Tiny garden

やっぱりそれは、嘘かもしれない。(1)

 課長になれてよかった、と思うことが一つある。
 それは課内の飲み会の方向性を、ある程度だが好きなように調整できることだ。
 俺は酒も飲み会自体もさほど嫌いではない。でも職場の飲み会なんて、たとえ普段どんなに雰囲気のいいところで働いていようと、多かれ少なかれ気詰まりはするものだ。
 だから飲み会を開く必要のある時は、終了時刻を事前に決めておき、きちんとその時刻に終われるようにしている。飲み会でまで『残業』はしたくないし、させたくもない。皆で軽く飲んで食べて、気分よく帰れるように心がけている。課の皆もそういう飲み会を歓迎してくれているようだ。先代の経理課長はカラオケが好きで、二次会では日付が変わるまで歌い倒すのが恒例だったと聞いているし、さらにその前の課長は毎回行きつけのスナックに皆を連れていくから、若い子たちにはあまり評判がよくなかったらしい。そういう話も聞いていたから、俺はなるべく不興を買わないようにと短い飲み会を企画するようにしていた。
 もっともこういうのはケースバイケースだ。俺自身、今のこのやり方が正しいのかどうかはよくわからない。飲みニケーション、などという単語は死語になって久しいが、もっと上の人たち、部長クラスに誘われた時はそういう手法もまだ有効なのだと感じることもある。俺ももう少し年を取ったら、違うやり方をするようになるのかもしれない。
 しかし今の俺はまだぎりぎり二十代だし、課長にもなったばかりだ。
 何もかも手探りのような、むしろ綱渡りみたいな気持ちでここまでやって来た。この気持ちもいつか、落ち着くだろうか。どっしりと構えていられるようになるだろうか。

 ともあれ、今年の新年会もいつもの飲み会と同様に、時間を決めて行った。
 お座敷席のある居酒屋に予約を入れて、二時間飲み放題のコースを頼む。乾杯の音頭も短く切り上げて、あとはめいめい好きなように飲んだり食べたり喋ったりする。
 経理課は女子社員がほとんどだから、飲み会の空気もどこか和やかだ。女性ばかりだと派手に騒いだり羽目を外したりということがなくて、平穏に過ごせる気がする――というのはあくまで男の俺から見た意見であって、本当に女性しかいない飲み会の場合はやっぱり騒いだり羽目を外したりもすることもあるらしい、なんて話も聞いた。それが嘘か真か、俺には確かめようもないだろうが。
 飲み会にあたっては特に席順も決めていなかったが、運よくと言うか何と言うか、俺の真向かいの席に星名さんが座っていた。もちろん示し合わせたつもりはないし、星名さんも俺が向かい側にいるのに気づくとちょっと恥ずかしそうな顔で会釈をしてきたから、きっと意図してここへ来たわけではないのだろう。たとえ偶然だとしても、俺は嬉しかった。
 しかし職場の皆の目もあるから、真向かいだからといって星名さんとばかり話すわけにもいかないのがネックだ。と言うより席が近くて、顔を上げれば即座に目が合うような位置取りだからこそ、かえって話しにくくなったような気がしなくもない。それこそ十代じゃあるまいしと思うが、とにかく、意識してしまうとでもいうのか。
 そして俺が周囲の目を気にしている間、星名さんは隣に座っていた若い女の子にしきりと話しかけられていた。
「ねえ星名さん、旅行って本当に一人で行ったんですか?」
 その子はどうやら早々に酔っ払ってしまったらしく、好奇心剥き出しの顔で星名さんに尋ねる。話題は、正月休みの間に彼女が行った一人旅についてらしい。
「もちろん、そうですよ。私、旅行はいつも一人なんです」
 星名さんはすぐに答えたが、尋ねた子はその答えに納得しなかったようだった。疑わしげに彼女を見てから、からかい半分の口調で切り返す。
「えー、嘘でしょう? 本当は彼氏と行ったんじゃないですか?」
「違いますよ。私に彼氏なんていません」
 あっさりと、星名さんがそれを否定する。
 その言葉は嘘ではない。だが、何となく耳に残ってしまう言葉でもあった。
「いないんですか? もったいないなあ、星名さん美人なのに」
 若い子の方はまだ信じていない様子で首を捻っている。星名さんが謙遜するみたいに笑うと、にまにましながら尚も食い下がった。
「でも一人旅っていうのはさすがに嘘ですよね? 彼氏じゃないなら、誰か気になる人と行ったとか――」
「嘘じゃないですってば。旅行に行ってくれる相手なんて、私にはいません」
 その子の言葉をやんわり遮り、星名さんが言った。
 それからふと、俺へと視線を向けてきた。
 さっきから成り行きをこっそり見守っていた俺は、星名さんがこっちを見たので少しうろたえた。俺を、一緒に旅行へ出かけてくれる相手だと思っている――わけではどうやらないようで、恐らく今のは助けを求める眼差しなのだろう。
 とりあえず、口を挟んでおくことにする。
「星名さんは一人旅が好きなんだって、以前から伺ってましたよ。ですよね、星名さん?」
「ええ」
 彼女はほっとした様子で同意を示し、質問を繰り返してきた子もそれで諦めざるを得なくなったらしく、大きく溜息をついた。
「じゃあ本当の本当に、一人旅なんですか? それはそれですごくないですか?」
「そんなことないですよ。慣れてしまえばかえって気楽でいいものです」
「そうなんですかねー……私だったら絶対無理です、一人でなんて怖くて」
 あははと笑うその子には悪気はないようだったが、無神経に感じられて俺の方がむっとした。
 確かに俺も、初めて星名さんから話を聞いた時は珍しい趣味だと思った。女性の一人旅なんて危なっかしい気もするし、女の子は集団行動が好きそうだという勝手な先入観も持っていたからだ。でも一人で日本中のどこへでも出かけられて、しかもそれを楽しんでいる星名さんは、素敵な人だと俺は思う。こればかりは、彼女だからそう思うってわけじゃない。
「一人旅ができるなんて、俺はすごく格好いいことだって思いますよ」
 だからまた、口を挟みたくなった。
 俺の差し出口に、今度は二人とも目を丸くした。それから、
「ありがとうございます。でも誉めすぎですよ」
 星名さんには照れながらお礼を言ってもらったが、例の子にはどういうわけか、疑惑の目を向けられた。
「後藤課長は、また随分と星名さんを庇いますね」
「そ、そういうんじゃないですよ」
 慌てて否定したものの疑るようなそぶりはそれだけじゃ収まらず、今度は追及の矛先がこっちへ向く有様だった。
「星名さんが美人だからそうやって庇うんでしょう!」
「違いますって! いや、美人じゃないとは言わないけど!」
「ほらやっぱり! 課長も所詮男ですよね、きれいな人には優しいんだから!」
「だから、そういうんじゃなくてね……」
 テーブルの向かい側から身を乗り出すように詰め寄られ、俺は弁解を繰り返すしかなかった。とんだやぶ蛇だ。
 星名さんが後でこっそりと、申し訳なさそうに両手を合わせてくれたので、それだけで俺の気分はいくらか晴れた。
 とは言え女性の多い職場だ。おかしな噂が立たないよう、今後は気をつけて接する必要があるだろう。俺が星名さんを贔屓しているように思われたら、彼女にだって迷惑がかかるはずだった。
 俺ももう少し、スマートに何でもこなせるようになれたらいいのに。

 飲み会が予定通り二時間で済んだ後、俺と星名さんはメールで連絡を取り合いながら別行動で次の店へ移動した。当たり前だが、二人きりの二次会が他の課員にばれないようにする為だ。
 一月の寒空の下をあまり歩かせるのも悪いから、一軒目の居酒屋近くのカフェバーで待ち合わせた。しかし俺よりも星名さんの方が土地勘があるせいで、彼女が一足先に店へ辿り着いていたようだ。『先にお店に入っていますね』というメールが届き、俺は駆け足で目当ての店へ向かった。
 暖炉の火みたいな色をした照明が点るバーの店内、星名さんはカウンター席の右端に座っていた。遅れて到着した俺の姿を見つけると、こちらを向いた表情がふっと解けた。
「遅くなってすみません」
「いいえ。一緒に来られたらよかったんですけどね」
 俺の謝罪を、軽くかぶりを振って否定してくれる。そして隣の席に腰を下ろす俺を、まるで見守るみたいに一挙一動をじっと眺めていた。その時の彼女の目は、心なしか潤んでいるようだった。
 照明の淡い色合いのせいでわかりづらいが、よくよく見れば頬もほんのりと赤い。
「……星名さん、大分飲みました?」
 酒の注文を終えた俺が尋ねると、彼女は思ったよりも明るく笑った。
「そうでもないはずだったんですけど。私、酔ってますよね?」
「俺にはそう見えます。前の時よりもお酒入ってるかなと」
「やっぱり……。さっきのお店ではそんなに飲まなかったはずなんですけどね」
 星名さんは、自分の頬の火照りを気にするように両手を添える。それから冗談めかした口調で続けた。
「この後も課長と一緒だと思ったから、つい油断しちゃったのかもしれません」
 彼女の言う通りだとしたらそれは嬉しいことだが、何となく、そうではないような気がした。何となくだが。
 もっとも、酔っ払った彼女も見てみたいと思っていた俺には、この状況はそう悪いものでもない。むしろ美味しいかもしれない。
「もう星名さんの家も知ってますし、いざとなったら俺が送っていきますから、ご心配なく」
 俺がそう告げると、星名さんは目を瞬かせながら微笑んだ。そして囁くような声で応じた。
「頼りにしています、課長」
 彼女の声はさほど大きなものではなかった。
 でもこのカフェバーの店内は控えめなジャズのBGMと穏やかな静寂に満ちていて、小声のやり取りでも周囲に拾われてしまうのかもしれない。傍のテーブル席のカップルと思しき二人連れがちらりとこっちを見た。以前のようにじろじろ見られたり、ひそひそ噂をされるようなことはなく、すぐに関心をなくしたようだったが――俺は以前、別のカフェで言われたことを思い出し、密かに気にしてみたりする。
 社内恋愛が悪いわけではない。もちろん大っぴらにしたり、公私混同したりするのは断じてあってはならないことだが、節度を守った関係でいられるのなら問題はないだろう。
 ただ、勤務時間外でまで社内の上下関係を意識する必要はあるのだろうかと思う。
 厳密に言うと俺は、星名さんとだからこそそういうものを意識したくないと考えている。肩書きを利用して誘っているつもりはないし、彼女だってそんなふうには捉えちゃいないだろう。もっと親しくなる為には『課長』なんて呼称は不必要だ。人目だって引いてしまうし、他人行儀だし、何より俺の方も彼女を名前で呼んでみたかった。
 そこまで考えた時、頼んだ飲み物が俺たちの前に運ばれてきた。
「乾杯しましょうか、課長」
 星名さんがいつものように俺を呼び、自分のグラスを持ち上げる。オレンジを添えたきれいな色合いのカンパリソーダだ。
 俺も応じようと目の前のグラスに手を伸ばし、でも持ち上げる前に彼女へ切り出してみる。いい具合に今夜の星名さんは酔い始めている。タイミングとしては申し分ない。
「星名さん。一つ、頼みがあるんですが」
「何でしょう」
 彼女がすぐに聞き返してきたから、俺も間を置かずに告げた。
「今夜からは『課長』じゃなくて、違う呼び方をしてもらえませんか」
 すっと、彼女が居住まいを正した。黙って俺を見ている顔が、ほんの少しだけ真剣さを帯びたのがわかった。
 それに応じて、こちらもなるべく真面目に続ける。
「そしてもしできたら、俺もあなたを違う呼び方で呼びたいです」
 バーの照明を映して水面のように揺れている彼女の瞳を見つめつつ、訴えた。
「こうして二人で会う時だけでいいですから……ご迷惑でなければ」
 そこで彼女は一旦俺から視線を外し、小さな泡を弾けさせるグラスを見下ろした。どこか所在なげにグラスを検分した後、こちらを向かずに目の端で俺を再び見る。
「……『後藤さん』?」
 星名さんがそんなふうに、俺を呼んだ。
 どうやらこちらの要望が通ったようだ。ほっとした俺を、しかし彼女は制するように語を継いだ。
「それとも、『泰治くん』の方がいい?」
 いきなり下の名前を口にされたことと、その呼び方と、そう口にした時の彼女のちょっと砕けた語調とに、心臓が大きく音を立てた。
「く、くん付けですか……」
 うろたえる俺に、星名さんは面白そうな顔つきを浮かべてみせる。
「そういうのは嫌ですか?」
「嫌では、ないですけど……むしろ、どきっとしました」
 俺は若干の敗北感を味わいつつも、結局は正直に答える。
 すると星名さんはまた笑い、
「じゃあ、泰治くんで。よかったら私のことも名前で呼んでください」
 と言ってもらったので、ご厚意に甘えることにした。
「……郁子さん。乾杯、しましょうか」
「ええ。乾杯」
 グラスのぶつかる涼しい音が、静かな店内に響いた。
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