Tiny garden

君に墜ちる星のひとつ(1)

 一月の夜が暖かいはずもなく、バーを出るとたちまち空気の冷たさを感じた。
 火照った頬にはちょうどいいくらいだったが、コートの襟では覆いきれない首の後ろ辺りがひやっとした。
 思わず首を竦めると、郁子さんが何かを差し出してくる。
「寒い? これ使う?」
 彼女が手にしていたのは、赤いチェックのマフラーだった。この冬、彼女がよく身に着けているもので、見覚えもある。
「郁子さんは? これしてないと寒いだろ」
 俺が眉根を寄せると、彼女は妙に浮かれた口調で応じた。
「全然平気。私は寒くないから要らない」
「風邪引くよ、コートだってちゃんと着ないと」
 彼女は店を出る時もコートを着ずに抱えたまま、マフラーだってせずに外へ飛び出した。俺は思わず咎めてしまったけど、実際彼女はちっとも寒そうではないし、仕事用のスーツ上下のままでも平然としている。
 それどころか気持ちよさそうに冷たい空気を吸い込んで、はあっと大きく息をついた。白い吐息が広がったかと思うと、夜風に吹かれてすぐに消えていった。
「私は寒くないの。むしろ暑いくらい」
 駄々っ子みたいな調子で言うと、郁子さんはもう一度俺にマフラーを差し出してくる。
「だから、泰治くんが寒いなら使っていいよ」
「いいの? 本当に?」
「うん。寒い中、私の気まぐれに付き合わせるのは悪いしね」
「じゃあ借りるよ、ありがとう」
 俺はマフラーを受け取り、自分の首に手早く巻いた。別に嗅いだわけじゃないが、そこはかとなくいい匂いがした。なぜか笑いが込み上げてきて、そのタイミングで隣の彼女と目が合って、ちょっと恥ずかしくなる。
「郁子さんが寒くなったら返すから、言ってくれよ」
 取り繕うつもりで告げると、郁子さんは子供みたいにこくんと頷いた。
 それから、夜の街並みの向こうを指差してみせる。
「ちょっと歩くけど、向こうに大きな公園があるの。知ってる?」
「通りかかったことはあるかもしれない。車でだけど」
 俺はまだこの街の地理にさほど明るくなくて、仕事で行く必要のあるところと、後は買い物に必要な店までの道程くらいしか覚えていない。今日みたいに飲み会や女の子と一緒の時はいつもネットで店を調べているし、今まではそれで十分事足りていた。
 公園か。そういえば、しばらくそういうところには行ってないな。
「結構きれいで、静かなところ。よかったらそこへ行かない?」
 郁子さんが誘ってきたので、俺もまだ帰ってたまるかという気分だったし、二つ返事で応じた。
「いいよ、行こう」
「うん。行こっ」
 朗らかに弾む声を上げた後、郁子さんはいち早く歩き出す。
「あ、待って」
 数歩遅れた俺が呼び止めても、彼女は立ち止まらない。それどころか軽い足取りでどんどん歩いていく。一度振り向いてこっちを見てにこっとしたから、きっとわざと待たないつもりなんだろう。
 本当に、子供みたいだ。
 何をはしゃいでるんだろう、と俺は思う。今夜のデートを、この時間を楽しんでくれているならそれはいい。むしろ嬉しい。だが浮かれた様子の郁子さんを見るのは初めてだったから、戸惑いの方が先立ってしまった。
 俺と一緒にいるからはしゃいでるって、そう考えていいんだろうか。
 まあ、埒の明かないことをここで考えてもしょうがない。彼女はとうに歩き出してしまったし、放っておいたら本気で置いてかれるかもしれない。
 俺は彼女の後を追うべく、その場から駆け出した。それほど飲んでいなかったおかげで問題なく走れたし、すぐに彼女に追い着くことができた。子供みたいな彼女の、コートを抱えていない方の手だって掴むこともできた。
 彼女の小さな手は、今は温かかった。相対的に俺の手が冷たいってことなのかもしれない。そのせいか、彼女は手を握られた瞬間はっとしてこちらを見た。
「俺、道わからないから。案内してよ、郁子さん」
 せがみながら俺は、有無を言わさぬ調子でぎゅっと強く握ってみる。
 郁子さんは随分とびっくりしたようで、急に遅い足取りになった。驚きに見開かれた目はしばらくの間、黙って俺を見上げていた。ただ、これは俺の願望込みかもしれないが、彼女からは嫌がっているようなそぶりは見当たらなかった。手を振り解こうとするふうでもなく、ゆっくりと歩きながら握られたままでいた。
「ごめん、びっくりした?」
 わかりきっていることを尋ねてみる。
 彼女は、やっぱり頷く。
「うん……。ちょっとだけ」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃない。ただ、急だったから」
 そう答えてから彼女は、思い出したみたいに笑顔を取り戻した。直に俺の手を握り返してくる。
「それと、久し振りだったから。誰かと手を繋ぐのも」
 彼女の言う『久し振り』って、一体どのくらい昔の記憶なんだろう。
 俺は彼女の笑う顔を見つめながら、不意にそんな疑問を抱いた。
 郁子さんのような人が恋愛経験もないなんて思えないし、過去にはそれなりに付き合った相手もいたんだろうと思う。そんなのは当たり前のことだし、そういう思い出に嫉妬するほど愚かではないつもりだ。
 だから彼女みたいにきれいで明るくて、仕事中はとても真面目で、それでいて心遣いもできるような人が、手を繋ぐのも『久し振り』なんて言うのを意外に思った。そんなにずっと、恋愛していないんだろうか。どうしてだろう。
 俺にとってはありがたいことだが、だから考えなくてもいいはずだが、少しだけ気になった。

 冷たい夜風と照明の瞬く街並みを抜け、俺たちは目的の公園へと辿り着く。
 こんな時間でも騒がしい街中とは打って変わって、公園の周囲はひっそりと静かだった。外周をぐるりと囲むように立っている街路樹が防音壁の役割を果たしているのかもしれない。風が吹く度にその木々がさわさわと囁き合うような音を立て、随分遠くへ来てしまったような、そんな錯覚を抱いた。
 郁子さんは俺の手を引くようにして公園に入った。手を繋いでからというもの、彼女ははしゃぐのも忘れたように口数が少なかった。でも公園に入った途端、急に活力を取り戻したように早足になった。
「この奥に噴水があってね、そこの前にベンチがあるから」
 彼女はまだコートを着ておらず、頬も耳も真っ赤にしている。俺は何度か寒くないのか尋ねてみたが、決まって首を横に振られた。
 枝葉を広げた木々の影が伸びる遊歩道を歩いていけば、やがて彼女の言った通りに噴水が見えてきた。ただし冬だからなのか、噴水からは水が出ている気配はない。冷たいコンクリでできた、ただの大きな円形のオブジェだ。そこに水の噴き出し口と思しき棒状のものが数本、点々と立っていて、水気もないのにかえって寒々しく映った。
 噴水の周りには背もたれのない木のベンチが、外周を取り囲むようにいくつも設置されていた。郁子さんはそのうちの一つにためらわずに腰を下ろし、手を繋いだままの俺もすぐそれに続いた。
 繋いだ手の分だけ、俺たちの間にはほんのちょっとの隙間が開いている。
「ふう、歩いたね」
 郁子さんが白い息をつく。さすがにくたびれてしまったのか軽く俯いていた。
 スーツとその下のブラウスの襟首からは真っ白いうなじが覗いていて、色っぽいと思う反面、本当に寒くないのかと気になったりもする。
「マフラー、返そうか?」
 気にした俺が尋ねると、郁子さんは声を立てて笑った。
「泰治くん、気にしすぎ。本当に寒くないんだから」
「でも、油断してると風邪引くよ。寒くなったらちゃんと着ないと」
「わかってる」
 彼女は軽く答えて身を起こす。抱えてきたコートとバッグとを自分の膝の上に置き、空いた方の手で自らの赤い頬に、温度を確かめるみたいに軽く触れた。
「やっぱり、寒さを感じないのって、酔ってるからだと思うよ」
 少なくともその態度に、やせ我慢しているそぶりはない。外にいるのが本当に気持ちよさそうだった。
「酔っ払うほど楽しんでくれて嬉しいよ」
 俺は、そう言っておく。
 どうして彼女がこんなに酔っているのか、理由の程はまだわからない。だが二回目のデートでは『見せられない』と言っていた姿を、こんなにも早く晒してくれたことは素直に喜べた。それだけ気を許してくれたのだったら、嬉しい。
「今夜はすごく、いいデートだね」
 郁子さんが言った。
 俺を誉めてくれたようにも、自分で噛み締めているようにも聞こえた。

 この公園には、人気があまりなかった。
 と言ってもこんな時間だ、人通りのある方がおかしいだろう。時折遊歩道の向こうに犬を散歩させる人の姿が見えたり、ジョギングする夫婦と思しき男女連れが現われたりするくらいで、そういう人たちも水が止まった噴水には目もくれない。公園内の街灯は明るく、でも冷たい光で噴水を照らしている、
 少し風があるせいで、公園の木々は時々ひそひそ話のような音を立てた。俺たちが吐く息もすぐに夜空に溶けてしまう。街中の人の吐息を集めてしまったせいなのか、空はややくすんだ暗い色をしていた。いくつか星は光っていたが、それよりも公園の木々の向こうに見える地上の明かりの方がよほどきらきらと輝いている。
「星が出てるね」
 俺が夜空を眺めていたからだろうか。ふと、郁子さんが呟いた。
 彼女の言葉を合図に俺は、彼女へと視線を戻す。そして空を見上げる郁子さんに尋ねてみた。
「郁子さんは星に詳しそうってイメージあるな」
「名字が星名だから?」
 即座に聞き返してきた彼女からは、言われ慣れている気配が感じられた。俺が頷くと、彼女は表情を解く。
「よく言われたなあ、それ。ちっちゃい頃も、学生時代にもね」
 しみじみ懐かしむような口調だった。
「それで、実際はどう? あの星の名前とかわかる?」
 俺が適当に頭上の星を指差すと、彼女は笑いながらかぶりを振る。
「ううん、全然。よく言われたけど、私はあんまり星座とか詳しくなくて。授業でも名前のせいでよく当てられるから、そうすると意地でも覚えてやるものかって気持ちになった」
 郁子さんは幼い頃は、随分と気の強い女子だったのだろうか。俺が目を瞠ると彼女は可愛らしく小首を傾げた。
「意外? でも子供ってそんなもんじゃない? 『星名』だから星の名前に詳しいんだろうなんて、先生からも言われたらさすがにかちんと来ちゃうでしょう?」
 そんなものかもしれない。俺自身も優等生だったとは言いがたいし、彼女の思い出話には共感できた。それでも、郁子さんがそういう子だったというのはやっぱり意外だ。
「あ、でも有名どころはわかるよ」
 そう言って郁子さんは夜空に向かって手を伸ばす。小さな手の細い指先が、宙に絵を描くみたいにゆっくり動いて、暗い空に浮かぶ微かな光を点繋ぎの要領でなぞっていく。
「こうやって見た感じ、砂時計みたいな形をしてるのがオリオン座。これは知ってるの」
「俺も名前は知ってたけど、そっか、あれがか」
 大昔に授業で習ったような気もする。でも長らく使う機会がなくて、夜空を眺める機会だってそれほどなくて、すっかり忘れかけていた。
 オリオン座はたくさんの星で構成されているそうだが、都会の空だからだろうか。肉眼でわかるのは七つが限度だった。上辺に二つ、真ん中に狭く並んで三つ、下辺にも二つ。線で結べば確かに砂時計の形に見えた。
「オリオン座の左上にある、赤くて、ひときわ光ってる星がベテルギウス」
 郁子さんは更に指を動かして続ける。
「冬の大三角の一つでもあるの。泰治くん、知ってる?」
「習ったような、覚えてないような……。夏ならまだ覚えがあるんだけど」
「あれがこいぬ座のプロキオン。そしてこっちにあるのが、おおいぬ座のシリウス」
 彼女の指が大きく左に動き、それから斜め右下に移る。俺はその動きを目で追い、夜空でよりはっきり輝く三つの星を無事に見つけられた。
「本当だ、三角形になってる」
 俺が感嘆の声を上げると、郁子さんは心なしか得意そうな顔をした。
「更にここから、冬のダイヤモンドも見つけられるんだよ」
「それは全く覚えがないな。ダイヤ型?」
「ううん。シリウスとプロキオン、それからふたご座のポルックスとカストル」
 言いながら彼女は指先を、今度は時計回りに滑らせる。
「更にぎょしゃ座のカペラ、おうし座のアルデバラン、オリオン座の右下にあるリゲルと結ぶの。そうすると……」
 冬の夜空に大きくて、少々いびつな形の七角形ができあがる。でもダイヤモンドと言われれば、そう見えなくもない。何より星々のどれもが眩く光っていて、寒空の上で震えるように瞬いている。
「わかる? あれが冬のダイヤモンド」
 郁子さんは俺の表情から、俺がダイヤモンドを見つけられたと悟ったらしい。そう尋ねてきた時既に満足げな顔をしていた。
 その顔が俺には、無性に可愛くて仕方がなく思えた。
「十分詳しいじゃないか、郁子さん」
 俺が指摘すると、彼女は照れたように目を逸らす。
「そうでもないよ。ほとんどは大人になってから覚えたんだから」
 長い睫毛を伏せた郁子さんは、まだほんのりと赤い頬をしていた。
 謙遜する割には随分と詳しかったし、それに教え方だって丁寧だ。仕事の時と同じように優しく、柔らかく教えてくれた。俺はこの人の、こういうところに惹かれたのだと今更のように思い出す。
 異動してきたばかりの頃、慣れない仕事にも、新しい人間関係にも、土地勘のない街並みにも戸惑っていた。その時、俺に優しくしてくれたのが彼女で、俺は彼女の名前を口にした時、すごくきれいな言葉だと思った。
 一番最初のきっかけはそれだった。
 星名さん。彼女の名前を覚えた時だ。
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