世間から袋叩きだよ」
 かく言う俺も今年で三十、微妙なお年頃だ。当然ながら最後のチャンスだとか、最後の恋だなんて思ったことはまだ一度もないし、まだ当面はありえないだろう。そう主張すれば、郁子さんは控えめに笑んだ。
「そうだね。努力してる人には、まだチャンスもご縁もあると思う」
「郁子さんは、努力してないって?」
「しなかったよ。私、一人きりでもいいって考えてた」
 きっぱりと、郁子さんは言い切った。ただその時、表情には迷いのような、憂いのような暗い色が過ぎっていた。
「一人でもいいからって、何にも頑張らなかった。ずっと、自分だけが楽しければいいやっていうような生き方をしてた。なのに好きになってもらえて、嬉しくて……嬉しかったけど、ちょっと恥ずかしかったな」
 彼女は剥き出しの白い首筋を竦める。寒そうにも見えた。
「私、一人でいいって思ってたくせに、簡単に浮かれちゃうんだなって」
「俺は、浮かれてくれた方が嬉しいけど」
 茶化すつもりで告げたら、郁子さんは訝しげな顔で俺を見上げた。
 俺としては、何の努力もしてこなかった彼女がすごくありがたい。長らく――いつ以来か知らないがとりあえず俺と出会うまでは一人でいて、誰か相手を探すようなこともなくて、久し振りにされた告白を簡単に喜んでくれたことに、もはや感謝すらしている。そうでなければこの恋は今以上に険しく、もしかすれば叶えてはならないものになっていたかもしれない。
「じゃあこれからは、一緒に努力をしようよ」
 俺は、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「郁子さんは俺を信じてくれればいい。俺を信じる努力を、して欲しい」
 彼女は答えない。でも黙って、真剣な眼差しを返してくる。
「俺は郁子さんを幸せにする為の努力をする。悲しい思いも、寂しい思いもさせない」
 恋をする心の訳のわからない仕組みを、信じろと言っても無理があるだろう。人の心は呆気なく移ろい、変わってしまう。誰かを好きだと思っても、その気持ちが何もせず放っておいても永久不変であるはずがない。移ろわないように、変わらないように、努力することはとても大切だ。
「俺といる時はいつも、すごく楽しくて幸せだって、郁子さんに思わせてみせる」
 自分では本気の台詞だったのに、郁子さんはそこでなぜか笑った。
「何で笑うんだよ」
 思わず抗議の声を上げると、彼女は焦った様子でかぶりを振る。
「ご、ごめんね。泰治くんはすごく、ストレートな物言いをするんだなって思ったの」
「婉曲的に言って伝わらなかったら嫌だから」
 俺はそう言った。
 でも本当は、少し違う。必死だからだ。彼女がどうしても欲しいからだ。言葉を取り繕う余裕も本当はなくて、真実を口にすれば歯の浮くような台詞になって、そういう自分に内心面映さを覚えていたりもする。
 それに俺は、そこまで前向きな人間でもない。努力だけではどうにもならないことがあるのも、人の気持ちの恐ろしいくらいの移ろいやすさだって知っている。だがそれでも今は、そう言わずにいられなかった。
 喉から手が出るくらい。必死になってしまうほど、彼女が欲しくて堪らなかった。
「……じゃあ、しようか」
 郁子さんは、観念したようにも見える優しい表情で言った。
 そうして頬に触れていた俺の手に、彼女の小さな、思ったよりも冷たくなっていた手を重ねてきた。
 何をしようと言われたか、もちろんわかっている。
 わかった上で俺は、あえて誤解してやろうと思った。頬に添えていた手に力を込めて、自分の方へぐっと引き寄せる。一瞬びくりとした郁子さんは、顔を近づけた俺を制するように苦笑を浮かべた。
「するって、努力をするってことだよ」
「知ってる。駄目?」
 この間は頬にしかできなかったから、今夜はもう少し唇に近づけるんじゃないかと思った。聞き返した俺に、郁子さんは困惑の目を向ける。
「駄目じゃないけど……」
「唇でもいいと思ってたって、この間は言ってくれてたのに」
「……言ったけど」
 指摘されたせいか、彼女の目がすっと細くなった。軽く睨むような目つきだ。
「泰治くんは二回目だって思ってるかもしれないけど、私はそうじゃない。本当にすごく、久し振りだから」
 それを言われると厳しい。俺は一度目のキスを思い出し、ついでにあの直後の気まずさ、罪悪感もいっぺんに蘇らせていた。
 だがそういう心情も、新しい思い出で塗り替えられるものじゃないだろうか。
「俺も久し振りだよ。意識のある相手にするのは」
 だからそう応じたら、郁子さんは口紅が落ちた後の唇を少し尖らせた。
「ねえ。ああいうことしたのって、私だけ?」
「もちろん。言っとくけど、常習犯じゃない」
「本当かなあ」
 どうも疑われているようだが、俺だって片想いの相手に無断でキスするのがどんなに悪いことか、わかっているつもりだ。あんなことは一度だけ、あの時だけだ。そしてこれからは、キスするのにいちいち断らなくてもいい関係になりたい。
「ちゃんと、やり直したいんだ。郁子さんが許してくれるなら」
 俺が言うと、彼女はやっぱり笑んだ。笑ってから、でも思いのほかぎこちなく瞼を閉じた。薔薇色の唇が微かに、震えるように動く。
「いいよ。私、すごく緊張してるけど……それでもいいなら」
 よくないはずがない。
 黙って俺は彼女を更に引き寄せ、今度こそその唇に近づいた。

 唇が触れるまで、俺はずっと目を開けていた。
 郁子さんはキスする時、どんな顔をするんだろうって、見てみたかったからだ。
 映画館で見た寝顔とは違い、彼女の顔は目を閉じていても起きていることがはっきりとわかった。なめらかな瞼やそれを縁取る長い睫毛は寒そうに震えていたし、柔らかそうな頬は夜風の中でも燃えるような赤みが差していた。ごく薄く開いた唇も時々苦しげに息をしていて、緊張しているっていうのも嘘ではないようだった。
 もしかするとこの間、彼女の部屋でした時も、緊張していたのかもしれない。
 そんなことを思いながら、俺は唇を重ねた。
 映画館の青白い光はここにはなくて、フランス語の台詞も静かな音楽もない。あるのは街灯の光と冷たい風が揺らす木々の音だけだ。触れた唇も記憶と違ってひやりと冷たく、そして離れるまでずっと、震えたままだった。
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