Tiny garden

やっぱりそれは、嘘かもしれない。(2)

 郁子さんはやっぱり、少し酔っ払っているみたいだった。
 カウンターに並んで座る俺をしばらくじっと見つめたかと思うと、次の瞬間、くすくすと堪え切れない様子で笑い出す。別に俺がおかしなことを言ったわけでもなく、思い出し笑いみたいなタイミングだった。
「な、何で笑うんですか」
 俺が問うと、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げる。そういう顔をしつつも目はまだ笑っていたが。
「ごめんなさい。今夜はすごく、デートっぽいなって感じがして」
「え……」
 思わず絶句する俺を見て、郁子さんはまた笑う。からかわれているような気もして、訳もわからないうちからなぜか恥ずかしい気持ちになる。
 大体、デートっぽいって何だ。俺たちがこうして会うのは今夜が初めてではないし、前回なんて彼女の部屋に招いてもらっていた。そこで何があったかということを踏まえれば、デートじゃないなんていう方がおかしいくらいだ。
「今まではそうじゃなかったですか?」
 今度はむっとしながら聞き返す。
「デートじゃなかったとは言いませんけど」
 と、彼女は至って穏やかに答える。
「やっぱり、上司が相手だと余計なことまで考えちゃいますよね。仕事に支障のないようにしなくちゃいけないとか、プライベートな話題にどこまで踏み込んでいいのか、とか」
 そして彼女の言うことはなかなか当を得ている。俺も肩書きで呼ばれているうちはどうにも崩せない壁があるように感じていた。だから名前で呼んでもらうことを了承したのだ。
 俺からすれば年上で、かつ今の職場では一応先輩に当たる彼女を立ててきたつもりでいたものの、彼女から見れば俺は、年下だろうが頼りなかろうが一応上司だ。同じように壁を感じていたとしても不思議ではない。
「だから泰治くんとは、もっと踏み込んだデートができるんじゃないかなと思って」
 ごく気安い口調で俺の名前を呼んだ郁子さんは、その後でまた、じっと俺を見た。
 酔いのせいなのかどうか、彼女の目は眠りから覚めた直後みたいにとろんとしている。そういう目を向けられるとこちらもかっと熱が上がるようで、慌ててグラスの中身を呷った。
 いやいや、うろたえている場合じゃない。今まで立ちはだかっていた二人の間の壁がようやく取り払われ、せっかく風向きがよくなってきたところなんだ、こっちも打って出なければ。
 グラスを空にした俺は一息つき、次の言葉を彼女に告げようとした。
 しかしそこで郁子さんが、
「あ、グラス空きましたね。もう一杯頼みます?」
 と言い、俺も仕方なく空いたグラスに視線を戻す。
「そう、ですね。じゃあ」
 出鼻を挫かれた感もあったが、とりあえず次の一杯を注文しておく。それから改めて彼女に向き直ると、彼女はまた俺を見ていた。心なしか熱っぽく、穴が開きそうなほど強い眼差しで。
 目が合って、俺がほぼ無意識に瞬きをすると、郁子さんは口紅の落ちた唇を開く。
「こんなこと、私から言い出すのも失礼かもしれませんけど……」
 前置きを聞いても何を言わんとしているのか、すぐに察せなかった。
「何ですか?」
 俺が間髪入れずに聞き返したからか、彼女は一瞬だけためらいを見せた。
「もし、差し支えなかったら、今夜は敬語もやめちゃいませんか?」
 でもそう言い終えた時には、ためらいの色はかけらも見当たらなくなっていた。それどころか、彼女がそういうあり方を強く望んでいるという意思を、生真面目な表情から窺うことができた。
 俺にとってもそれは望まぬ話でもなく、歓迎すべきことだった。しかしそれを彼女の方から告げられたのがショックだった。ショックと言うか、驚いていた。
 何よりも衝撃的に、先を越された、と思った。
 まさか彼女がそういうふうに思ってくれてるとは考えもつかなかったから。とは言え本来ならば、一応上司である俺の方から切り出すべき話だったんじゃないだろうか。
「もちろん、構いませんけど……」
 俺はもやもやしつつも了承するつもりでいたが、そこで郁子さんがにこっと笑んだので、急いで言い直す。
「構わない、けど。……郁子さんさえよければ」
「私も構わない。こっちの方がより本音で話し合えるような気がしない?」
 敬語ではなくなっても彼女の態度は自然だった。まるでずっと前からこうして話をしてきたみたいに、俺に向かって語ってみせる。
「もっとじっくり話してみたいって思ってたの、泰治くんと」
「え、本当に?」
 そんな言葉にすら俺は浮かれて、頷いた彼女に思わずお礼を言った。
「ありがとう、郁子さん。そう思ってもらえて嬉しいです……嬉しい、よ」
 まだ敬語抜きにはなれていなくて、自分でもわかるくらいぎこちない言い方になったが、とりあえず彼女には笑ってもらえた。
「泰治くんは可愛いね」
 そういうふうに言われるのは、ちょっとばかり納得いかないが。
 二十九にもなって、可愛いなんて誉め言葉に喜べる男がいるだろうか。無意識に言ってるならまだわかるものの、郁子さんはわざと言っているような気もするのは穿ちすぎだろうか。俺の反応を見て、楽しんでいるような。
「その、『可愛い』っていうのは喜んでいいのかな」
 半ば抗議の意思も覗かせつつ、俺は尋ねてみた。
「私は誉めてるつもりなんだけどな」
 郁子さんは言い切った後、俺の表情を見て目を細める。
「でも泰治くんが拗ねるようなら、そう思ってもあんまり言わないようにするね」
「拗ねるって言い方も俺としては不本意なんだけど……」
「そんな顔してないって思ってる? 今の顔はどう見ても拗ねてる顔だよ」
 彼女の楽しそうな笑い声に俺が一層抗議しようとしたところで、注文していた酒が運ばれてきた。そのせいでやり取りはうやむやのまま水入りとなり、俺はもやもやした不満を抱え込む羽目になった。
 何と言うか、ここまで客観的に見ても、彼女に主導権を取られている気がする。

 歳の差はたった三つだ。そう大きくもないと思う。
 肩書きで呼ばれるのもやめ、敬語を使うのもやめてしまった今、俺たちの間に立ちはだかる壁はないも同然だ。あとは距離を縮めていくだけ――のはずなのに。
 郁子さんは酔っているせいもあってか、随分と余裕ありげな態度でいる。俺がうろたえたり拗ねたりするのをすごく愉快そうな顔つきで見ている。そういう彼女の態度が不快なわけではないが、まるで彼女の手のひらの上に乗せられているような気分になるから困る。
 こうなったら彼女の酔いに乗じて、彼女からもっと本音を引き出してやろう。もちろん主導権だって渡さない。先日の彼女の部屋でのキスみたいに、彼女が照れてしまうような状況を作り出してやろう。

 冷たいカクテルで頭をクールダウンさせてから、俺は彼女に向き直る。
 郁子さんはまだ一杯目のカンパリソーダを飲み切っていなかった。汗をかいたグラスを手にしてはいたが飲むようなそぶりは見せず、潤んだ瞳と赤い頬でただただ見下ろしている。
「もしかしてすごく酔ってる?」
 俺に聞かれて、彼女は苦笑しながら顎を引いた。
「そうみたい。こんなに酔ったの久し振りかも」
「でもあんまり飲んでないんだよね? さっきの居酒屋でも」
 お酒に強いとは聞いていないからこんなものかもしれないが、それにしても今日の彼女はふわふわしている。もしかしたらこの店も早めに切り上げるべきかもしれない。そう思った時、彼女が言った。
「泰治くんがフォローしてくれて、嬉しかったからかな」
「……俺が?」
 そんなことあったっけ、と一瞬考えて、すぐに居酒屋でのやり取りを思い出す。うちの課の若い子が彼女に言った、悪気こそないが無神経にも思えた質問の連続は、俺にとってはあまり気分のいいものじゃなかった。
 しかし感謝を示されると、それはそれでこそばゆい。あの後、俺が郁子さんを美人だから庇ったとか、散々突っ込まれてしまったせいもある。皆のいる前ではなるべくそういう態度を取らないようにしないとな。
「余計な口を挟んだんじゃないかって思ってたよ」
 俺が正直に言うと、郁子さんは首を横に振ってくれた。
「ううん。すごく助かった」
 そして軽く肩を竦め、
「それにね、理解できないって言う子の気持ちもわかるから、泰治くんが格好いいって言ってくれたのが嬉しかった」
 と続ける。
「実際、格好いいと思うよ。一人でどこでも出かけられるって行動的で、大人の女性って感じで」
 そりゃ俺も、女性の一人旅愛好家は珍しい気もしていたが。だからって、一人旅だと言っている彼女の言動まで疑うのは失礼だと思う。あの子自身は明るくてよく働く子だけど、ちょっとずけずけしているのがなあ。
「ありがとう」
 郁子さんはお礼を口にしてから、でも、と慎重に続けた。
「でもね。私も昔は、あの子と同じように思ってた」
「一人旅のことを? そんなもんかな」
「うん。女一人で旅なんて怖くて絶対無理だって。それに一人で行っても、絶対楽しくないって」
 言ってしまってから彼女は、ふふっと笑う。
「それがいつの間にか、私にとっては当たり前の趣味になっちゃったんだから、わからないよね」
 当たり前の趣味か……。
 以前聞いた時、郁子さんは一人で旅に出る理由を、『友達が結婚やら何やらで付き合えなくなったから』だと言っていた。だとすると、友人たちが離れてしまった当初は一人旅もそう楽しいばかりではなかったのかもしれないな。寂しい気持ちを紛らわす為、あえて遠くへ出かけてみたり――なんて、勝手な想像で彼女を随分と感傷的に扱ってしまったが、実際そう的外れな想像でもないだろう。
 彼女は長い間、寂しい思いをしてきた人なのかもしれない。
 そんな推測が、ふと胸裏をかすめた。
「郁子さんは、二人旅は嫌い?」
 俺は思い立って、そんな質問をぶつけてみた。
 まだ全て言う前から彼女には、その意図がわかったみたいだ。途端に笑われた。
「相手によるかな。一緒にいて楽しい人なら、二人旅でも楽しくなりそう」
 わかった上で随分と、試すようなことを言ってくるものだ。でもせっかくだから素直に乗せられておく。
「じゃあ俺は? 一緒にいて楽しい相手になれてる?」
「うん。泰治くんといると、すごく楽しいよ」
 郁子さんは即答してくれた。嬉しかった。
 俺は単純にも舞い上がりそうになる気持ちに手綱を引きつつ、更に突っ込んで問う。
「それなら今度は、俺と二人で行こうよ。旅行に」
 すると、郁子さんは口紅の落ちた唇で控えめに微笑んだ。
「考えておくね」
「……あ。前向きな返事じゃないな」
 ちょっと期待はずれな反応だった。落胆する俺に、郁子さんもどこか申し訳なさそうにする。
「ごめんね。一応、前向きに考えておくから」
「しかも一応なのか……。郁子さん、俺といると楽しいんじゃなかったの?」
 また拗ねたような物言いになってしまった気がするが、その点について彼女からの指摘はなかった。代わりに真面目な顔つきをされた。
「楽しいよ。私、誰かと一緒にいてこんなに楽しいのも、本当に久し振り」
 そう言ってから郁子さんは水滴で塗れたグラスをようやく口元に運んで、少し飲んだ。グラスが薔薇色の唇から離れると、長く、細い溜息が聞こえた。
「でも二人旅なんてしたら、一人旅がまた辛くなるんじゃないかって気がするから」
 その言葉に、なぜだが胸がざわついた。
 先程の推測が当たっていたように思えた。
 俺が息を呑んだのに気づき、彼女もはっとしたようだ。すぐに誤魔化すような笑い方をする。
「ごめんね。今のはちょっと、重かったね」
「そんなこと……って言うかいいよ別に、重くたって」
 俺は郁子さんなら重かろうと構わない。いくらでも寄りかかってくれていい。むしろ軽い方がへこむくらいなのに。
「私が嫌なの。年下の男の子相手に重い女なんて、すぐに愛想尽かされそう」
 なのに彼女は怒ったように主張するから、それはもう、既に男の子と呼べない年頃の俺としては大いに反論したくなる。
「尽かさないよ。大体、一人旅が辛くなるっていうなら、ずっと俺とだけ旅行すればいい」
 俺の言葉に郁子さんは大きく目を瞠った。さっきまで酔いのせいで蕩けるようだった瞳に、はっきりと眼差しが戻る。大きな瞳のままぱちぱちと何度か瞬きをして、それから彼女はまた笑った。
 今度はまるで滲むみたいに、ゆっくりと微笑み始めた。
「泰治くんは本当に可愛いね」
 その上で、そんなふうに言われて、思わず脱力した。
「可愛いって……あんまり言わないようにするんじゃなかったっけ?」
「そうだったね。でも心からそう思ったの」
 特に悪びれもせず、郁子さんが追及してくる。
「実は泰治くんも、そんなに悪い気しないって思ってるでしょ?」
「お、思ってないよ! もっと違う誉め方がいいよ、俺は」
 年下とは言え三つしか違わないのだし、そもそも俺だって今年で三十になるんだ。そんな男を捕まえて、可愛いって言って喜ばれるなんて思う方がおかしい。
 とは言え、彼女にそう言われると正直、妙な気持ちになるのも確かだ。何と言うかくすぐったくて、そわそわしてしまうような。
「本当かなあ」
 郁子さんは俺を横目で見てから、残りのカンパリソーダをちびちび飲み始めた。そしてしばらくしてから、まだ落ち着かない気分でいる俺にそっと囁いてきた。
「ねえ、この後少し、外歩かない? 風に当たりたい気分なんだけど」
 袖を引かれて身を傾げた途端、耳元に唇を近づけられて、俺の心臓が跳ね上がる。わかりやすい誘いの言葉にいやでも期待したくなる。
「もちろん、いいよ」
 俺が迷わず答えると、郁子さんは俺から身体を離し、それからまたからかうように言った。
「可愛いって言われてもしょうがないと思うけどな、泰治くんは」
「郁子さんにそう言われてもからかわれてる感じしかしないな……」
「でも、好きでしょう? そういうふうに言われるの」
「好きじゃないよ、ちっとも!」
 とっさに否定したものの、やっぱりそれは、嘘かもしれない。
 俺だって郁子さんと一緒にいるのが、そしてこんな些細な軽口さえ、楽しくて仕方がなかった。
PREV← →NEXT 目次
▲top